(14)六角堂での夢告『行者宿報偈(女犯偈)』は何を意味していたのか。親鸞がなぜ法然の下へ向かったのかの鍵がここに。

【親鸞伝~悩み多き英雄の偉大なる生涯】(14)六角堂での夢告『行者宿報偈(女犯偈)』は何を意味していたのか。親鸞がなぜ法然の下へ向かったのかの鍵がここに。
前回の記事「(13)親鸞の比叡山下山と六角堂参籠~天台宗僧侶としての親鸞と千日回峰行との関係とは」では親鸞聖人(以下敬称略)の六角堂参籠についてお話ししました。

今回の記事ではその六角堂参籠で親鸞が何を悟ったのか、そして何が親鸞を法然の下へ向かわせたのかということについて考えていきたいと思います。
さて、前回の記事でお話ししましたように親鸞は六角堂参籠の95日目の明け方、観音菩薩の夢告を受けます。そこで受けたお告げの内容は本願寺公式の伝記である『御伝鈔』で次のように記されています。
六角堂の救世菩薩、顔容端厳の聖僧の形を示現して、白衲の袈裟を着服せしめ、広大の白蓮華に端坐して、善信に告命してのたまわく、「行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽」文。救世菩薩、善信にのたまわく、「此は是我が誓願なり、善信この誓願の旨趣を宣説して、一切群生にきかしむべし」と云々
東本願寺出版部、『真宗聖典』P725
これを私なりに意訳するならば次のようになります。
六角堂の救世菩薩(如意輪観音菩薩)は見目麗しい僧侶の姿で現れ、白い袈裟を着て大きな白蓮華の花に座り善信(親鸞)にこう述べた。
「修行者がどうにもならぬ運命によって女性と関係を持ってしまうことになってしまったら、私がその美しい女性となって代わりに犯されよう。そして一生の間あなたの人生を守り、亡くなるときには極楽へ導くであろう」
救世菩薩は善信にさらにこう述べた。「これは私の誓願である。あなたはこの誓願を広く人々に伝えなさい」。
これが六角堂で親鸞が体験した夢告の内容になります。
この中でも特に「行者宿報偈(女犯偈)」と呼ばれる「行者、宿報にて設い女犯すとも 我、玉女の身となりて犯せられん 一生の間、能く荘厳して 臨終に引導して極楽に生ぜしめん」という文言はかなり強烈ですよね。
かつてこの夢告の内容から親鸞が比叡山から下りたのは性欲の問題だったという説が広まった時期がありましたが、現在の歴史学の研究ではその説は否定されています。
たしかにこの『女犯偈』だけを見ると、そう読めてもおかしくはない内容です。出家僧であれば妻を持ってはならないのも当然です。
そして実際に親鸞は後に妻を持つことになるのですが、それと合わせて親鸞は「公然と妻帯した日本初の僧侶である」という言い方もされた時期がありました。
残念ながらこれも近年の歴史学で否定されています。歴史学者の平雅行氏によればこの時代、すでに僧侶の妻帯はよく行われていたそうです。比叡山や興福寺、東大寺の高僧ですら子を持ち、その子が地位や財産を相続したというのが公文書に記録されています。なので当時の仏教界では妻帯、女犯ということがそれほど重大な違反としては認識されていなかったということになります。(もちろん、戒律を守る僧も多くいましたが)
仏教といえば厳密に戒律を守るというイメージがあるかもしれませんが、日本仏教においてはその伝播時点からそもそも戒律に対する考え方が緩かったというのも事実なのです。こうした時代背景についてはいずれ当ブログでも詳しくお話ししていく予定ですが、ここではまず、親鸞の生きた時代にはすでに僧侶の妻帯はよく見られた事例だったということは強調したいと思います。
さて、それではなぜ親鸞はこの夢告によって比叡山を下りる決心をしたのでしょう。一見性欲の問題にも思えてしまう「行者宿報偈」にどんな意味が隠されているのでしょうか。実はここにこそ親鸞の核心があるのです。
