(19)法然の多面性と多様な弟子が集った法然教団の危うさとは

【親鸞伝~悩み多き英雄の偉大なる生涯】(19)法然の多面性と多様な弟子が集った法然教団の危うさとは
前回の記事「(18)信行両座と信心争論~若き親鸞は尖っていた!?法然教団を騒がした事件とは」では親鸞の尖ったエピソードを紹介しましたが、その記事の最後で法然の多面性について少しだけ言及しました。
今回の記事ではその法然の多面性と法然教団の危うさについてお話ししていきます。

法然というお方はとてつもないスケールを持った偉人です。まさに日本仏教史に輝くスーパースターと言っても過言ではありません。
以前紹介した「(15)親鸞の生涯の師匠、法然上人~その教えとコペルニクス的転回とは」の記事でもお話ししましたように、法然上人は若い頃から抜群の記憶力を持ち、その博識は京の高僧たちも一目置くほどでした。そしてそれが一気に注目されたのが1186年の大原問答です。日本を代表する学僧たちが集ったその論義会でも法然は一切引けを取りません。この大原問答をきっかけに法然は名を馳せることになります。
これがまず法然の第一のポイント、抜群の頭の良さです。「知恵第一の法然房」と呼ばれるほどの博覧強記、才気煥発の弁論、これが法然の特徴のひとつになります。
そして次が持戒堅固の戒律僧としての法然です。「(14)六角堂での夢告『行者宿報偈(女犯偈)』は何を意味していたのか。親鸞がなぜ法然の下へ向かったのかの鍵がここに。」の記事でもお話ししましたが、当時の社会では僧侶の妻帯は特に珍しいことではありませんでした。肉食、飲酒も同様です。戒律に対して寛容であったのが当時の中世社会の仏教界のスタンダードであったのですが、中には戒律を厳密に守ろうとする僧侶もいました。そのひとりが法然だったのです。
法然は厳格に戒律を守りました。そしてそのことによって多くの人から支持を受けることになりますが、これにはある意外な理由が関わってきます。
当時、僧侶の任務は国家安寧や一族の繁栄などの加持祈祷だけでなく、病気治癒もその大きな役目として重要視されていました。その病気治癒には戒律を守った僧侶の方が効き目があると当時考えられていたのです。法然もまさに病気治癒の僧侶として重宝されたのです。実際、後に法然教団を強力に支援した九条兼実も法然を病気治癒の僧侶として自邸に何度も招いています。そして彼の日記『玉葉』にも「大きな効果があった」と満足した記録が残されています。
このように念仏信仰者という顔の他に、戒律を厳しく守る病気治癒者としての顔があったのが法然だったのでした。もちろん、これは単に病気治癒のためにしたというのではなく、法然自身の仏道への真摯さから来たものでしょう。当時、こうした戒律を重んじた僧侶は数多く存在しています。後にご紹介する解脱房貞慶や明恵もまさにその中心人物です。この世の終わりかと思われるほどの社会不安を体感した彼ら中世の僧侶たちですが、だからこそ原点に帰り仏法を復興させようと熱烈に動いたのです。進んだ道は違いますが法然もその一人だったということができるでしょう。これが法然の2つ目のポイントです。
そして3つ目が猛烈な口称念仏の実践者としての法然です。
記録では1日に6万篇もの念仏を称えていたそうです。これは想像もできない数ですが、法然は信仰していた口称念仏をそれこそ猛烈に実践していました。ただ、ここがさすがなのですが悲壮感が全く感じられません。むしろ悠々と自然に出てくるという雰囲気でしょうか。やはり厳しい修行としての念仏ではないのです。誰もが称えられる念仏こそ阿弥陀仏が選んだ最高の教えであるという法然の信仰がここににじみ出ています。とはいえ、1日6万篇はやはり驚異的です。
そして4つ目。今度は観想念仏者としての法然です。観想念仏については「(15)親鸞の生涯の師匠、法然上人~その教えとコペルニクス的転回とは」の記事でもお話ししましたが、目の前に実際にいるかのごとく仏様を観るのがこの観想念仏になります。法然はまさにこの達人でした。
法然は口称念仏こそ最も重要なものと説きましたが、自身は普段から極楽浄土の様相や仏様、菩薩様のお姿が見えていたようです。これは親鸞が書いた『西方指南抄』という法然伝の中にも書かれていますし、他の法然伝にも記されていますので、法然にこのような側面があったことは間違いないと思われます。そしてこれは古今東西の宗教者にも見られる現象でもあります。特に有名なのはあのイエズス会を創始したイグナチオ・デ・ロヨラです。

彼も瞑想により神秘的なビジョンを得ることができたとされています。彼の著書である『霊操』という書物を読んで私も驚きました。まさに『観無量寿経』とそっくりな箇所がありました。法然の観想念仏もこの『観無量寿経』がベースになっています。もちろん、キリスト教の瞑想と法然の瞑想ではその内容も背景も全く異なりますが、このように神仏の世界を観ることができる宗教者はやはり大きな力を持つことは間違いありません。
ちなみにですがこのロヨラに指導を受け、後に日本にやって来たのがあのフランシスコ・ザビエルです。また、同時代のスペインの修道女アビラの聖テレジアも神秘家として有名です。そしてこのアビラのテレジアの瞑想をモチーフにして作られたのがベルニーニ作『聖テレジアの法悦』になります。

