三島由紀夫『金閣寺』あらすじと感想~「金閣寺を焼かねばならぬ」。ある青年僧の破滅と内面の渦

三島由紀夫と日本文学

三島由紀夫の代表作『金閣寺』あらすじと感想~「金閣寺を焼かねばならぬ」。ある青年僧の破滅と内面の渦

今回ご紹介するのは1956年に新潮社より発行された三島由紀夫著『金閣寺』です。

早速この本について見ていきましょう。

【新装版、新・三島由紀夫】
金閣を焼かなければならぬ――。破滅に至る青年の「告白」。
最も読まれている三島作品。国際的評価も高い。〔新解説〕恩田陸


「美は……美的なものはもう僕にとっては怨敵なんだ」。吃音と醜い外貌に悩む学僧・溝口にとって、金閣は世界を超脱した美そのものだった。ならばなぜ、彼は憧れを焼いたのか? 現実の金閣放火事件に材を取り、31歳の三島が自らの内面全てを託した不朽の名作。血と炎のイメージで描く〈現象の否定とイデアの肯定〉──三島文学を貫く最大の原理がここにある。
巻末に用語、時代背景などについての詳細な注解、佐伯彰一、中村光夫、恩田陸による解説、さらに年譜を付す。

Amazon商品紹介ページより
三島由紀夫(1925-1970)Wikipediaより

『金閣寺』は言わずと知れた三島由紀夫の代表作です。

私がこの本を手に取ったのは前回の記事で紹介した小阪修平『思想としての全共闘世代』がきっかけでした。

元々この『思想としての全共闘世代』もスリランカにおける1971年の学生達の武装蜂起について学んだ流れで手に取ったものでしたが、日本における学生紛争について学んでいてぶつかることになったのがやはり三島由紀夫の存在でした。全共闘と三島由紀夫といえば、近年公開された『三島由紀夫vs東大全共闘〜50年目の真実〜』という映画で話題になりました。

日本の思想や時代の流れを考える上でやはり三島由紀夫は外せません。

そして私は前々からいつか三島由紀夫作品を読んでみたいと思っていたのでありました。

と言いますのも、私は昨年2022年にローマに滞在しておりました。そしてその時にお世話になったイタリア人のガイドさんに「三島由紀夫は素晴らしい。彼の文体は非常に美しい。ドストエフスキーが好きなあなたなら必ず気に入るでしょう」と薦められていたのです。

なんと、イタリア人から三島由紀夫を薦められるという不思議な体験をすることになったのでした。ドストエフスキー好きの私としてはこれはぜひ読んでみたいと強く思ったのでありました。

ただ、その後も旅行記の執筆や仏教の勉強もあり、なかなか三島文学に取りかかるタイミングを見出せないまま時が過ぎてしまいましたが、ここに来てようやくその時が訪れたようです。スリランカ仏教の流れで期せず交差した三島由紀夫。この機会を逃す手はありません。私はこれから三島作品を一気に読んでいくことにしました。

とはいえいきなり三島文学に突入するのも難易度が高いのではないか、そんな思いがよぎり、私はまず新潮社から出ている『文豪ナビ 三島由紀夫』というガイドブックを手に取ったのでありました。

この本がとにかく優秀!コンパクトでありながら三島由紀夫の生涯やその特徴がわかりやすくまとめられています!

新潮社さんのこの試みは実にありがたいです。難しそうで敬遠しがちな文豪たちへの入り口として非常に優れています。文豪たちの名作の何が面白くて何がすごいのか、そしてどの作品から読むのがおすすめかまで懇切丁寧に語られます。小難しい文学論や哲学談義もないのもありがたいです。誰もが気軽に入門できるこの本に拍手喝采です。

そしてもう一冊。

きずな出版より2020年に発行された櫻井秀勲著『三島由紀夫は何を遺したか』もおすすめです。三島由紀夫と親しい関係であった著者だからこそ知る姿をこの本で学ぶことができました。

