三島由紀夫『インドの印象』~晩年の三島はインド旅行で何を見て何を思ったのか。『豊饒の海』にも強い影響!

三島由紀夫 インドの印象 三島由紀夫と日本文学

三島由紀夫『インドの印象』~晩年の三島はインド旅行で何を見て何を思ったのか。遺作『豊饒の海』にも強い影響!

今回ご紹介するのは1967年10月20、21日の毎日新聞(夕刊)に掲載された『インドの印象』というインタビュー記事です。私が読んだのは新潮社、『決定版 三島由紀夫全集 第34巻』所収版です。

このインタビュー記事は毎日新聞社記者徳岡孝夫氏が聞き手となり、三島由紀夫にインタビューを行っています。

徳岡孝夫氏は1970年11月25日の楯の会事件で三島由紀夫本人から市ヶ谷に来るよう呼び出され、その事件を見届けるよう依頼されたという、三島から深く信頼されていた記者です。この時の顛末が書かれた『五衰の人 三島由紀夫』は実に素晴らしい作品で私も愛読しています。

そんな徳岡氏が三島由紀夫と親交を深めるきっかけとなったのがバンコクでの再会でした。三島は1967年にバンコクに滞在し、その時ちょうど同地に駐在していた徳岡氏と連日のように会うようになっていたのです。

作家と記者というよりまさに旧知の友人同士という空気で二人は過ごしていたそうで、そんなリラックスしたムードから『インドの印象』というインタビュー記事が生まれました。

今回の記事ではその『インドの印象』の全文を読んでいこうと思うのですが、その前に徳岡氏と三島由紀夫がインドについて語り出したそのきっかけとなるやりとりを『天人五衰 三島由紀夫私記』から見ていきます。

昨夜は招待されて入しぶりに日本食を食ってきたと三島さんは言い、その日本料亭の名を挙げた。

「洲崎パラダイスそっくりだったでしょ」

「まさにその通りだ。ハッハッハ」

そのあとは、もっぱらインドの話になったと思う。正確には覚えていないが、私がインドをボロクソに言うのに対し、三島さんはインドを誉めちぎった。

インド嫌いは、それより三年前の旅行の体験に基づいていた。東京にオリンピックのあった一九六四年、日本人グループ六人の隊長兼渉外係として、私はギリシャのオリンピアからインドのカルカッタまで、聖火の中継地を結ぶルートを日本製の小型車で走ったことがある。後に湾岸戦争やアフガン戦争の舞台になった暑熱荒涼の地で、いろいろ苦しい思いをした。そのときの正直な気持ちは、これがインドを終着地とせず逆にインドから遠ざかる旅ならどんなにいいだろうというのだった。

清潔好きの日本人は、えてしてインドに激しい拒絶反応を示す。私は床に落ちたパンを拾って食うくらい平気だが、インド(とくに田舎)に充満する物乞い根性が堪らなかった。

国道一号線に当たるGTロードが、ソン川でプツンと切れている。道路橋がないのだ。近くの駅へ行って、日に何本かある車を積んで川を渡る専用貨車の順番を待つ。その間に物乞いが来る。やっと積んで鉄道橋を渡っている間にも来る。きみら、そんな暇があったら働いて橋を架けろよ、ネール首相(東京五輪直前に死去)は世界を相手に高遠な説教をする暇に国内の貧困とタカリ精神を何とかしろよと、私は怒鳴りたかった。

だが、そういう例を挙げてインドをコキ下ろすと、三島さんは笑った。いやそれは間違っている、インド人に「日本のようになれ」と命令するのはよくない、あれほど旧套を頑固に墨守する精神はなにものか、、、、、だと、私の幼稚な感情論を寄せつけなかった。後に何度もインドへ取材に行き、私のインド観は少し改まったが、その夜はインドに感心している三島さんが信じられぬ思いだった。

