辛島昇・奈良康明『生活の世界歴史5 インドの顔』~インド人の本音と建て前。生活レベルの精神性を幅広く知れるおすすめ本!

生活の世界歴史5 インド思想と文化、歴史

辛島昇・奈良康明『生活の世界歴史5 インドの顔』概要と感想~インド人の生活レベルの文化と精神性を幅広く知れるおすすめ本!

今回ご紹介するのは1991年に河出書房新社より発行された辛島昇・奈良康明著『生活の世界史5 インドの顔』です。

早速この本について見ていきましょう。

いまなお根強いカースト制度の実態を描き、インドの「多様性」と「統一の顔」を探る。

カーストに生まれ、カーストに死ぬインド人の多様な民族文化のるつぼを、カレーの話から始めて、見たままの生活実態とその裏に通底する建前の形とを始めて明確に対比しつつ分かりやすく描ききった独自のインド史。

Amazon商品紹介ページより

今作ではこの記事のタイトルに書きましたように、インド人の生活レベルの本音と建て前を知ることができます。このことについて巻末のあとがきでは次のように述べられています。

インドについて語ることは実に難しい。我々日本人がインドを全く知らないということの他に、本文の中にもくり返し書いたように、インドは、これがインドだと言って一口では語ることのできない「多様性」をもっている。それに加えて、本書では、このシリーズの西洋史の巻のように、ある一つの時代について書くのではなく、年代的、地理的に、優に全ヨーロッパの歴史に匹敵するインドの歴史全体を問題にしなければならなかった。また人間の生活というものは、社会制度、思想、技術、政治、経済その他、あらゆるものの総体としての存在である。

従って、インドの生活の歴史全体を一人で執筆することはまず不可能であり、本書では、思想についての部分をその専門の奈良教授にうけもっていただき、二人の共同執筆という形をとることにした。奈良教授も五年にわたるインドでの生活の体験があり、本書は、奈良教授と私の二人の心のシャッターが把えた「インドの顔」である。

奈良教授と私との間には、もちろん、取り扱う全ての問題について意見の一致があるわけではない。しかし、基本的な点については二人の意見はほぼ一致している。とくに二人が重要と考え、本書の大きなテーマとなっているのは、反する二つのものの共存である。従来も我国でインドについて多くの本が書かれているが、研究者の書く多少とも学術的な著作では、常に統一的なたてまえとしての文化のみが取り扱われてきたように思われる。それに反して、最近多く見られるようになってきた旅行記の類では、つねに実社会における多様性がそのままの形でしかとりあげられず、多くの場合には、それのみがインドであると誤断されている。奈良教授と私の試みは、その二つのものを統一的に描き出すこと、すなわち多様と統一、そして「たてまえと実際」という二つの異なる顔を、実生活の映像を媒介にして統一的に把握し、読者に提供することにある。ただ、言うは易くして行なうは難いそのような試みが、本書においてどの程度まで成功しているか、それは読者諸賢の判断にまつよりほかはない。

河出書房新社、辛島昇・奈良康明『生活の世界史5 インドの顔』P390-391

「従来も我国でインドについて多くの本が書かれているが、研究者の書く多少とも学術的な著作では、常に統一的なたてまえとしての文化のみが取り扱われてきたように思われる。」

ここで説かれているのはおそらく仏教書に多く当てはまるのではないかと思います。これから当ブログで様々な書籍を紹介しますが、たしかにこうした現状についての指摘はいくつもの本でなされていました。特に著者の奈良康明氏はそのことについて『〈文化〉としてのインド仏教史』で多くを語っています。

こうしたインド人の「本音と建て前」について本書では次のように述べられています。この箇所はインドにおける宗教事情が見えてきて非常に興味深い箇所ですのでじっくり読んでいきます。

ヒンドゥー教徒はさまざまな神を礼拝する。個人で礼拝し、家中の者と共に礼拝し、村なり町なりの共同体の人と共に神を祀る祭式もある。眼に見える宗教儀礼ばかりでなく、人びとの日常生活の中には宗教的色彩が非常に濃い。やることなすこと、また考えることのすべてがわれわれには宗教的にみえ、彼らが習慣としてごく普通に行なっている事柄にも宗教的観念が横たわっている。しかし仏教徒やキリスト教徒が宗教的だ、というのと意味が幾分違っている。仏教やキリスト教は「世界宗教」で、基本的にはその人個人の信仰・思想がまずあり、それに基づいて宗教的生活が営まれる。ヒンドゥー教徒の場合、その人個人の信仰心というよりは、社会全体の行為規範や考え方、習俗の根底に宗教がある。そしてそれに従うことがまともなヒンドゥーとみなされる。これを逆にいえば、ヒンドゥー社会に認められている宗教的観念や習俗を守っていきさえすれば、いかなる神を信じ、どんな思想をもってもかまわない。

