三島由紀夫『音楽』あらすじと感想~フロイトの精神分析への批判的な挑戦が込められた名作!

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三島由紀夫『音楽』あらすじと感想~フロイトの精神分析への批判的な挑戦が込められた名作!

今回ご紹介するのは1964年に三島由紀夫によって発表された『音楽』です。私が読んだのは新潮社2022年改版第2刷版です。

早速この本について見ていきましょう。

精神科医である私の診療所のドアを、ある日、美しい女が叩いた。この患者は、兄との近親相姦で得たオルガズムの衝撃から抜け出せず、恋人とも愛し合うことができない不感症に思い悩んでいるというが、何か怪しい――。言葉に嘘の気配を感じながらも、彼女の美貌と気まぐれに翻弄され、治療は困難を極める。女性心理と性の深淵をドラマチックに描く異色作。

新潮社商品紹介ページより
三島由紀夫(1925-1970)Wikipediaより

上の本紹介では「女性心理と性」という怪しげな作品のように感じてしまうかもしれませんが、実はこの作品は三島によるフロイト的な精神分析への挑戦が書き込まれた小説でもあります。私が本書を読んだのもまさにこのフロイトへの挑戦に関心があったからでした。

佐伯彰一著『評伝 三島由紀夫』(1978)ではこのことについて次のように書かれています。

つい半月ほど前、ぼくはカナダのトロントで、三島の『音楽』という長篇をよんだばかりのところだが、〈婦人公論〉だかに連載されて読みそこねていたこの小説は、ぼく自身にほとんど「音楽」を、つまり知的な、エクスクシーを味わわせてくれた。この小説で、「音楽」というのは、性的なエクスタシーの意味で、どうしても「音楽」をきくことの出来ない女性が、精神分析医のもとに治療に通うという筋立てになっている。この若く美しい女主人公自身、もちろん精神分析理論には一応通暁していて、治療のたびごとに、物の見事にお医者の先手を打って見せる。したりげな精神分析医の自信を叩きつぶすこと、相手の先くぐりをして、魅力的な餌をわれから相手の前にちらつかせながら、いいように相手を引廻しておいて、いきなり真うしろから、高らかな嘲笑をひびかせてやること、そこにこそ、この小説の女主人公にとっての「音楽」が存するとでもいった具合なのだ。

念入りに組み立てられた推理小説のように知的なゲームであり、知的な勝負の物語である。現代のもっとも大いなる偶像の一つ、フロイト主義に対する、果敢なる挑戦に他ならない。ぼくは、たちまちこの勝負のなかに引きこまれて、ごく良質の推理小説を一気に読み終った後のような、こころよい知的酩酊を味わわせてもらった。

新潮社、佐伯彰一著『評伝 三島由紀夫』P9

『音楽』の巻末解説でも述べられていたのですが、三島由紀夫はフロイトの精神分析についてかなり詳しく知っていたようです。三島はそれを材料に謎の美女の真相を巡るミステリーをこの作品で描いたのでした。

本作の主人公は精神科医です。この中年の精神科医の手記という形で物語が進んでいきます。

彼は自身の精神分析をふんだんにこの手記の中で披露していくのですが、いかんせん相手が悪かった!彼のもっともらしい解釈は美女の謎の行動や言葉によって次々と覆されていくことになります。ここに三島のフロイトへの挑戦が込められています。いかにもっともらしい心理分析をしようと相手次第でいくらでもそれは煙に巻かれてしまうのです。さらに言えば、そもそも精神分析自体が本当に相手の心理を掴めるような代物なのかという疑問さえ私たちに感じさせます。

作中でも精神科医は自らそれを認めるような発言をしています。結局は精神分析よりも実際に起こる事件や人間関係によって見えてきた具体的事実が問題の解決に繋がっていくのです。つまり、いくらもったいぶった心理分析を行おうとそれは本当に正しいものなのかは全くわからない、そしてその多くは後付けの解釈にすぎないということがこの小説で暗に示されます。

この小説は1964年に発表されましたが、三島はこの6年後の1970年に自衛隊市ヶ谷駐屯地で自決しています。

この時、メディアや文壇は様々に三島のことを報じました。まさにこの時ほど三島が精神分析されたことはなかったことでしょう。ある週刊誌には彼の切断された首がそのまま掲載されたほどです。三島自身、自分がどう言われるのかというのは痛いほどわかっていたと思います。

彼は自身の戯曲『サド侯爵夫人』(1965)の中でも登場人物に次のように言わせています。

何か怪しげな事件が起る。屍にたかる蠅のように、そこからありたけの知識を吸い取る。屍が始末されてしまうと、日記のなかに出来事を書きつけ、名をつける。不名誉、恥辱、そのほか何とでも。

新潮社、三島由紀夫『サド侯爵夫人』P39

まさに三島由紀夫はあの事件の後、こうした扱いを受けてしまうことになりました・・・

ただ、三島を考える上で彼自身が『音楽』の美女のように、分析に対して先回りをしようと演じる傾向があったことも見逃せません。

三島は文壇デビュー作となった『仮面の告白』からして、自身を演じる傾向がありました。三島は作品だけでなく実生活においても仮面をかぶる傾向があったと多くの伝記、評伝で語られています。三島由紀夫はあくまでペンネームです。本名は平岡公威きみたけといいます。平岡公威は三島由紀夫を演じ、その演じられた姿を見て分析家やメディア、世間は三島を語ろうとします。そしてその上で「さて、君たちは本当の私がわかるかね」と三島は言っているかのようです。

三島についての評論や見解はそれこそ無数にあります。それは三島がこうした謎めいた姿を演じていたからでもあります。こうした三島自身のあり方を考えながら読む『音楽』は実に示唆に富むものがありました。これが書かれた当初はまだ誰も三島が自決するとは思っていませんでした。三島自身もはっきりとは決めていなかったことでしょう。ですが、自決してしまった後となってはすべてが不気味に見えてきます・・・。

三島由紀夫がフロイト流の精神分析に反抗しようとしていたのは私にとっても非常に興味深いものがありました。私自身も以前ドストエフスキーを学ぶ過程でフロイト流の精神分析の問題点を考えたことがあります。「フロイトはそう言うけど、本当にそうなの?」ということが多々あったからです。このことについては「『カラマーゾフの兄弟』は本当に父殺しの小説なのだろうか本気で考えてみた~フロイト『ドストエフスキーの父親殺し』を読んで」の記事でまとめていますので興味のある方はぜひご参照頂ければ幸いです。

以上、「三島由紀夫『音楽』あらすじと感想~フロイトの精神分析への批判的な挑戦が込められた名作!」でした。

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