文藝春秋、徳岡孝夫『天人五衰 三島由紀夫私記』P90-91

ここで徳岡氏がインドについて述べていることは私もよ~くわかります。くしくも2023年夏に私も初めてインドに行ったのですが全く同じ感想を抱きました。あの汚さ、カオスぶりにはどうしても馴染めません。滞在四日目にしてお腹を壊し、その洗礼を受けるという散々なものになりましたが徳岡氏が訪れた1964年からほぼ60年経った現代ですらこうなのです。もちろん、都市部では大きな変化が起きていますが、それでも私はショックを受けました。かつてのインドがどのような状態だったかは想像を絶するものがあります。しかし、そんなインドを三島由紀夫は褒めちぎったというのです。

そして上のやりとりの数日後、「遊んでばかりいちゃ時間がもったいない。インタビューでもやりましょうか」と徳岡氏が提案し、インタビューが組まれることになります。「半日がかりの贅沢なインタビューで、いま読み返すと三島さんはインドと中国と日本、それにもちろん自分について語っている。改めて驚くのは、彼がインドに魂を奪われ、心からインドに感動していることである。」と徳岡氏はこのインタビューについて述べています。

では、本題のインタビュー記事『インドの印象』を読んでいくことにしましょう。

インドの印象

—インドはひとり旅だったんですね。

さうです。ぼくは団体のツアーが大きらひでね。こんどはインド政府の招待で、いはば公的な旅行だから、一人で、朝から晩までぎっしりのスケジュールをこなして来ました。まづボンベイに着き(9月26日)オーランガバード(29日)ジャイプール(10月1日)アグラ(2日)ニューデリー(3日)ベナレス(7日)カルカッタ(8日-11日)といふ順序です。

オーランガバードではアジャンタ、エローラの両遺跡、ジャイプールではピンク・シティ(十八世紀にマハラジャ・ゼイソンが建てた桃色の町)とアンバー城。アグラではタジマハール、ベナレスでは郊外のサールナートと市内のガート(ガンジスの川辺の石だたみで、ここで水浴も休息も火葬もする)です。ガートは非常に面白くて、二度も見に行きました。

この間にマラティ語、グジャラティ語、ヒンディ語、ベンガリ語などの作家や大学教授に会ひ、首都ニューデリーではフセイン大統領、ガンジー首相にお目にかかりました。カルカッタで会った若いベンガリ詩人たちの詩のなかには、ぼくは英訳で読んだのだけれど、シンプリシティがあつて、なかなかいいのがありました。ベンガルには、たしかにタゴールの影響が残ってゐますね。こんど帰つたら、いくつかの詩を訳してみようと思つてゐる。

新潮社、『決定版 三島由紀夫全集 第34巻』P585
ベナレス(ヴァーラーナシ) Wikipediaより

三島由紀夫は1967年秋に15日をかけてインドを旅しました。そのルートは広大なインドをぐるっと周遊するまさに強行軍です。

ーはじめてのインド旅行。それはあなたにとつて「新世界」の発見でしたか。

実は、インドには、いままであまり魅かれなかった。ところが行つてみると非常に魅力を感じてね。そして、ほんとに女房を質においても来るべきだと思つた。

ーその感動を、もつとくはしく話してください。

もちろん、かいなでの旅行者ですからね。浅い観察にしか過ぎないだらうけれど。いままで、はつきりいつてインドには、食糧危機、旱魃、人口問題はじめあらゆる難題をかかへて、どうにもならん国だといふ印象を持つてゐたんです。だが、行つて、この目で見て、私の気持は変はつた。これだけの大きい国が、これだけぐわんこに旧套墨守をやってゐる。六億もの人間が、言葉にしろ、宗教、生活習慣にしろ、これだけともかくも西欧化に抵抗して旧套を守つてゐる。これはやつぱりなにごとか、、、、、だと思つたですね。