ここから先は私がお話しするより、歴史学者の解説を聞いた方がきっと説得力があると思います。真宗僧侶である私が話すとどうしても自己弁護しているかのように聞こえてしまう恐れがあります。なので日本を代表する歴史学者平雅行氏の解説を聞いていくことにしましょう。少し長くなりますが非常に重要な指摘がなされていますのでじっくり読んでいきます。
親鸞はなぜ延暦寺を下りたのでしょうか。赤松俊秀氏は、「行者宿報偈」の中身を、妻帯の許可と解して、親鸞の悩みを性欲の悩みと考えました。私は赤松さんの主張には、問題が二つあると思います。一つは今、お話ししました顕密僧における妻帯の広がりです。もう一つの問題は「行者宿報偈」の理解です。「行者宿報偈」は妻帯を許可したものなのでしょうか。
「行者宿報偈」を理解するうえで、欠かすことのできない史料があります。『覚禅抄』如意輪観音の記事です。『覚禅抄』というのは、東密・真言密教の書物でして、平安時代の末ごろに覚禅という僧侶が編纂したものです。ここに「行者宿報偈」と非常によく似た話が出てきます。大谷大学の名畑崇先生が発見されたものですが、次の史料です。
本尊、王の玉女に変ずる事また云わく、「もし邪見の心を発し、淫欲熾盛にして世に堕落すべきに、如意輪、われ王の玉女となりて、その人の親しき妻妾となり、共に愛を生じて一期生の間、荘厳すること福貴を以てせん。無辺の善事を造らしめて、西方の極楽浄土に仏道を成ぜしめん。疑いを生ずること莫れ」と云々。
これは如意輪観音が美しい女性に変身する話です。「世に堕落すべき」とありますが、「堕落」「落堕」は女犯妻帯のことです。訳しますと、「修行僧の性欲が非常に強く、よこしまな考えを懐いて、女犯妻帯しなければならないのであれば、如意輪観音は美しい女性となってその人の奥さんになり、二人は共に愛しあって、一生の間、豊かに暮らさせよう。そして無数の善根を積ませて、最後は極楽浄土に往生させるだろう」。そういうお話です。
二つの話を比べると、中身がたいへんよく似ています。観音が美しい女性に変身して修行僧の妻となり、最後は彼を極楽往生させる。救世観音と如意輪観音の違いがあるものの、二つの話は筋立てがそっくりです。内容が類似しているだけでなく、言葉もよく似ている。「玉女」や「荘厳」はどちらにも出てきます。「一生」と「一期生」もよく似ている。これは何を意味するのでしょうか。
考えられることはただ一つ、この『覚禅抄』の話をもとにして、「行者宿報偈」ができたのです。親鸞は六角堂で「行者宿報偈」を受けましたが、それ以前から如意輪観音のこういう話を事前に知っていた。知っていたから、ほぼ同じような話を夢のお告げとして受けることができたのです。
大切なのはここからです。親鸞は以前から如意輪観音の話を知っていました。ところが、その時点では行動を起こしていません。親鸞が延暦寺を出奔したのは「行者宿報偈」を受けた時であって、如意輪観音の話を知った時には何もしていない。なぜ如意輪観音の話ではダメで、「行者宿報偈」で出奔することになったのでしょうか。このことが分かってはじめて私たちは、親鸞の悩みに触れることができるはずです。
しかも「行者宿報偈」では、救世観音はこの誓願を一切衆生に説き聞かせるよう、命じています。また、親鸞もその伝道に生きようと決意しています。でも、この「行者宿報偈」の内容が妻帯の許可なら、そんな布教に何の意味があるのでしょうか。いかに仏教とて、俗人の妻帯を禁じていません。禁じられてもいない人々に向かって、妻帯が許された話をすることに、何の意味がありますか。観音は親鸞に無意味な布教を命じ、親鸞も無意味な伝道に生きることを決心したのでしょうか。そんなことはないはずです。つまり「行者宿報偈」は妻帯の許可ではないのです。
では、それは何なのか。親鸞はなぜ、如意輪観音の話を知った時ではなく、「行者宿報偈」を得た時に延暦寺を飛び出したのか。それを理解するには、ニつの話の相違点に着目しないといけない。その違いが分かってはじめて、この問いに応えることができるのであり、「行者宿報偈」の中身を正確に理解することができるのだろうと思います。
