『カーマ・スートラ』~古代インドの性愛の法典。カジュラーホー寺院やタントリズム、密教に深い関係も

カーマスートラ インド思想と文化、歴史

『カーマ・スートラ』概要と感想~古代インドの性愛の法典。カジュラーホー寺院やタントリズム、密教に深い関係も

今回ご紹介するのは1998年に平凡社より発行された岩本裕訳『完訳 カーマ・スートラ』です。

早速この本について見ていきましょう。

女を口説きおとすのに,男はいかに優しくなければいけないか。男の情欲をみたすために,女をいかによろこばせるか。性愛の秘戯を説き,愛の実践哲学を論じる古代インドの愛(カーマ)の教典。

平凡社商品紹介ページより
カジュラーホーのカンダーリヤ・マハーデーヴァ寺院 Wikipediaより
カジュラーホーの豊穣祈願のミトゥナ(交合)像 Wikipediaより

私が『カーマ・スートラ』を読もうと思ったのはインドのカジュラーホーがきっかけでした。ここにはヒンドゥー教の寺院でありながら性的な彫刻がこれでもかと残されています。ですが単に「性的ないかがわしいもの」と侮るなかれ、宗教における性の問題は非常に重要なものを秘めていたのでありました。しかもこれは単にヒンドゥー教の中の話ではなく、仏教もヒンドゥー教の思想を吸収し、タントリズムや密教へと繋がっていくため、こうした性にまつわる思想や実践が現れてくることになります。

そのことについて書かれたのが前回の記事で紹介した定方晟著『インド性愛文化論』でした。この本の中で著者は次のように述べています。

仏教は堅くるしいもの、真面目くさったものと考えられている。しかし、膨大な仏教文献のなかに、エロ的、グロ的、サド的要素を見出すことば不可能ではない。(中略)

わたしはいま仏教の裏街道を示そうとしている。仏教学者のなかにはこれを好まない人がいるかもしれない。しかし、人間にとって大事な性の問題を避けて、仏教のなにがわかるだろうか。性愛(カーマ)はインドでは人生の三大目的の一つにあげられているくらいである。人間のすべての面を知ってこそ仏教の意義が正しく理解できると、わたしは考える。

春秋社、定方晟著『インド性愛文化論』P1-6

また、以前当ブログでも紹介した辛島昇・奈良康明『生活の世界歴史5 インドの顔』でも次のように説かれています。

ヒンドゥー教徒は直接的な性愛を、しかもオープンに認めている。明るい性の謳歌は大なり小なり古代社会の特徴だが、インドではそれ以上に性愛への偏見は少なかった。ダルマ(宗教)とアルタ(理財)とならんでカーマが人生の三目的にあげられていることでもそれは判る。直接的な性愛は率直に明るく語られていたし、文学や美術をみてもうかがい知ることができる。

河出書房新社、辛島昇・奈良康明『生活の世界史5 インドの顔』P234

つまり、インドにおいてはカーマ(性愛、享楽)は人生の三大目的の一つとして大っぴらに掲げられていたものでありました。そこに現代人が感じてしまうような「いかがわしさ」は存在しなかったのです。こういう世界においてインド人は生き、同時に仏教も生きていたわけです。仏教経典では性がタブー視されることが多く、性の実態について書かれることは少ないですが、決して無縁だったわけではありません。そうした意味でも『カーマ・スートラ』を読んでみることは当時のインド社会を知るためにも大きな参考になるのではないかと思い私はこの本を手に取ったのでありました。

では、この『カーマ・スートラ』について訳者の解説を見ていくことにしましょう。

「カーマ・スートラ」の名は余りにも有名である。わが国に於いては、一般に教養ある人士に於いても、印度のものと言えば凡そ抹香臭いものとして斥けられた中に、ただ「カーマ・スートラ」のみが好色文献の白眉であるかの如くに喧伝せられてきた。併し乍ら、その真の内容に就いては殆んど全く知られていなかったのが事実である。況んやその学的意義とか或は伝統などに就いては全くの白紙であったし、またこれらの点に関しては全然顧慮されようともしなかった。(中略)