文明とか文化とかいふものの性格は長い目で見なければわからない。現代の世界では、どこからどう見ても近代化、西欧化を急ぐことが国家にとつて最大の要請であるといふことになってゐます。だが、長い目で見るとインドのやうな行きかたは、きつとなにかだと思ふ。そして、ぐわんこに一つの文化をかかへこんでゐるインド民族、その根ざしてゐるものがなにか、と考へると、それはやはり「自然」ですね。ベナレスでは、とりわけ、インド人が自然をどう考へてゐるかといふことがわかり、強烈な印象を受けました。それは荒々しい自然なんです。たとへばベナレスのバーニング・ガート(ガンジス河畔の火葬場)。死体を焼いてゐるそばで魚をとつてゐるし水浴もしてゐる。これほど強い印象はなかった。

ー「恒河ガンジス」ーそれはインド文明の混沌のなかにひかれた一つの座標軸といふわけですか。

それ以上でせうね。生活の根ですよ。ガンジスはインドの自然の一番中心にあつて、ガンジスに対する信仰が、昔も今もインドの精神史を支配してきたんですから。人間と自然をつなぐパイプがはつきりとほつてゐる。そのパイプがガンジスなんです。ふつうの文明社会では、このパイプが断たれてゐますからね。このパイプは、また、自然と超自然をつなぐものでもあるんぢやないでせうか。

ーインドについての先入主は完全に裏切られたわけですね。

ぼくたちだけでなく日本人はインドに先入主を持ちすぎてゐる。六、七年前までカルカッタの町でたくさんみかけたといふハンセン氏病の乞食などもほとんどゐなくなつたし……。ほかと比較しなくちゃいけないですよ。ぼくはアラブ諸国も西インドの国々もまはつたけれど、西インドの某国などにくらべるとインドはどれだけいいかわかりやしません。招待旅行といふこともあつたと思ふが、旅行中イヤなことはちつともなかつた。

新潮社、『決定版 三島由紀夫全集 第34巻』P586-587

「これはやつぱりなにごとか、、、、、だと思つた」

三島にとってベナレスで見た光景はよほど強烈な印象があったのでしょう。ここでの体験は彼のライフワークである『豊饒の海』の第三巻『暁の寺』にそっくり書かれています。

ー見たものについて、記憶に残ることを話してください。

一枚岩をくりぬき、掘りぬいたエローラのヒンズー寺院はすごかつた。ぼくは、マヤのチチェン・イッツア、それからクメールのアンコールワットとエローラをくらべてみた。三つともちよつと似かよつたところがあるが、なかでエローラがもっともリファインされてゐますね。野蛮で恐ろしいのはマヤです。ヒンズーといふのは、人々が考へてゐるよりずつと洗練され磨きあげられた宗教ぢやないかと思ふんです。

ー寺院も寺院だが、信仰をする人々、つまりレリジョン・イン・アクションはどうでしたか。

これはもう……インドでは宗教が生きてゐます。あれだけ宗教がナマナマしく生きてゐる国は見たことがありませんね。たとへば、ベナレスで、のぼる朝日を拝んでゐた老人。ガンジスで水浴をしてゐた人たち。カルカツタのカリー寺院で大母神カリーのため牡ヤギの首を切つて犠牲いけにえをささげてゐる人々。文字どほり生きてゐる宗教ですね。

ー実践を持つてゐる宗教は強いといふことぢやないですか。キリスト教を例にとつても、宗教改革いらいプロテスタンティズムは、宗教とは人間の頭のなかの問題である、といつてきた。ところが、長い目で見るとカトリシズムのはうが結局は強かつたといふやうな……

さうです。現代の人間が、自分の良心の力だけで自己の魂にベルトを締めることができるかどうか。人間は、目で見えるもの、なにか形のあるものに直面することによつて魂をゆすぶられるんです。だからカトリックの荘厳な儀式、祭服、音楽、彫刻といつたものは大切です。ヒンズーも同様だが、生きてゐる宗教とはそんなものなんですよ。プロテスタンティズムのやうなものは理論としてはりつぱだし、啓蒙主義の時代には役立つたかもしれないが、いま宗教が復活するとすれば、あんな形では絶対に復活しませんね。人間を苦しめるだけですよ。

