(35)サンピエトロ広場の柱廊は未完成!?知れば見え方が変わるベルニーニの本来の設計案とその意図とは

『ローマ旅行記』~劇場都市ローマの魅力とベルニーニ巡礼

【ローマ旅行記】(35)サンピエトロ広場の柱廊は未完成!?知れば見え方が変わるベルニーニの本来の設計案とその意図とは

今回ご紹介するのはサン・ピエトロ大聖堂の目の前の巨大な空間、サン・ピエトロ広場だ。

このサン・ピエトロ広場については2019年にここを訪れた時の記事「ミケランジェロとベルニーニが設計したサン・ピエトロ大聖堂の美の秘密を解説 イタリア・バチカン編⑥」でもお話しした。

この記事ではサン・ピエトロ広場の基本的な内容とこの広場の意味するところを解説したので、今回の記事ではそこからもっと深く踏み込んでこの広場について見ていきたいと思う。

では早速始めていこう。

サン・ピエトロ広場建設の3つの困難~実は問題だらけだった広場の悪条件とは

1655年に即位した教皇アレクサンデル七世。ベルニーニの最強のパトロンであったこの教皇は早速彼に大事業を託すことになる。

アレクサンデル七世はイノケンティウス十世時代にはあまり顧みられなかったサン・ピエトロの整備に非常な情熱を傾けた。彼は即位した翌年にさっそく、サン・ピエトロ前の広場を拡張整備するという布告を出している。サン・ピエトロ建設の聖省コングレガツィオーネは、すぐにべルニーニにたたき台となるプランを考案するよう命じたのであった。

しかし、サン・ピエトロ広場の建設には、むずかしい問題が三つあった。

第一は、用地の問題である。つまり、教会に向って右側(北側)に一連の重要な建物があり、それを取り壊すことは不可能だったため、「長靴のような」形をした用地しか利用できなかったことである。おまけに広場にはすでにカル口・マデルノの噴水とオべリスクがあったので、これらをどうするかも考慮に入れなければならなかった(このオべリスクは中世の間も建ったままだった唯一のもので、サン・ピエトロの脇にあったのだが、シクストゥス五世が一五八七年に移動させて広場の飾りとしたものである。オべリスクを移動して再び建てる作業には、四四の巻き上げ機アルガノと九〇〇人の労働者、そして一四〇頭の馬を要し、長く後世の語り草となった。このローマで最初のオべリスク装飾を完成させたドメニコ・フォンターナは、この難事業について誇らしげに一書を著わしくいる)。
※一部改行した

吉川弘文館、石鍋真澄『ベルニーニ バロック芸術の巨星』P149
Wikipediaより

この絵はサン・ピエトロ広場が作られる前の様子が描かれたもの。

左の絵はサン・ピエトロ大聖堂のドームを建設しているときの模様。もちろん回廊もファサードもできていない。右の図はファサード以外が完成した1593年のバチカン。現在サン・ピエトロ広場になっている場所にも建物が密集しているのがわかる。

こういう場所を大改造して今のサン・ピエトロ広場があるのだ。広場ができる前の姿を知ればよりベルニーニのすごさを感じることになるだろう。

シクストゥス五世によるオベリスクの移動の様子 Wikipediaより

ちなみにこれが上の解説で語られたオベリスクの移動。言葉で聞くより絵で見た方がその圧倒的スケールが伝わる。もはや笑ってしまうほどのインパクト。これは後世の語り口になってもおかしくない。

第二の問題は、実用上の要求をうまく満たすことであった。その最大の課題は、教皇の祝福を受けに集まる信者たちを、できるだけ多く受け入れることである。けれども、今日なおそうであるように、教皇はファサードの祝福のロッジアロッジア・デルラ・ベネディツィオーネからだけでなく、あまり重要でない機会には教会に向って右手にあるパラッツォ・アポストリコの窓からも祝福を与える習慣だったから、どちらの場合にも支障がないように考慮しなければならなかった。また、例年仮設の装置で間に合わせていた、聖体の祝日の行列コルプス・ドミニ・プロセションが通るアーケードを兼ねる建築物であれば、なお理想的であった。

吉川弘文館、石鍋真澄『ベルニーニ バロック芸術の巨星』P149-150

広場そのものの土地の難しさに加えて、さらには実用面でも便利なものが要求された。だがそれで終わりではない。

そして第三は、美的な問題である。つまり、鐘塔の計画が放棄されたため不完全なまま残されていたサン・ピエトロのファサードを、できるだけ高く、かつりっぱに見せるものが望ましかったのである。ベルニーニはこの点に特に留意して、以上のような困難な課題を見事に解決する独創的な広場を設計した。