では、どういう違いがあるのでしょうか。如意輪観音の話では、「淫欲職盛」や「邪見の心」が原因で女犯妻帯に至るとされています。抑えようと思えば抑えられるのですが、意志が弱いためにそれができない、こういう意志薄弱な男に対し、妻帯を許可するというのが『覚禅抄』の話です。
ところが「行者宿報偈」では、「女犯」は「宿報」とされています。彼の女犯は運命なのです。どんなにあがいても、逃れることのできない宿命として、女犯が位置づけられています。だけど、実際には女犯が宿命であるはずがない。そんなものが運命であるはずがありません。ということは、ここで語られている「女犯」は、本当は女犯のことを指しているのではないのです。
親鸞が「女犯」を「宿報」と表現した時、「女犯」は比喩、暗喩になりました。「女犯」は、本人の意志を超えた普遍的で絶対的なあらゆる罪業の象徴表現と化したのです。その結果、意志薄弱な男に対する女犯の許可という如意輪観音の話は、普遍的人間における罪と救済のドラマへと昇華されました。「行者宿報偈」は女犯の許可ではありません。あらゆる人間が背負う普遍的で絶対的な罪業への赦しの世界、これが親鸞を法然のもとへと衝き動かしたのです。
私たちは、否応なしに罪業を犯さざるを得ません。やりたくないと思っていても、社会で生きてゆく限り、イヤなこともやらざるを得ません。私たちは自分のためだけに生きているのではない。子や家族・友人に対する責任もあれば、社会のさまざまな組織のなかで無数の責任を背負っています。市民・国民としての責任や、人間としての責任もあります。自分のためだけに生きているのであれば、やりたくないことは、やらなければよい、話は単純です。でも、子をもち、家族をもち、友人・仲間や部下をもてばもつほど、私たちの生き方はむずかしくなります。私が何かをした時、それははたして私が望んでやったことなのでしょうか、それとも私が背負っているモノ(煩悩)が、私にやらせたことなのでしょうか。私たちは自由なように見えますが、実際は煩悩の奴隷なのかもしれません。
こんなことまでして、生きてゆかなければならないのか、そう慨嘆したくなる瞬間が誰にでも訪れるはずです。そうです。私たちは「こんなこと」まで否応なしにやりながら、社会のなかで生きているのです。そして「こんなこと」、つまり私たちが犯さざるを得ない罪業の象徴表現として「女犯」が登場しています。私たちは生きてゆくために「こんなこと」までやらざるを得ませんが、しかしそういう苦悩を背負った存在であるがゆえに、私たちはまた赦される。そういう思想が「行者宿報偈」には見えています。親鸞の悪人観、私たちは否応なく悪人たらざるを得ない、しかし、それゆえに私たちは阿弥陀仏によって救済されるのだという、親鸞の悪人観のまさに原型ともいうべきものが、この「行者宿報偈」のなかに登場しています。親鸞は六角堂の参寵で新しい啓示を受けました。「親鸞思想の原型」ともいうべきものを、親鸞はこのとき手に入れたのです。だから親鸞は延暦寺を飛び出した。直感的に得たこの啓示は、何を意味しているのか、どのようにすればそれを普遍的なことばに昇華させることができるのか。そのことを説明してくれる師を探し求め、ついに法然と巡り会います。
もう一つ大切なことがあります。「行者宿報偈」の最後で、救世観音はこの誓願を一切群生に説き聞かせるよう命じ、親鸞もその伝道に生きることを決意しています。そして実際、親鸞は誓願の布教に生涯を懸けました。流罪が赦免された後、京都に戻ることなく、親鸞は東国伝道に赴いています。「行者宿報偈」は親鸞思想の原型であっただけではありません。親鸞の生涯をも決定づけるような夢のお告げであったのです。
親鸞は何に悩んで六角堂に参寵したのか、答えはおのずと明らかでしよう。そうです。親鸞はこの時に「親鸞」になった、私はそう思います。「親鸞」はこの時に誕生したのです。六角堂の参龍とは、親鸞思想が誕生する産みの苦しみに他なりません。建仁元年(一二〇一)、親鷲二十九歳の時のことです。