さて、「カーマ・スートラ」はその名の如く経典(スートラ)であって、指針乃至は規矩として世人の遵奉すべき準則を述べたものである。従って、その説くところは教示するのが目的であるから、われわれがこの書をひもといて先ず驚かされるのは、その様式が終始一貫して無味乾燥な教科書的な口調で以て叙述せられていることである。原文の文章は簡素で昧がない。而も、他の諸種の経典に見られるのと同様に、印度人好みの特有なペダンチズムで以て終始極めて熱心に分類され、且つ定義が与えられている。その煩雑さ、その分類の不合理なこと、全く読む者をして眼を掩おおわしめるものがないではない。其処には文学的香気の片鱗さえも窺うをえない。併し、われわれは先ず第一にこの書が印度の培った学術の一つとして印度文化史上に特殊な意義を有することに注意しなければならない。また、性愛の秘戯を説き愛の実践哲学を論じた中に散見する数々の社会的記事は印度文化史の資料としてわれわれに貴重な材料を提供する。われわれは先ず茲にこの書の意義と価値とを認めねばならない。而も、この書が古代の印度人にとって教養の書として第一等のものであったこともまた忘れられてはならない。

平凡社、岩本裕訳『完訳 カーマ・スートラ』P5-6

ここで述べられるように『カーマ・スートラ』といえば性愛についての好色な文献として捉えられがちですが、実はそこまで露骨な性的表現に溢れているわけではありません。『生活の世界歴史5 インドの顔』で『カーマ・スートラ』の章立てがまとめられていましたので以下画像でそれを紹介します。

 たしかに性交に関する事柄も多く説かれますが、それよりも男女の生活そのものについての規定や記述のほうが圧倒的分量を占めていることに私も読んでいて気づかされました。訳者が「性愛の秘戯を説き愛の実践哲学を論じた中に散見する数々の社会的記事は印度文化史の資料としてわれわれに貴重な材料を提供する」と述べているのも納得です。

『カーマ・スートラ』を実際に読んで感じたのは、いわゆる現代の恋愛指南とそっくりということでした。

「どんな男がモテるのか」、「男を惹きつける方法」、「気になる女性と仲良くなる方法、口説き方」などなど、ものすごく身近な話題がどんどん出てくることに驚きました。「自分に言い寄ってくる嫌いな男を遠ざける方法」や「精力のない男を元気にする方法」が説かれた箇所では思わず笑ってしまいました。当時の男女間の様子が目に浮かんでくるようです。まさに当時の文化、生活を知れる第一級の資料であることに間違いありません。

先ほども述べましたように、『カーマ・スートラ』は単なる好色文献というわけではありません。どぎつい性的表現ばかりと誤解されていますが、それもあくまで男女間の生活の一部分です。男女の出会い、そして共に歩む人生、その全体を含んでの『カーマ・スートラ』です。この法典を読んで男女間における生活規範がびっしり説かれていることに私も驚きました。

以前紹介した『マヌ法典』もまさに生活のあらゆる場面における生活規範を説いていました。そう考えると、ヒンドゥー教世界は日常生活すべてにおいてかなり厳密に規範、やるべきこと、信じるべきことが定められていたのだということになります。もちろん、本音と建て前があるように、そのすべてが厳密に守られていたわけではないでしょう。ですが、生活のまさに隅々までヒンドゥー教の教えが染みついていたのではないでしょうか。

そしてそのような世界の中で仏教も共存していたということ。これは極めて重要な視点ではないかと思います。仏教は信者の日常生活に介入しないという方針を取っていました。つまり、仏教徒もヒンドゥー教世界の教えに沿って生活していたのです。日本人が様々な宗教的しきたりを持って生活しているのと似ています。このことはまさに『生活の世界歴史5 インドの顔』や奈良康明著『〈文化〉としてのインド仏教史』でも説かれています。

そうした意味でも本書『カーマ・スートラ』を読めたのは非常に興味深いものがありました。

以上、「『カーマ・スートラ』~古代インドの性愛の法典。カジュラーホー寺院やタントリズム、密教に深い関係も」でした、

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