それ自身の役割の他に、サン・ピエトロを引き立てる機能をも要求されたその広場は、サン・ピエトロ前の通廊にはさまれた台形の部分(ピアッツァ・レッタ)と、広場の本体ともいうべき柱廊に固まれた楕円形の部分の二つの部分から成っている。べルニーニは、柱廊による切れ目のない列柱のリズムをファサードまで連続させるとともに、それを低目におさえることによって、ファサードをより高く、より偉大に見せようとしている。またこのように柱廊を低くおさえたために、パラッツォ・アポストリコの窓からの教皇の祝福も広場から支障なく見えることになり、加えて柱廊という形式は聖体の祝日の行列にははなはだ好都合であった。一方、北側の建物とは通廊でうまく仕切りをつけ、オべリスクは楕円の中央にくるようにし、それから噴水は場所を移動して対となる噴水を新たに作り、左右のバランスをとった。このようにして問題は見事に解決されたのである。
※一部改行した

吉川弘文館、石鍋真澄『ベルニーニ バロック芸術の巨星』P150
Wikipediaより

こうして数多の困難を克服して作られたのがサン・ピエトロ広場だったのである。悪条件を克服して美しいものを造ることにベルニーニは熱意を燃やした。以前紹介したサンタンドレア・アル・クイリナーレ聖堂もその典型だ。(「(33)サンタンドレア・アル・クイリナーレ聖堂~ベルニーニのパンテオンたる、建築の最高傑作!」の記事参照)

土地の悪条件だけでなく、実用性、美の要求にも完璧に応えてしまうベルニーニには驚くしかない。

コロッセオからもインスピレーションを受けたベルニーニ

べルニーニはまた、円形は独立した円柱と平らなエンタブレチュアを最も美しく見せると記しているが、その言葉にうかがわれるとおり、柱廊の建築的構成は実に簡素である。柱廊はドーリス式の円柱とイオニア式のエンタブレチュアを基本とし、中心軸のべイには角柱ピラストロが用いられ、そこには付け柱がつけられている。だがそこにも破風はなく、列柱とエンタブレチュアの単純で力強く、かつ滑らかなリズムは切れ目なく続く。

べルニーニがここでトリグリフのついたドーリス式のエンタブレチュアを嫌って、「平らな」イオニア式のそれを用いたのは、柱廊に澱みのない流れを求めたからにちがいない。こうした変則的な組み合わせは、ルネッサンスやバロックの建築にも例があるが、べルニーニはそれをコロッセウムの外周から学んだのだろうといわれる。

彼はこのイオニア式のエンタブレチュアの上に欄干バラウストロをつけ、そのそれぞれの柱の上に、自らモデルを作って助手に制作させた一四〇体の聖人像をすえている。この装飾がなかったならば、柱廊は幾何学的形態の単調さと古典的様式の冷たさの印象を免れなかったであろう。そう思わせるほど、建築物としての柱廊は簡素で厳格であり、まさしく古典的である。

しかしそれにもかかわらず、実際に広場を訪れると、そこにはある種のダイナミスム、壮厳なダイナミスムとでも呼びたいような、抑制された動感を感じる。しかしそれが楕円という広場の空間に起因するのか、あるいはサン・ピエトロやオベリスクといった柱廊以外の事物の効果なのか、それとも欄干の上の諸聖人の像によるのか、判然としない。ともかく、ベルニーニの教会建築の場合と同様に、古典的要素から成る建築が、全体として舞台芸術的シェノグラフィックな効果をもったバロック的空間を生み出していることは確かである。
※一部改行した

吉川弘文館、石鍋真澄『ベルニーニ バロック芸術の巨星』P152-153

この柱廊にコロッセオが影響を与えていたというのは驚きだった。

コロッセオに関してはこの旅行記でも「(5)古代ローマの象徴コロッセオとゲーテ・アンデルセン~文人たちを魅了した浪漫溢れるその姿とは」の記事でお話ししたのでこちらもご参照頂きたい。

実は未完の作品だったサン・ピエトロ広場~幻の第三柱廊の存在

ここでは私たちが知るサン・ピエトロ広場とは全く異なる驚きの事実が語られることになる。この箇所には私も衝撃を受けた。

それにしても、このサン・ピエトロ広場の整備は大へんな事業であった。柱廊が完成するまででも一一年かかっているが、それもそのはずで、広場の幅、すなわち惰円の長軸は二四〇メートルあり、これを囲む幅一七メートルの柱廊には高さ一三メートルの円柱が四四本立っているのである。その上に立つ一四〇体という聖人像の制作だけを考えても、気が遠くなりそうな話ではないか。そして柱廊が完成した後も、広場の舗装などの工事が続けられた。結局、完成までにはさらに長い年月が必要だったのである。