法藏館、平雅行『歴史のなかに見る親鸞』P99-105
かなり長い引用になってしまいましたがいかがでしょうか。
私はこの平氏の説に全面的に賛同します。
私自身、京都の大谷大学大学院で親鸞思想を研究し、その後も親鸞の生涯についてずっと考えてきました。その親鸞聖人がはたして性欲の問題だけでここまで悩むだろうかというのは私自身も思っていたのです。性欲ももちろん修行者においては滅すべき煩悩ですから大きな問題であることは当然です。しかし親鸞の著作、特に『教行信証』を読めば読むほど、個人の問題を超えた人類普遍の問題にとことんまで悩み続けたであろう親鸞の姿が透けて見えてくるのです。
だからこそ私自身も親鸞の「行者宿報偈」は単なる女犯ではなく、人間存在の象徴として説かれたものではないかと考えていたのです。そんな私がこの平氏の著作を読んだ時の驚き、喜びと言ったらなんと述べてよいかわかりません。私が薄々感じていたことがまさにここで言語化され、論証されたのです。特に『覚禅抄』との比較はあまりに鮮烈でした。単なる性欲の問題であるならば『覚禅抄』で話は尽きているのです。親鸞はそれをさらに深め、「避けることのできぬ運命」にまで昇華させました。
平氏が述べますように私もこの六角堂の夢告が親鸞を親鸞たらしめた最大の出来事だと考えています。親鸞はすでに比叡山で膨大な経典を読み、阿弥陀仏信仰についても詳しく知っていたはずです。もちろん、当時京で有名になっていた法然のことも知らなかったはずがありません。
知識としては親鸞の頭にすでにあった。しかしそれが自分の人生を懸けるほどのものなのか確信を持つことがどうしてもできなかった・・・。だからこそ六角堂に参籠し、行者のごとく一心に祈り続けた。そして「確たる体験」として観音菩薩の夢告に出会ったのです。これが親鸞の人生を一変させたことは間違いありません。
後に改めてお話ししていきますが、これには親鸞の仏教観、世界観も影響しています。「この世はすでに最悪の時代となってしまった」という末法思想を強烈に信じていたのが親鸞という仏教者でありました。その最悪な時代において私たちひとりひとりに救いはありえるのだろうか、それに悩んだのが親鸞なのです。
このことを考えると、改めて幼い親鸞が出会った『方丈記』の情景をどうしても連想しまいます。「⑸『方丈記』から見る親鸞出家時の京都の地獄とは~死体が鴨川を埋め尽くす大飢饉・・・」の記事でも詳しくお話ししましたが、親鸞が出家した当時、目の前で人がどんどん死んでいく地獄のような世界がありました。そんな中自分がいくら修行しようが彼らを救うことができないのではないかという根源的な問いが生まれていてもおかしくありません。親鸞には「自分一人」の救いよりも「すべての人」が救われるべき仏道を志向する傾向があるように私には思われます。その原点があの『方丈記』の世界だったのではないかと私は思うのです。
その原点とこの六角堂参籠がつながっていると思うのは私の考えすぎでしょうか。
親鸞は例のごとく何も書き記してはくれません。なので本当のところは誰にもわかりません。ですが今回の記事で見てきましたように、この六角堂参籠は親鸞の人生においてとてつもない意味を持っているのは間違いないのではないかと思います。
次の記事ではいよいよ生涯の師となる法然との出会いについてお話ししていきます。この出会いが親鸞の仏道を決定づけていくことになります。ぜひ引き続き若き親鸞の姿を追っていきましょう。
続く
この記事で特に参考にした書籍はこちら
平雅行『改訂 歴史のなかに見る親鸞』
今井雅晴『親鸞聖人の一生』
上島享『日本中世社会の形成と王権』
平雅行『日本中世の社会と仏教』
大谷大学真宗総合研究所著『親鸞聖人七百五十回御遠忌記念論集[下巻】親鸞像の再構築』
光永圓道『千日回峰行を生きる』
主要参考文献一覧はこちら

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