定方晟『インド性愛文化論』~仏教経典に説かれた性。仏教と性の関係性を真正面から問うた参考書

インド性愛文化論 インドにおける仏教

定方晟『インド性愛文化論』概要と感想~仏教経典に説かれた性。仏教をいつもとは違う視点から見れる参考書

今回ご紹介するのは1992年に春秋社より発行された定方晟著『インド性愛文化論』です。

早速この本について見ていきましょう。

仏教は堅くるしいもの、真面目くさったものと考えられている。しかし、膨大な文献の中にエロ的、グロ的、サド的要素を見出すことは不可能ではない。インド仏教経典から立ちのぼるエロティックな女性の魅力や、性の魅惑を語る好エッセイ。

Amazon商品紹介ページより
サーンチーの仏塔のヤクシー像 Wikipediaより

この本は普段私たちがなかなか触れることのない「仏教と性の関係性」についてストレートに論じた作品です。

仏教と言えば修行や禁欲というイメージがあるかもしれませんが、逆に言えばそれだけ「性の問題」が大きな問題として捉えられていたということになります。本書冒頭で「仏教と性の関係性」とこの本について著者は次のように述べています。少し長くなりますが重要な箇所ですのでじっくり読んでいきます。

仏教は堅くるしいもの、真面目くさったものと考えられている。しかし、膨大な仏教文献のなかに、エロ的、グロ的、サド的要素を見出すことは不可能ではない。

エロティックなものの代表としてイシシンガ物語がある。女を知らぬ若い苦行者を堕落させようとした王女が、かれが彼女の陰部を見て傷と誤解したのを幸い、自分は一物を熊に食いちぎられ、爪で裂け目をつけられた、この傷をなおす方法は傷口をかれの一物でふさぐことしかないとだまし、かれに「治療」させて、目的を果したという話である(本書「女を負う一角仙人」参照)。

グロテスクの例として、不浄観がある。不浄観とは、肉体に対する執着を絶つため、肉体が不浄であることを観察・了解することをいう。肉体は自分のも他人のも意味するが、とりわけ女性のそれを意味する。墓地で腐乱した死体を見るのも不浄観の一方法である。

死体は不浄であるが、生体はそうでない、という人には、皮膚一枚の下には汚物がつまっていることを想起するよう勧める。肉、筋、骨、骨髄、腎臓、心臓、肝臓、肋膜、脾、肺、肺腑、腸間膜、胃、排泄物、胆汁、痰、濃汁、血、脂肪、涙、血將、唾、鼻液、関節滑液、尿、脳味噌などを思いうかべるのである。(『クッダカパータ』)。禅家では、肉体は「くそぶくろ(屎擔子)にすぎない(『テーラガーター』一一一五一、『テーリーガーター』四六六も参照)。

サディズムの例として地獄の描写をあげることができる。黒縄こくじょう地獄という地獄がある。獄卒が罪人のからだに墨糸で線をひき、線のとおりにからだを切っていく。屍糞しふん地獄では、死体と糞からなる泥沼に罪人を投げこむ。罪人は蛆むしに骨を穿たれ、髄をしゃぶられる。(中略)

以上の経文は、もちろん、エロ、グロ、サドを目的に説かれたのではない。人々の堕落を防ぐために説かれたのである。イシシンガ物語は女色の危険を教え、不浄観は肉欲の克服を教え、地獄の描写は悪道を避けることを教えている。

ところが、現代人は仏典を恐らくそのように素直には読まない。むしろ、エロ、グロ、サドをひそかに楽しむだろう。往古の経典作者や僧侶のなかにも、そのような傾向を持った人がいたのではないかと思われる。経典自身のなかにし、本来意図されなかった邪道な読み方の例が登場する。(中略)

仏典のエロティシズムに焦点を絞ろう。仏教は性には無関心であるように見える。しかし、それは表面上のことであって、その底には抑圧された性が潜んでいる。性欲の克服を重視する仏教は、それだけ大きなそれへの関心を前提にしているはずである。

生物は食欲と性欲を本能としている。生物は恥ずかしがらずに、素直にこの本能に従っているが、人間はそれを恥じ、それを否定するようになった。なぜだろう。わたしは二つの理由を考える。一つは、人間は他の生物とは異なるべきだという自尊心を人間が持ったこと。二つには、欲望は苦の原因であることを人間が知ったこと。

仏教の出発点はここにある。ブッダが妻妾たちの眠る姿に醜態を見出したことは、かれが誇り高い人間であったことを示すだろう。清浄の観念はバラモン教にもあるが、仏教にも横溢している。また、仏教は苦の克服を目ざす。苦の原因としてはとん(むさぼり)じん(いかり)(無知)の「三毒」を考える。「三毒」のなか、は貪が最強力であろう。それは生きるための本能だからだ。

貪の代表は食欲と性欲である。いかな宗教者でも食欲は無視することはできない。だが性欲は努力すれば抑制することができる。人間が人間であることの証しを得るために修行のエネルギーを性欲の克服に集中させた理由は十分理解できる。貪の原語はサンスクリット語のラーガ(激情、欲情)であり、仏教の重要な関心が性欲の克服にあったことがわかる。

わたしはいま仏教の裏街道を示そうとしている。仏教学者のなかにはこれを好まない人がいるかもしれない。しかし、人間にとって大事な性の問題を避けて、仏教のなにがわかるだろうか。性愛(カーマ)はインドでは人生の三大目的の一つにあげられているくらいである。人間のすべての面を知ってこそ仏教の意義が正しく理解できると、わたしは考える。

春秋社、定方晟著『インド性愛文化論』P1-6

「わたしはいま仏教の裏街道を示そうとしている。仏教学者のなかにはこれを好まない人がいるかもしれない。しかし、人間にとって大事な性の問題を避けて、仏教のなにがわかるだろうか。性愛(カーマ)はインドでは人生の三大目的の一つにあげられているくらいである。人間のすべての面を知ってこそ仏教の意義が正しく理解できると、わたしは考える。」

この最後の言葉は非常に重要な提言ではないでしょうか。

たしかにインド仏教においても、初期においてすら上のように「性」が語られていたのでありますが、そこからさらに時代を経るにつれてヒンドゥー教、特にタントリズムを取り込んだことで密教化が進み、性愛と仏教が接近してくることになります。教義によってはそれそのものと一体化することすらあります。

「人間にとって大事な性の問題を避けて、仏教のなにがわかるだろうか」という著者の言葉は非常に重いものがあるなと感じました。これは刺激的な一冊でした。ぜひ手に取ってみてはいかがでしょうか。

以上、「定方晟『インド性愛文化論』~仏教経典に説かれた性。仏教と性の関係性を真正面から問うた参考書」でした。

次の記事はこちら

前の記事はこちら

関連記事

HOME