たとえば著者の友人に化学を専攻する若い学者がいる。進歩的な思想の持ち主で、矛盾に満ちた現代インドには原子爆弾のニ、三発も落ちた方がいい、余計な人口も減るし、人びとが目覚めるから、結局は好結果をもたらすだろう、と広言して私を驚かせたりする。その彼がヴァーラーナシーの町で、あの汚ない(とわれわれには思える)ガンジス河で沐浴をする。早朝に出かけていって何百人という人と一緒に河中に身をひたし、昇りくる太陽に向かってマントラを唱える。まわりにどんな病気のある人がいるかも判らぬし、伝染病にならないのか、と私は尋ねた。彼によるとここはヒンドゥーの聖地で放射能があって細菌は殺されてしまうのだそうである。「何なら飲んでみせようか」と彼はその通りやってみせたが、その後、彼が病気になったとも聞かない。また、あのヴァーラーナシーの町に悪疫が流行ったという話も聞いたことがない。

共産主義者で、社会の抜本的革命を唱える別の友人は、私と一緒によくヒンドゥーの寺院にお詣りに行く。薄暗い祠堂にはリンガ(後述するが男根の形をした像でシヴァ神の一象徴)があって油がしたたるばかりに塗られている。彼はパンダなる下級の司祭僧からその油と花の少量をもらい、頭髪になすりつけ、五体投地の礼拝をする。そしてプラザーダと称する供物のおさがりをもらい、大切に家に持ち帰って家族にその福を分かち与えるのだ、という。

ここに思想と信仰とは見事に分離している。何を考え、いかなる主義主張をするか、とはかかわりなしに、宗教的色彩をもつ考え方や行為、風俗はヒンドゥー教徒として当然守るべきことだし、またそれが身体にしみこんでいる。

だから現代となり、近代化の波が押し寄せても、ヒンドゥーは伝統の宗教的な思惟法や慣習を容易に捨てない。近代化の妨げになることがはっきりしたようなものでも、それを捨てるかわりに再解釈の道を選ぶ。ヒンドゥー教とは、宗教ではあるが、仏教とかキリスト教のような意味での宗教ではない。カーストという社会構造からさまざまな宗教的伝統、習俗をその中におさめ、そこに生まれる者のみを自らの信徒となしうるような一つの世界がヒンドゥー教といっていい。

河出書房新社、辛島昇・奈良康明『生活の世界史5 インドの顔』P144-147

「ヒンドゥー社会に認められている宗教的観念や習俗を守っていきさえすれば、いかなる神を信じ、どんな思想をもってもかまわない。」

これは極めて重要なポイントです。

よく「原始仏教は葬式をしなかった」ということが言われますが、その理由もここにあるのです。仏教徒の生活はヒンドゥー教世界の中にあったのです。仏教の在家信者たちは思想の面では仏教信者だったかもしれませんが、その生活は相変わらずヒンドゥー教世界の生活規範や生と死の儀礼を行って過ごしていたのでした。もちろん、その度合いは人それぞれ様々だったことでしょう。ヒンドゥー教世界に反して生きていた在俗信者もいたでしょうが、すべてがそうした生活をしていたかと言われると疑問が残ります。この後の箇所でも、次のように述べられていました。

エリートのバラモンたちはひたすらに、人間は全て解脱を求むべし、と説く。それはそれで高いレべルの宗教であって、それでいいのだが、全くの一般マス=レベルのヒンドゥー教徒がこの理想を追い求めているわけではない。

先にドゥベー教授の調査結果を紹介したが、こうした文化人類学者たちの現代ヒンドゥー教徒についての報告は一致して、エリートの説くたてまえと現実のギャップを明らかにしている。一般のヒンドゥーたちはなるほど解脱の意義は認めている、しかし自分では全く求めてはいない。より大きい関心事は死後に天界に生まれることであって、解脱のような遠い理想ではない。天界に生まれたいが故に人は布施をし、祭祀を行ない、神を礼拝し、巡礼、断食、寺詣りをし、善行に心がける。こうした法を守るのも、ひとえに、功徳をつんで生天したいためで、だから、ヒンドゥーの倫理性のよってたつ基準はこの業・輪廻と生天への欲求にあると言っても過言ではない。

河出書房新社、辛島昇・奈良康明『生活の世界史5 インドの顔』P152

これは仏教ではなくヒンドゥー教について書かれた箇所ではありますが、これは当時の仏教にも当てはまるものと私は考えています。

タイやスリランカの仏教においてもこうした在家信者の信仰というのは共通点が見られます。(杉本良男『スリランカで運命論者になる 仏教とカーストが生きる島』風響社『東南アジア上座部仏教への招待』参考)

今作『生活の世界歴史5 インドの顔』ではこうした生活レベルの人々の文化や精神性について学ぶことができます。著者が述べるように実際の生活には「本音と建て前」があります。これを無視してどちらかだけを取り上げてしまうと全く別のものが出来上がってしまうというのはたしかに「なるほど」と頷けるものでありました。

本書ではこうした宗教面だけでなく、カーストや芸術、カレーをはじめとした食べ物、政治、言語、都市と農村、性愛などなどとにかく多岐にわたって「インドの生活」が説かれます。仏教が生まれ、そしてヒンドゥー教世界に吸収されていったその流れを考える上でもこの本は非常に興味深い作品でした。これはぜひぜひおすすめしたい作品です。ぜひ手に取ってみてはいかがでしょうか。

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