新潮社、『決定版 三島由紀夫全集 第34巻』P587-588
エローラ遺跡 Wikipediaより

私も2023年にエローラの石窟寺院に行きましたが、たしかにこの一枚岩を彫って作られたヒンドゥー寺院は圧巻です。三島が「ヒンズーといふのは、人々が考へてゐるよりずっと洗練され磨きあげられた宗教ぢやないかと思ふんです。」というのはまさにその通りで、私もインドの様々な遺跡や彫刻を見ましたがその圧倒的な文化水準には何度も驚かされました。

そして宗教の儀式や形式についてここで三島が述べていたのも興味深いです。

ーインドで会つた人について。

大統領にはニューデリーの官邸で会ひました。実にりつぱなかたでした。「国家の工業化はやらなければならないし、近代化は避けられないが、それに伴ふ害毒についてどうお考へか」と聞いたところ「その害毒には絶対に限界があることを信じてゐる」といふ答へでしたね。それは強烈な自信でした。ぼくは、日本で、これだけいへる人があるかどうか疑問だと思ひますね。つまり大統領の言葉のうらには、さつきいつたインド文化の自信があるんですよ。ただ皮肉な見方をすれば、まだ日本ほどその害毒を浴びてゐないからぢやないか、ともいへるが。

ーインディラ・ガンジー首相は?

部屋のなかに一人ですわつてをられたが、非常に疲れ、悲しさうな、といふ第一印象でした。しかし話してゐるうちに気持がほぐれてきたんでせう、実にきれいな微笑を浮かべ、話が食糧問題になると目が熱を帯びてきましたね。

ーほかにどんな人に?

ニューデリーで、こつちから頼んでインド陸軍の大佐に会ひ、どういふふうに中共軍がちがふかといふことについて実に端的な話を聞きました。中共兵は、一線、二線、三線とあつても、第一線だけしか武器を持つてゐないんださうです。ところが第一線を撃破すると、第二線がたちまちその武器を拾つて向かつてくるといふんです。それを破るとまたつぎ、といつたふうに、人員損失をへとも思はないのにはほんとに閉口するといつてゐましたね。

文化的な指導者たちにも会ひましたが、かういつたえらい人たちのなかには自分で延々とまくしたてる人がゐて、ぼくは三時間もだまって拝聴してゐたことがありました。気持がよかつたのは、カルカッタなどで若い作家たちとゆつくり話したことでした。かういつた人たちとは気持がふつうに通じて……。

新潮社、『決定版 三島由紀夫全集 第34巻』P588-589

さすがインド政府から招聘されてインドへやって来たとあって、三島は錚々たる顔ぶれと面会しています。そのなかでも軍部にわざわざ会いに行っている点はやはり気になります。

また、後半の延々と話し続けるインド人については清好延著『インド人とのつきあい方―インドの常識とビジネスの奥義』でも書かれていたので、三島もこういうインド人にうんざりしていたのだなと思うとくすっとしてしまいました。

ー「ヒンズー文明は個性はあるがまとまりに欠ける文明である」といふのが岩村忍氏(京大教授)の定義ですが賛成ですか。

ヒンズーの汎神論は必ずしも多神論ぢやない。神は創造者、保持者、破壊者の三つに分かれてゐる。永遠不変の真理から三つの神格が出てるんですよ。保持者のビシュヌは、人間を滅ぼさうとする悪とたたかふために十変化をする。仏陀は、その九番目の変身に過ぎないんです。ビシュヌが十番目の変化(カルキ)をするとき、それは世界が救ひがたい悪に直面するときだ。そのときビシュヌは現在の人間を救へずに世界を再創造する、といふことになつてゐる。カルキで消毒するわけかな。(笑)

そしてビシュヌ、カリー、シバなどそれぞれの神がインドの各地でそれぞれ地域別に〝専門化〟されて信仰の対象になっている。そして、さうして世界の源流がガンジスで、そのみなもとがヒマラヤだ。人間は、死ねばみなベナレスへ行つて灰になってガンジスに戻る。さうして転生、輪廻をするんです。ヒンズーイズムは、むしろ、まことに明快な世界だと思ひますね。

ーヒンズーイズムと「自然」との結びつきは?