ローマ・バロック芸術の傑作たるこの作品と法然の観想念仏が重なるというのは私の考えすぎかもしれませんが、法然が日常的にそうした神仏の世界を見ていたというのは実は大きなポイントなのではないかと私は考えています。
そして最後に貧民救済者としての法然です。法然は身分の貴賤を問わず、誰しもが平等に救われる道があることを説きました。これまで劣った者として見なされていた、貧しく、修行も学問もできない人々にも法然は手を差し伸べました。法然の吉水教団には様々な人々が出入りしていましたが、こうした虐げられていた人たちの悩みを汲み取っていたのも法然の大きな側面であったと言えるでしょう。
以上、ざっくりと法然の5つの側面をご紹介しました。
知恵第一の法然房、持戒堅固の法然、口称念仏の実践者法然、観想念仏の達人法然、貧民救済者法然。
この5つを見るだけでも法然という人物がいかに多面的な存在だったかがわかりますよね。
そしてその法然のさらに大きな特徴として挙げたいのが圧倒的な包容力です。
法然教団に貴賤問わず様々な人々が集ったことはこれまでも何度も述べてきました。そしてそれは弟子達も同じです。様々な背景を持った弟子達が法然を師匠として慕っていました。そしてその数は『御伝鈔』によれば300人以上だったとされています。
しかし、この法然教団は実は一枚岩ではありませんでした。それは前回の記事で紹介したエピソードでも皆さん薄々感じ取って頂けたのではないかと思います。
実は法然教団は「口称念仏」という最大公約数的な教えを中心に集まった、多種多様な思想を持った僧侶集団だったのです。
つまり、弟子それぞれは法然という圧倒的カリスマを尊敬し、法然教団に在籍しています。しかし、その思想や念仏スタイルは弟子同士ではかなり異なっていたということになります。
なぜこのようなことになってしまったのでしょう。
実はこれぞ法然の多面性に起因しているのです。
ある弟子は法然の圧倒的な博識に心打たれ、口称念仏の教えに帰依しますが、「やはり口称念仏だけではなく法然上人のように念仏の教えを深く理解しなければ意味がないのでは?」と学問方向に進んでいきます。
そしてまたある弟子は持戒堅固の法然を見て、「口称念仏で救われるのは上人の言う通り間違いないが、やはり戒律を守ることも必要なのではないか?」と戒律も重んじていきます。
そしてさらに、法然の猛烈な口称念仏の実践を見て「やはり念仏は回数が多ければ多い方が良いのではないか」と考える弟子も出てきます。
また、観想念仏の達人たる法然に敬服する弟子は「やはり『観無量寿経』に説かれるような観想念仏も口称念仏と並立して行った方がよいのではないか」と考えることでしょう。
そして貧民救済者としての法然に共感した弟子は「これは世の仕組みを変える教えだ」と社会活動に力点を置くかもしれません。
ちなみに、親鸞はと言いますと、「法然の念仏は数の多い少ないではなく、信心こそ要である」という立場です。これは親鸞が法然の信仰にそうしたものを見出したからです。
こう見てみると、法然教団が様々な考えを持つ弟子達の寄り合い所帯であることが想像できますよね。前回の記事で親鸞が兄弟子たちを試したエピソードを紹介しましたが、それにはこうした背景があったのです。それぞれ考え方が違うからこそ、「さて皆を試してみましょうか」となったのです。
法然はとにかく巨大な人間です。その圧倒的な包容力で弟子たちを包みました。そしてカルト宗教の教祖のように自分の教えを絶対化して強制することもありませんでした。これが教団が多種多様な弟子が共存する大きな理由となったのです。
また、法然自身の思想にも様々な解釈の余地があったのも事実です。法然の主著『選択本願念仏集』も読み方によっては様々な解釈が可能な余白があります。
そしてそもそもなのですが、法然が重視した『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』という3つの経典は同じ阿弥陀仏の教えを説いたお経なのですが、実は相互に矛盾する表現が数多くあります。その矛盾をどう解釈するかで各僧侶の個性が出てきます。
法然は法然なりにそれを『選択本願念仏集』に記しました。しかしそれを絶対的な解釈として弟子に示そうとしなかったのが法然だったのでした。弟子達が何をして、何を学ぶべきかも各自の裁量に任されています。もし、法然をトップにした厳格な教団であったならば最初から統制があったはずです。そして法然の後継者選びや、その後の教団の運営なども決められていたはずです。ですがそれもありませんでした。ここに法然の特徴があります。法然には様々なものを受け止める巨大すぎる包容力がありました。たとえ自分と違う考え方でも念仏信仰の中にいればいずれ正しい道に進んでくれるだろうという思いもあったかもしれません。
また、法然は自分の権威で人を動かそうという考えをほとんど持ち合わせていません。つまり、とびっきりの人格者でありました。政治的駆け引きや集団行動の先導者という性格がほとんど見当たらないのです。まさに、ただ一筋に念仏信仰に生きたと言えましょう。
こうした法然の人柄に惚れ込んだ者たちの集合体、これが法然教団の実態でした。良く言えば自由な環境とも言えますが、逆に言えばこれは統制がない分何かトラブルがあった時は収拾がつかない危険性をはらんでいます。
実際、法然教団は日に日に勢力を増し、多くの弟子を抱えることになりました。そして彼ら弟子達が独自に布教を始めていきます。そしてさらにその弟子達の布教を聞いた多くの一般信者が好き勝手な解釈や行動をするようになっていきます。
こうした状況はついに京でも問題視されるようになっていきました。そしてついに法然教団は危機を迎えることになります。
次の記事からはこの法然教団を襲った幾多の危機についてお話ししていきます。もちろんこの危機のど真ん中に親鸞もいました。充実した法然教団での日々も間もなく終わりを迎えます。そうです。この後法然教団は朝廷から弾圧を受け崩壊してしまうのです。
続く
この記事で特に参考にした書籍はこちら
平雅行『改訂 歴史のなかに見る親鸞』
今井雅晴『親鸞聖人の一生』
平雅行『法然』
中井真孝『法然絵伝を読む』
主要参考文献一覧はこちら

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