これらの入門書でざっくり三島由紀夫や彼の作品の流れを学んだ後、私はいよいよその代表作『金閣寺』に取りかかりました。

私にとって、これが最初の三島作品。緊張の一瞬でした。

「幼時から父は、私によく、金閣のことを語った。」

この言葉から始まる物語。

三島の独特の文体はどこから始まるのか。世界で称賛される美しさはどこにあるのか。

淡々と語られる冒頭の言葉を私は注意深く読み進めました。

すると、なんと、最初の2ページ目にして私の胸を打つ美しい描写が現れたのです。

舞鶴湾は志楽村の西方一里半に位置していたが、海は山に遮られて見えなかった。しかしこの土地には、いつも海の予感のようなものが漂っていた。風にも時折海の匂いが嗅がれ、海が時化ると、沢山の鷗がのがれてきて、そこらの田に下りた。

新潮社、三島由紀夫『金閣寺』P6

「しかしこの土地には、いつも海の予感のようなものが漂っていた」

なんという表現でしょう!この時点で私は三島文学の強烈な文体を感じることとなりました。

そしてこれから先も三島スタイルはとどまることを知りません。

その中でも特に印象に残っているのが次の一節です。

たまたま、機関学校の制服は、脱ぎすてられて、白いぺンキ塗りの柵にかけられていた。ズボンも、白い下着のシャツも。……それらは花々の真近で、汗ばんだ若者の肌の匂いを放っていた。蜜蜂がまちがえて、この白くかがやいているシャツの花に羽根を休めた。金モールに飾られた制帽は、柵のひとつに、彼の頭にあったと同じように、正しく、目深に、かかっていた。彼は後輩たちに挑まれて、裏の土俵へ、角力すもうをしにいったのである。

脱ぎすてられたそれらのものは、誉れの墓地のような印象を与えた。五月のおびただしい花々が、この感じを強めた。わけても、庇を漆黒に反射させている制帽や、そのかたわらに掛けられた帯革と短剣は、彼の肉体から切り離されて、却って抒情的な美しさを放ち、それ自体が思い出と同じほど完全で……、つまり若い英雄の遺品という風に見えたのである。

新潮社、三島由紀夫『金閣寺』P11-12

よくぞまあこれだけの美しい言葉を並べられるなと私はもはや呆気に取られてしまいました。特に「そのかたわらに掛けられた帯革と短剣は、彼の肉体から切り離されて、却って抒情的な美しさを放ち、それ自体が思い出と同じほど完全で……、つまり若い英雄の遺品という風に見えたのである。」という表現・・・!三島由紀夫にしかできない圧倒的な美文とはこういうことかと唸ったのでありました。

こうした三島の美しい文体について、巻末の恩田陸氏の解説では次のように述べられていました。これがまた素晴らしく、私は二重に唸ることになりました。

世の中には、あまりにもイメージが先行し、そのイメージが広く人口に膾炙してしまっているがために、オリジナルのほうがコピーめいてしまう、という現象が存在する。有名観光地に行って「絵葉書みたい」と思ったり、初来日の西洋名画を美術館で見て「教科書と同じだ」と思う、というような。

私は金閣寺を見るたびに、毎回必ず「プラモデルみたい」と思ってしまう。そこにあるのはオリジナルそのもののはずなのに、なぜか「金閣寺の模型」が建っている、と思ってしまう。おまけに、兄がプラモデルに塗っていたツンとくる塗料の匂いまで、鼻先に蘇ってしまうのである。

そう、正直言って金閣寺はあまりにも「はりぼて」めいている。もっというと、書割めいている。どことなく胡散臭く、嘘臭い。芝居がかっているといってもいい。そして、それはそっくりそのまま三島由紀夫の作品の印象にもあてはまる。

三島由紀夫の文章は、どことなく金の塗料の匂いがする。あまりにも完璧かつ誰にも真似できない美文(しかも、言われてみると、それ以外の表現は有り得ないと思わされる)ゆえに、つるつる滑って、引っかかりがない。金閣寺がいつも曇りなくぴっかぴかで、「汚し」をつけようなどという気にならないのと同じである。

だからこそ、『金閣寺』は三島以外には書かれえなかったし、当然三島の最高傑作なのだ。書かれるべきものと書くべき人がピタリと一致したという点で、『金閣寺』は日本文学史上最も幸運な作品なのではあるまいか。超豪華な「はりぼて」同士がこの上ないタイミングで出会ってしまった結果、そこに黄金(真実)が出現したのだ。

新潮社、三島由紀夫『金閣寺』P369-370

「三島由紀夫の文章は、どことなく金の塗料の匂いがする。あまりにも完璧かつ誰にも真似できない美文(しかも、言われてみると、それ以外の表現は有り得ないと思わされる)」

そう、まさにその通りなのです!

