(3)ローマの老舗カフェ・グレコへ~ゲーテやアンデルセン、メンデルスゾーンも通った芸術家たちの聖地

『ローマ旅行記』~劇場都市ローマの魅力とベルニーニ巡礼

【ローマ旅行記】(3)ローマの老舗カフェ・グレコへ~ゲーテやアンデルセン、メンデルスゾーンも通った芸術家たちの聖地

前回の記事「(2)文豪たちの宿泊地だったローマスペイン広場をご紹介!ベルニーニの傑作「バルカッチャ」の噴水に夢中」では文豪たちのローマ滞在の拠点となっていたスペイン広場についてお話しした。

今回の記事ではそんなスペイン広場の近くにある老舗カフェ・グレコについてお話ししていきたい。

1852年のカフェ・グレコ Ludwig Passini – Cafe Greco in Rome Wikipediaより

カフェ・グレコはあのゲーテやアンデルセン、メンデルスゾーンやベルリオーズなど数え切れないほどの著名人が時を過ごした名店だ。文学や絵画、音楽好きにはたまらない聖地となっている。

まずカフェ・グレコそのものをお話しする前に、このカフェが出来てきた歴史的背景を紹介したい。この背景からしてローマの特殊性というものが見えてきて非常に面白い。

グランドツアーの目的地としてのローマ

スペイン広場は一八世紀当時、「英国人のゲットー」と呼ばれることがあった。いわゆる「グランド・ツアー(大旅行)」でローマにやってきた英国紳士たちが、好んでスペイン広場の高級ロカンダに陣取ったからである。「イタリアを見ない者は当然見るべきものを見ていない、という劣等感に生涯さいなまれる」という、ジョンソン博士の有名な言葉どおり、一八世紀の英国ではイタリア旅行は紳士の必須の教養と見なされ、イタリア旅行を入会の条件にした社交クラブさえあった。そのため、彼らは多大な費用をかけてイタリアにやってきたのである。その「グランド・ツアー」の最大の目的地が、いうまでもなくローマであった。(中略)

一八世紀にローマにやってきた英国人は、大旅行の「ジェントルマン」ばかりではなかった。たとえば、画家リチャード・ウィルスン、ジョシュア・レノルズ、そして建築のロバート・アダムなどが、一七五〇年代にローマを訪れている。彼らは他の国の美術家のように、ローマ美術の発展に重要な役割を果たすということはなかったが、それぞれ故郷に帰ってローマで学んだことを生かした作品で成功した。また、『ローマ帝国衰亡史』で名高いエドワード・ギボンなども忘れるわけにはいかない。

こうした英国人をはじめとする外国人旅行者や文人、芸術家のたまり場、出会いの場所となったのが、一八世紀の偉大な創造物「カフェ」であった。ローマでもっとも古いカフェは、シャッラ広場に一七二五年に開かれたカフェ・デル・ヴェネツィアーノだったが、スペイン広場のカフェ・デッリ・イングレージは、古代ローマの遺跡の版画であまねく知られていたピラネージが内部を装飾したことで有名であった。このカフェ・デッリ・イングレージは、当時この界隈でももっともホテルや食堂の多かったカロッツェ通りの角にあり、その名のとおり英国人がよく通ったカフェである。

こうした古いカフェは、残念ながらその大半が時の流れの中に消え失せてしまった。けれども、唯一今も往時の姿そのままに商売を続けているカフェがある。コンドッティ通り八六番地の有名なカフェ・グレコがそれである。

吉川弘文館、石鍋真澄『サンピエトロが立つかぎり 私のローマ案内』P33-35

当時の上流階級の子弟は教育の総仕上げとしてイタリアへ向かっていた。そこで彼らはローマの芸術や建築を目にしたり、人脈形成の糧としていたのである。

このグランドツアーについては当ブログでも以前中島俊郎著『英国流 旅の作法 グランド・ツアーから庭園文化まで』という本を紹介した。

この本ではグランドツアーが行われるようになった背景や、その影響がわかりやすく説かれる。そしてイギリスと言えば湖沼地帯の美しい景色やカントリーハウスが有名だが、それらの美しい景色も実はこのグランドツアーがあったからこそだという驚きの事実を知ることになる。これは素晴らしい名著なのでぜひおすすめしたい。ローマ旅行をする際にも非常に面白い視点を与えてくれる作品だ。

そしてそうした旅行者がたむろし、交友を深めた場所こそ「カフェ」であった。

その中でも古くからの姿を保ち続けている貴重なカフェこそ、今回ご紹介するカフェ・グレコなのである。

カフェ・グレコの沿革~童話作家アンデルセンとの深いつながりも

カフェ・グレコ、つまりギリシア人カフェというのは、少々奇妙な名だが、このカフェがギリシアのレパント出身の男によって始められたところからつけられた名前である。カフェ・グレコは一七六〇年代には今と同じ場所にあったことが史料で分かるから、二〇〇年以上にわたって存続していることになる。しかも、基本的には往時のままで、今日のカフェ・グレコと往時のそれとの大きな違いは、入り口のところにカウンターのバールができたことくらいだといわれる。このカフェ・グレコがかくも名高いのは、ここが近代のそうそうたる外国人、そしてイタリア人芸術家・文人の交流の場となったからである。

