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(27)師匠法然の死去と親鸞の沈黙~なぜ親鸞は法然の下に駆け付けなかったのか

法然、親鸞
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【親鸞伝~悩み多き英雄の偉大なる生涯』(27)師匠法然の死去と親鸞の沈黙~なぜ親鸞は法然の下に駆け付けなかったのか

前回の記事「親鸞の罪人生活の終わり~非僧非俗「愚禿釈親鸞」の名乗りとは」でお話ししましたように、1211年11月17日に親鸞は罪を許され、自由の身となりました。

そして同じタイミングで師の法然も赦免となっています。

法然はこれまで現大阪府の勝尾寺に留め置かれておりましたが、この釈免により京に帰られます。

ようやく罪が許され自由となった親鸞です。離れ離れになっていた法然に真っ先に会いに行くかと思いきや意外や意外。親鸞は越後から動いた形跡がありません。

しかもそうこうしている内に当時78歳というご高齢であった法然は翌1月25日に亡くなってしまいます。こうして親鸞は法然と再会することなく、今生の別れとなってしまったのでした。

親鸞が法然の下に馳せ参じなかったことを私たちはどう受け止めればよいのでしょうか。「本当に尊敬する師匠ではあれば何を打ち捨ててもまずは会いに行くだろう」と考える方もおられるかもしれません。

しかし赦免は11月17日ですからすでに冬へと差し掛かろうかという時期です。しかもその時にはすでに子も生まれていました。そんな時に家を離れて京都に向かうというのは難しかったかもしれません。さらに、亡くなった1月は完全に雪の季節です。この時期に越後から京都に向かうのは無謀です。こういうわけで親鸞は京へ行けなかったのではないかと思われます。

また、私が特に注目しているのが法然の遺言書に書かれている次の言葉です。

門弟たちの服喪の仕方について、いろいろと思うところがあります。自分の所に籠もって念仏に励む意志のある門弟や同朋たちは、私が亡くなった後に決して一つの所に集まってはなりません。その理由は、「ともに仲良く集まっているようであっても、人は集まれば必ず争いが起こる」という箴言は真実だからです。十分に言動を慎まなければなりません。私の希望では、わが同法はわが死後、自分の所に留まって、お互いに会うのを避けるに越したことはありません。争いごとのもとは、人が集まるからです。願わくは、わが門弟・同法たちは、それぞれ閑かに自分の住居の草庵に留まって、心から私が新しく浄土の蓮台に生まれることを祈ってください。決して、一所に集まっても、争いを起し怒りを懐くことがあってはなりません。私の恩志を知る人は、これから少しでも違わないようにしてください。

春秋社、新井俊一『親鸞『西方指南抄』現代語訳』P174

いかがでしょうか。まさに親鸞聖人の行動はこの遺言に沿っているように思えます。親鸞が法然没後この遺言書をすぐに見ていたかは不明ですが、こうした遺言書を待たずしてこの内容を聞いていた内容は大いにあります。

と言いますのも、親鸞が法然から『選択本願念仏集』の書写を認められたのは1205年のことです。つまり、その頃には高弟として法然から信頼されていたのは間違いありません。そしてその頃にはすでに法然は70歳を超えた高齢でした。なので、こうした遺言書を待たずして、同じような話を親鸞にしていたとしてもおかしくありません。

1205年といえば「興福寺奏上」で教団が揺れていた時期です。教団内がもはや法然ひとりではどうにもならないほど混乱していたことは皆さんも記憶にあると思います。法然はそうした現実を見ていたからこそ「わが同法はわが死後、自分の所に留まって、お互いに会うのを避けるに越したことはありません。争いごとのもとは、人が集まるからです。」と願ったのでしょう。

それにしても「ともに仲良く集まっているようであっても、人は集まれば必ず争いが起こる」と説く法然の心境には痛み入るものがあります・・・。まさに法然教団はカリスマ法然を慕う人たちの集合体でありました。そのためその法然がいなくなってしまったらどうなるのか、それを法然は見越していたのではないでしょうか。だからこそそれぞれの場所で念仏し、祈って下さいと願ったのでしょう。

そう考えると親鸞が越後から動かなかったのは師法然への尊敬の念が少なかったからではなく、師を尊敬しているからこそだったのだということが見えてくるのではないでしょうか。

深い信頼関係があるからこそ距離は離れていても念仏で通ずるものがあったのです。私はこうした師弟関係を思うといつも胸が熱くなります。

こういうわけで、親鸞は赦免後も越後から移動せずに念仏生活を送り続けることになります。この時点では日本の歴史において親鸞は無名に等しい存在です。もしこのまま越後にいてひっそりと念仏生活をしていたとしたら、日本の歴史は全く違うものになっていたでしょう。

ですがご安心下さい。英雄たる人間は英雄たる人生を生きるものです。本人の意思を超えた何かが背中を押すのです。

親鸞はやがてこの越後の地から新天地関東へと旅立ちます。

次の記事からそんな親鸞の活躍を見ていきましょう。

続く

この記事で特に参考にした書籍はこちら

平雅行『改訂 歴史のなかに見る親鸞』
今井雅晴『親鸞聖人の一生』
平雅行『法然』
中井真孝『法然絵伝を読む』
新井俊一『親鸞『西方指南抄』現代語訳』

主要参考文献一覧はこちら

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この記事を書いた人

真宗木辺派函館錦識寺/上田隆弘/2019年「宗教とは何か」をテーマに80日をかけ13カ国を巡る。その後世界一周記を執筆し全国9社の新聞で『いのちと平和を考える―お坊さんが歩いた世界の国』を連載/読書と珈琲が大好き/

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