ぼくは宗教の普遍性と文学・芸術の普遍性とはちょっと似てゐると思ひます。たとへば仏教は、それを生んだインドでは死に絶えてしまつた。しかし哲学体系として完成し、普遍性を持つてアジア各地にひろがつた。キリスト教とユダヤ教も同様です。あとに残つたヒンズーイズムとかユダヤ教といったものは普遍性はないかはりに土着性の強い信仰になつて根づよく自然と結びついてしまった。ヒンズーの自然との密着度はすごいですよ。しかし、それがために、かへつて普遍性はないんです。文学・芸術についても同様のことがいへるんぢやないかと思ひますね。

新潮社、『決定版 三島由紀夫全集 第34巻』P589-590

三島由紀夫はインドについてかなり強い関心をもっているようです。インターネットで何でも簡単に検索できる時代とは違います。自分から積極的に情報を集めなければここまでヒンドゥー教について知ることはできません。こうしたインドや仏教への強い関心が三島文学、特に『豊饒の海』にも大きな影響を与えているようです。

ー「アラカン山脈(ビルマと東パキスタンの国境)より西には謙譲の美徳はない」と梅棹忠夫氏(京大助教授)が書いてゐます。インド人の厚顔、押しの強さが、多くの日本人旅行者に不快や失望を与へてゐます。あなたの場合はどうでしたか。

ぼくはインド人のヨーロッパ的性格といふことを非常に強く感じました。契約の精神、自己主張のはげしさ、なんでもディスカッションにしちまふし、なんでも論理の対立にもつていかずにはをれない性格―。自己主張から自己宣伝から形而上学的世界観に至るまで二時間でも三時間でもまくしたてる。それは実にヨーロッパ的です。ちよつと風変はりな連想だけれど、ぼくはドイツ人によく似てるなあと思ひましたね。

あるところで、日本人とインド人はどう違ふか、と聞かれたとき「日本人はディスカッションを避けるが、君たちは友だちになればなるほどディスカッションをやるぢやないか」と答へておきました。また、ユーモアが欠けてゐることもドイツ人と似てゐる。三時間の話のなかに一度もユーモアが出ないことがありましたよ。インド人とドイツ人。民族といふものは、どこにどういふ類似性があるかわからんもんですねえ。

ー中根千枝さん(東大助教授)が、社会集団の二つのタイプとして「タテ」型の日本と「ヨコ」型のインドを対比して書いてゐます。インドから日本を望んで、日本といふ国が小さくかたまつた。〝ニッポン一家〟だなあ、といふ感想を持ちませんでしたか。

それはですね、日本をべンガル州一州と思へばなんでもないんぢやないですか。小さい国だからまとまってもゐるし、言葉もたまたま国土の小ささゆゑに一つになつてゐて、まとまりがいい、といふだけですよ。

新潮社、『決定版 三島由紀夫全集 第34巻』P590-591

インド人とドイツ人に類似性を見るというのはなかなか面白い見解ですよね。

そしてここから東南アジアと日本についても語られます。

ーつぎに東南アジアについてちよつと聞きます。インドも中共との交戦の経験を持つ国ですが、東南アジアと日本との最大の相違点は、中共の脅威を感じてゐるのと感じてゐない点にあると思ひますが。

中共と国境を接してゐるといふ感じは、とても日本ではわからない。もし日本と中共とのあひだに国境があつて向かう側に大砲が並んでたら、いまのんびりしてゐる連中でもすこしはきりつとするでせう。まあ海でへだてられてゐますからね。もつともいまぢや、海なんてものはたいして役に立たないんだけれど。ただ「見ぬもの清し」でせうな。

ー日本人が中共をこはがらないのは一種の幻想的な〝太平感〟なんだらうけれど、日本にさういつた幻想があることも、また一つの現実ぢやないでせうか。

たしかにさうですね。幻想イリユージヨンといへどもなにかの現実的条件によつて保たれてゐる。ぼく自身は、日本にも中共の脅威はある、と感じてゐます。これは絶対に「事実ファクト」です。しかし日本人が中共に脅威を感じないといふことは「現実」です。「現実」とはぼくに言はせれば、事実とイリユージヨンとの合金です。「現実」をささへてゐる条件は、いはくいひがたしで、恐らく何万といふ条件があるでせう。海もあるし、長い中国との交流の歴史もあるし……。