どうしてこんな文章が書けるのか。どうしてこんな表現が出てくるのか。過剰とすら言えるほど美しく飾られた文体!

文章を書きたいと思う人間にとってこれほど敗北感を感じる文章はないのではないかと思うほど圧倒的な美文です。

と同時に、これは自分の理想とする文章ではないし、現代において受け入れられる文章なのかと言われるとそれも怪しい。そんな印象も持ってしまいます。ですがそんな疑問も吹き飛ばす陶酔感が確かにあります。よくわかりませんがいつの間にか没入させられてしまう言葉の美しさが間違いなくあるのです。これは衝撃でした。

そしてストーリーにしても、主人公の告白という形で物語が進んでいくのでありますが、ま~粘っこい!どこまでも強烈な自意識が渦巻いています。自分は他者と違う。それもどうにもならないほど違うということにコンプレックスを持ちながらそれを誇り、自身のアイデンティティーともなっている。

もうどうにもならないくらいどうにもならない青年僧の内面がこの作品では語られます。

「金閣寺を焼かねばならぬ」

なぜ青年僧はそう思わねばならなかったのか。それを幼少期からその決行まで我々は見ていくことになります。

そしてこの作品を読んでいてふと思ったのは、『金閣寺』はドストエフスキーの『罪と罰』と対になる作品かもしれないということでした。

『金閣寺』の解説では同じくドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』に対する言及がありましたが、私にとっては『罪と罰』のイメージが強く想起されました。

と言いますのも、『金閣寺』はある自意識過剰な青年僧が金閣寺を焼くまでの心理状況を描いたものであるのに対し、『罪と罰』はある知的な貧乏学生が金貸し老婆を殺害した後の心理的葛藤を描いた作品であるからです。

この両作品に共通するのは過剰すぎる自意識です。そして世間を揺るがす大きな罪。

『罪と罰』では老婆とその妹を斧で殺すという事件を起こした主人公。

そして三島由紀夫は1950年に実際に放火され焼け落ちた金閣寺を小説の題材にしました。

焼失直後の金閣舎利殿 Wikipediaより

両作品共に、取り返しのつかない巨大な罪と一人の青年の強烈な自意識が結びついています。

『罪と罰』と違って『金閣寺』ではその事件後は描かれません。ですが描かれないからこその余韻といいますか、想像の余地があります。この放火後をあえて描かないということにもこの作品の特徴があるのではないでしょうか。まさに私はこの作品を読んだ後の異様な持続力を体感しています。読み終わってそれで終わりではないのです。読後何日経ってもこの小説の異様な感化力が持続し、今でも「あれは何だったのか」と私を掴んで離さないのです。

私は『罪と罰』をかつて「ドストエフスキーの黒魔術」と呼びました。ドストエフスキーの作品は私たちに異様な感化力を以て襲いかかってきます。

そしてまさに三島由紀夫の『金閣寺』もそのような作品だと確信しました。この文体。この熱量・・・!恐るべき作品です。これから三島由紀夫の作品を読んでいくのが楽しみになりました。

いや~ものすごい作品でした。

今このタイミングでこの作品を読めたことにも大きな意味があったと思います。当時の時代精神や三島由紀夫という巨大な人間の思想に触れることができた素晴らしい読書となりました。

ぜひぜひおすすめしたい作品です。

以上、「三島由紀夫『金閣寺』あらすじと感想~「金閣寺を焼かねばならぬ」。ある青年僧の破滅と内面の渦」でした。

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