今日カフェ・グレコはちょっとした観光名所になり、いつ行ってもよき時代の雰囲気を味わおうという観光客であふれている。外国人が多いのは昔と変わらないが、観光の大衆化は圧倒的である。もはやだれも芸術を論じている人はいない。私もカフェ・グレコの雰囲気は好きだが、いつもはカウンターでカプッチーノを飲むだけで満足している。人と会うなら、スべイン階段のわきの、やはり由緒あるカフェ、バビントンズ・ティー・ルームを選ぶであろう。

もちろん、カフェ・グレコは一度は入ってみる価値がある。「ロムニブス(乗り合い馬車)」と呼ばれた、片側がべンチになった細長い部屋や、奥の「サーラ・ロッサ(赤の広間)」と呼ばれる深紅の壁布が張られたやや広い部屋は、新古典的趣味で装飾され、よき時代の雰囲気をよく伝えている。また壁にはカフェにゆかりのある芸術家の絵や彫刻、肖像や手紙などがところ狭しと飾られてるし、ショー・ケースには一八三〇年当時のコーヒー・カップの複製が展示されている。ちょっとした生ける資料館といった感じだ。なにしろ、リストやべルリオーズの浮き彫り肖像もあれば、マーク・トウェインの像やガブリエーレ・ダヌンツィオの浮き彫り、さらにはゲーテの肖像やアンデルセンの手紙まである。アンデルセンは一時カフェ・グレコの階上に旅の伴侶とともに部屋を借りたことがあり、その部屋の様子を図入りで友人に知らせている。それによれば、部屋には絨毯があり、壁にはローマの景観画や鏡がかけられ、バルコニーにはバラやアラセイトウが咲いている。そして、夕暮れには燭台のほかに四ツ手のランプに灯をともす、とアンデルセンは記している。

吉川弘文館、石鍋真澄『サンピエトロが立つかぎり 私のローマ案内』P35-37

カフェ・グレコがいかに錚々たる人物が集まるカフェかがすでに伝わったと思う。そしてあの童話作家アンデルセンがこのカフェと深いつながりがあったというのに皆さんも驚かれたのではないだろうか。

ハンス・クリスチャン・アンデルセン(1805-1879)Wikipediaより

ディズニー映画の原作となった『人魚姫』『親指姫』など数々の名作を生み出してきたデンマーク出身の童話作家アンデルセン。実は彼もローマを深く愛したことで知られていて、彼のデビュー作『即興詩人』はまさに彼のローマ愛の賜物というべき作品となっている。

私もローマを学ぶまではアンデルセンとこの街につながりがあることなど全く想像すらしていなかった。やはりローマは桁が違う。ヨーロッパの文化人におけるこの芸術都市の価値はそれこそ計り知れないものがあったのだろう。

ゲーテとカフェ・グレコ~カフェ・グレコに集まる錚々たる顔ぶれ

このカフェ・グレコについて、ゲーテに部屋を提供した画家ティッシュバインは、ドイツの美術愛好家がここに集まるので、はなはだ便利だ、と書いている。また、同じくゲーテが「珍しく好人物」といって目をかけた文学者モリッツは回想録に、カフェ・グレコは若い芸術家がヴィッラや美術館を訪問する際の待ち合わせ場所だった、と記している。これに対してゲーテの『イタリア紀行』には、カフェ・グレコの名は出てこないが、彼がティッシュバインらとともにここに通ったことは想像にかたくない。こんなところから、『イフィゲーニエ』はカフェ・グレコで書かれた、という俗説がまことしやかに語られるのである。だが、うす暗くさわがしいカフェでゲーテが詩想をねったり、ペンを走らせたりするというのは、ちょっと考えにくいといえそうだ。

ともあれ、こうしたゲーテ周辺の証言からも分かるように、カフェ・デッリ・イングレージとは対照的に、カフェ・グレコにはドイツ人や北欧人が好んで出入りした。詩人ウィルヘルム・ハイゼが一七八三年の書簡に「カフェ・テデスコ(ドイツ人カフェ)」だ、と冗談まじりに記したのも道理なのである。ゲーテ、トロヴァルセン、ゴーゴリ、ショーペンハウアー、メンデルスゾーン、べルリオーズ、スタンダール、テーヌ、アンデルセン、リス卜、ワーグナー、アナトール・フランス、ホーソンといった、際限のないカフェ・グレコの外国人顧客リストは、ゲルマン優位である。

吉川弘文館、石鍋真澄『サンピエトロが立つかぎり 私のローマ案内』P37-38
ローマ近郊におけるゲーテの肖像(1786年/1787年、ヨハン・ハインリヒ・ヴィルヘルム・ティシュバイン画)Wikipediaより

ティッシュバインとはゲーテのこの有名な肖像画を描いた画家のことだ。ゲーテのローマ滞在の案内人とでも言うべき人物である。

そして上の引用の後半のリストには皆さんも驚かれたのではないだろうか。私も初めて見た時には度肝を抜かれた。あのショーペンハウアーまでここに来ていたのか!ロシア文学者のゴーゴリも!?メンデルスゾーン、ベルリオーズ、リスト、ワーグナー・・・!