ものを考へようとするとき、片方の「現実」を「事実」だけでぶちこはさうとしてもダメです。幻想をくだくには幻想をもつてしなくつちゃ。ですからもし、ぼくが政治家だったら……。

ー「中立はこはくない」といふ幻想は、どうやってくだきますか?

「中共はこはい」といふファクトではなく幻想をもってですよ。ハッハッハ。

新潮社、『決定版 三島由紀夫全集 第34巻』P591-592

『「現実」とはぼくに言はせれば、事実とイリユージヨンとの合金です。』

なるほど、たしかにその通り・・・。それにしてもなんと的確な言葉でしょう!さすが三島由紀夫です。

そして『「中立はこはくない」といふ幻想は、どうやってくだきますか?』という質問に対して『「中共はこはい」といふファクトではなく幻想をもってですよ。ハッハッハ。』という余裕の返答ぶりにもぐっと来ます。

ーつぎに「日本」について話しませう。「そとから見た日本」はどうですか。

日本はたしかにけつこうな国ですねえ。イソップぢやないけれど、夏のあひだアリがせつせと働いてゐて、片方ぢやキリギリスが遊びほうけてゐるのとおんなじでね。いまは夏がずうつとつづいてゐるわけです。日がさんさんとふり注ぎ、花は咲き乱れて……。だが冬のたくはへは絶対にしておくべきだとぼくは思ふ。

ー精神的なたくはへ、といふことですね。

さうです。木枯らしが吹きだしたときのことを考へないのはバカだ、としかいひやうがありません。やはり愚者の天国ですなあ。まあ、ぼくは日本にゐても、それを感じてゐますがね。

ー日本人のものの考へかたのなかで、絶対に日本以外には通用しないものがある、と感じませんでしたか。

これはインドに限りませんがね。ぼくは外国へ行くときは、必ず「ノー」といふ言葉を用意して行くんです。外国では「ノー」といふのが三分の一秒でも五分の一秒でもおくれたら、あとで自分がえらいめにあふ。「ノー」といふべきときには必ず「ノー」(大声で)と急いでいはなくちやならん。日本ぢや「ノー」といはなくても、あとでちやんと始末がつきます。

ーしかし、あなたは日本国内にゐても、かなりひんぱんに「ノー」といつてゐますよ。

ハッハッハ。それは、ぼくが旅行なれし、西欧化しちまつたからでせう。外国ぢや、ほかの言葉は胃から下でいいから「ノー」だけは常にノドのあたりに置いとかないとひどいめにあふ。もうあぶないな、と思つたとき、すかさず「ノー」といはなくちや。

ー日本文化をどう思いましたか。インドは、いはば日本文化の源流ですが。

昔から唐・天竺といはれてゐました。ぼくのいまの小説(「新潮」連載中の「豊饒の海」)も、唐・天竺的な大きい文化圏の上に立つたものを書きたいと思つてゐた。ところが唐が「唐くれなゐ」になつちやつたから、ハッハッ。で、いまはもっぱら天竺を研究してゐます。日本文化の源流を求めりやみんな天竺へ行つてしまひますね。それは、もう、みんなあすこにあります。

新潮社、『決定版 三島由紀夫全集 第34巻』P592-593

「日本はたしかにけつこうな国ですねえ」

「木枯らしが吹きだしたときのことを考へないのはバカだ、としかいひやうがありません。やはり愚者の天国ですなあ。」

三島は日本という国を心から憂いていました。その憂いを様々な場所で述べていますが、やはりインド滞在においてもその思いを強く感じていたようです。

そして『ぼくのいまの小説(「新潮」連載中の「豊饒の海」)も、唐・天竺的な大きい文化圏の上に立つたものを書きたいと思つてゐた。ところが唐が「唐くれなゐ」になつちやつたから、ハッハッ。で、いまはもっぱら天竺を研究してゐます。日本文化の源流を求めりやみんな天竺へ行つてしまひますね。』という言葉も見逃せません。三島が『豊饒の海』という長編をどのようなものとして想像していたかが伝わってきます。