そんな錚々たる顔ぶれがカフェ・グレコという空間にいたのである。しかもその姿は当時とほとんど変わっていないという。これには驚くほかない。

メンデルスゾーンとベルリオーズが親しくなった場所としてのカフェ・グレコ

では、往時のカフェ・グレコはどんなところだったのだろうか。それを知る手がかりとして、二人のフランス人の証言を引いてみようと思う。まず最初は一八三〇年にローマ賞を得てローマにやってきたべルリオーズ。彼はこういう。「有名なカフェ・グレコは確かに想像しうるもっともひどいタヴェルナだ。うす汚く、暗く、じめじめしている。ローマに住む各国の芸術家が好んでここに集まる理由を説明するものは何もない」。もちろん、そういうべルリオーズ自身もカフェ・グレコの常連で、たとえばメンデルスゾーンと親しくなったのもカフェ・グレコであった。次は美術理論家として名高いイッポリート・テーヌ。一八六四年に彼はこう記している。「細長い部屋はむしろ安手で、エレガントでもりっぱでもないが、十分快適である。すべてのものがたいへん安いのは事実で、おいしいコーヒーが一杯たったの三ソルディである」。ようするに、黄金時代のカフェ・グレコは高級なカフェなどではなく、手頃で便利なたまり場として各国の芸術家・文化人に利用されたカフェだったのだ。

また、このカフェ・グレコは外国人ばかりでなく、ダヌンツィオやパスカレッラといったイタリアの文人たちの拠点となった時期もあった。こうしたことを考えると、コロッセオやサン・ピエトロ大聖堂とは違った意味で、カフェ・グレコはローマのシンボル、いわばもう一つのシンボルといえるかもしれない。

吉川弘文館、石鍋真澄『サンピエトロが立つかぎり 私のローマ案内』P38-39

メンデルスゾーンが好きな私にとって、ここカフェ・グレコでのエピソードは非常に興味深いものがあった。

メンデルスゾーンはゲーテの『イタリア紀行』に非常に強い影響を受けていた。彼のローマ滞在はゲーテと共に在ったと言っていい。そんなゲーテも過ごしたカフェ・グレコにメンデルスゾーンもいたのである。そしてそこでベルリオーズと出会っているというのは何ともぐっと来る話ではないか。

そして引用の後半に語られていたように、かつてのカフェ・グレコは手頃にたむろできる場として便利だったというのも興味深い。高級だったから文化人が集まったのではないという所もこのカフェの面白い歴史ではないかと思う。

カフェ・グレコを訪ねて

さて、ここまでカフェ・グレコについての解説を見てきたが、いよいよ私もお店を訪れることにしよう。

これはスペイン階段の上から撮った写真だが、カフェ・グレコはスペイン広場のちょうど真正面の通りにある。

入ってすぐの場所はバーカウンターとフードコーナーになっていてここでさっとエスプレッソを飲む人やテイクアウトを注文する人でごった返す。この写真はかなり空いている方。カフェエリアでゆっくり楽しむ場合は店員にその旨を伝えれば中に通してくれる。

狭い通路に沿って座席があるという一風変わった構造だがその壁には絵画がびっしり。雰囲気がある。

入り口近くの席に着いた私はというと、エスプレッソとカプチーノを一気に注文。せっかくここまで来たので心ゆくまで味わいたい。

ここでゲーテやアンデルセン、メンデルスゾーンもコーヒーを飲んでいたのだ。

そんなことを考えながら頂くコーヒーは格別だった。

壁に掛けられている絵のほとんどはかつての古き良き時代のローマの風景画だ。ローマは1870年のイタリア統一による編入の前までは田舎と言ってもいいような牧歌的な雰囲気の残る街だった。フォロ・ロマーノ周辺も発掘されておらず、土に埋もれ緑が生い茂り、牛が歩いているような場所だったのだ。

ゲーテやスタンダール、メンデルスゾーンらが見たローマもそういう古き良きローマだったのである。ドストエフスキーが訪れた1863年もそうだった。そんな今とは全く違うローマの姿をここに飾られている絵から感じることができる。

さすが200年以上の歴史を持つ老舗。ノスタルジーを感じるにも最高だ。

私はローマ滞在中何度もここへ足を運んだ。何度来てもわくわくする空間だ。憧れの偉人たちがここにいたのだという思いに毎回興奮してしまっていた。

文学、絵画、音楽、歴史ファンにぜひおすすめしたいローマの一押しスポットだ。ぜひ皆さんもここを訪れてはいかがだろうか。

続く

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