そしていよいよ『インドの印象』の最後の部分となります。

ーあなたは、ただ創作だけではなく、実にいろんなことをおやりになる。このまへお目にかかつたのは、自衛隊の「経験入隊」から帰つてこられた日でした。あなたのやりかたを見てゐると、なにか「上ハ碧落ヲ窮メ下ハ黄泉」といふ感じがします。インドでの感動をふまへて、あなたの世界はますます大きくなるわけですね。

自分がこんなことをいふのはをかしいが、ぼくはフアウスト的衝動とでもいつたものが強いんです。フアウストはぼくよりずつと勉強家だつたが、ただ気の毒なことに彼の時代には飛行機がなかつた。ぼくは飛行機があるから世界を窮めることができます。

それに源流をたどる気持は、ぼくのなかに非常に強くあるわけです。ニ・二六事件をやれば神風連をやりたくなる。神風連をやれば国学をやる。国学をはじめれば陽明学をやりたくなる。レイモン・ラディゲをやれば「クレーヴの奥方」をやりたくなる。「クレーヴの奥方」を読めばラ・シーヌを読む。ラ・シーヌを読めばギリシャ悲劇に進みたくなる。いつも源流に向かふんです。さういふ点では、こんどインドを見たことは非常に大きかつたといへます。

ーこんどの旅行で、あなたはまた一段と強くなりましたか。

さあね。しかし、くたびれもしましたね。公式旅行ですから、病気などになつて一つでも予定をとばしたら男の一分が立たないと思つて……。日本人としてはづかしくない行動はしたつもりです。

新潮社、『決定版 三島由紀夫全集 第34巻』P593-594

さすが三島由紀夫。「ファウスト的衝動」とは、言うことが違います。ですがもっと世界を知りたい。源流を知りたいという欲求はたしかに私たちも頷ける感覚ですよね。

そして「フアウストはぼくよりずっと勉強家だつたが、ただ気の毒なことに彼の時代には飛行機がなかつた。ぼくは飛行機があるから世界を窮めることができます」とさらっとユーモアも一添えするのも三島流。格好良いことこの上なしです。

さて、以上が三島由紀夫の『インドの印象』になります。三島がインドをどのように思っているのかがよくわかるインタビューでしたよね。

そしてこのインタビュー記事が掲載された二日後、三島は『インド通信』というエッセイを朝日新聞に掲載しています。こちらは三島らしい文学的な表現が満載の紀行文で、文学の薫り高い名文です。

ですがなぜ今回私がその『インド通信』ではなく『インドの印象』を紹介したかといいますと、このインタビュー記事の方が肩肘張らないリラックスした雰囲気を感じられるからです。『インド通信』ももちろん素晴らしいのですが、やはり作品としてかなり作り込まれている印象を受けます。それよりも徳岡氏の鋭い質問やそれに対する当意即妙の三島の応答を堪能できる『インド印象』の方がより興味深く読めるのではないかと私は思ったのです。

もちろん、どちらも三島のインド観を知れる重要な資料であることは間違いありません。

『インド通信』はこの全集だけでなく、以前当ブログでも紹介した三島の世界旅行記『アポロの杯』が収録されている『三島由紀夫紀行文集』でも読むことができます。

三島の目で見た世界を感じられるこの本も非常におすすめです。ものすごく面白いです。

やはり旅行記はいいですね。読んでいて楽しいです。三島由紀夫という巨人の肩に乗って世界を見れるのは実に刺激的です。今回紹介した『インドの印象』と合わせてぜひおすすめしたいです。

以上、「三島由紀夫『インドの印象』~晩年の三島はインド旅行で何を見て何を思ったのか。『豊饒の海』にも強い影響!」でした。

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