けれどもこの広場は、べルニーニの作品としては今日なお未完成だといわねばならない。なぜなら、彼は「第三の柱廊」によって広場を閉じようと考えていたからである。ところが、南北の柱廊の次に舗装工事を優先させたところ、アレクサンデル七世に代わって厳格なイノケンティウス十一世が即位し、「第三の柱廊テルツァ・ブラッチャ」の建設計画は中止されてしまう(※ブログ筆者注、アレクサンデル七世は1667年に死去し、その後クレメンス九世、クレメンス十世が続き、1676年にイノケンティウス十一世が即位した)。そして広場は開口部を大きく残したまま今日にいたるのである。

けれどもこの間に、広場の外観を大きく変えてしまう出来事が起こった。ムッソリーニ時代(一九三五-一九三六年)になって、サン・タンジェロ橋と広場を真直ぐに結ぶコンチリアツィオーネ通りが建設されたのである。しかしこの現状は、べルニーニの意図を台無しにし、広場の価値を半減してしまったといえる。というのは、「第三の柱廊」を加えることで広場に閉ざされた空間を作り、サン・タンジェロ橋を渡ってボルゴの狭い通りをやってきた巡礼者の目の前に突然広場が開けるようにするというのが、べルニーニの構想だったからである。彼は、巡礼者たちを驚嘆させることによって広場の舞台芸術的シェノグラフィックな効果を高め、そこを文字通りの別世界にしようとしたのである。もし彼の計画どおりに広場が完成していたならば、広場の印象はより鮮明になり、その「テアトルム・ムンディ」(世界の劇場)としての意味もより明瞭になったことであろう。これに対して新しく建設されたコンチリアツィオーネ通りには、サン・ピエトロの全容を見せるというメリットはあるが、その眺望は決してサン・ピエトロの美しさを理解させはしないように思われる。ファシズム時代の建造物に特有な胸の悪くなるような造形の中を抜けて、しまりなく広場に入り、サン・ピエトロに向うという道筋は、この類稀な建築物モニュメントと広場にとってあまりに不幸だと筆者は感ずる。読者には、バスか地下鉄に乗って終点で降り、ポルタ・アンジェリカの方から広場に入ることを勧めたい。
※一部改行した

吉川弘文館、石鍋真澄『ベルニーニ バロック芸術の巨星』P154-156
Wikipediaより

なんと、サンピエトロ広場の柱廊は本来開けたものではなく、閉ざされたものだったのである!上の画像はファルダという画家によって描かれたベルニーニの計画案だ。

もしこれが実現されていたら、たしかに上の解説で述べられたようにより「劇的な空間」となっていたことだろう。今からでも遅くはない、なんとかならないものかと私は思ってしまう。

例のムッソリーニ時代に作られたコンチリアツィオーネ通りから見たサンピエトロ広場。もしベルニーニの案通りになっていたとすれば、ここから見えるのは柱廊とドーム部分のみ。サン・ピエトロ大聖堂のファサードはほとんど見えないだろう。そしてここを通って柱廊をくぐればいきなりサン・ピエトロ大聖堂の圧倒的な姿を目にすることになる。これはドラマチック。

そもそもこのコンチリアツィオーネ通りそのものがこのサンピエトロ広場の美しさを破壊してしまっているとのことだったので、私たちが当たり前のように見ているバチカンというのは本来のものとはだいぶ違うということなのだ。もし本来の意図通りにその姿が復元されるとしたら、私達はさらなる感動を味わうことになるに違いない。

サン・ピエトロ広場の評判とその後

さて、べルニーニのこの広場はプランのうちから批判も少なくなく、対案まで出されたほどであった。だがひとたび完成するや、それは文字通り絶讃を博する。そしてこの独立した柱廊コロンナートによる広場という独創的なアイディアは、この後二世紀以上にわたってヨーロッパ各地に大きな影響を及ぼすことになるのである。

しかし、アレクサンデル七世時代のローマの社会情勢は日増しに悪化していた。ヴェネツィアの大使だったニコロ・サグレードは次のように書き送っている。「教皇は長い間都市の美化と道路の補修に特別の意を用い、まったくこの仕事において彼は前任者たちをはるかに凌いでいる。……サン・ピエトロ広場を囲む柱廊の建設は、古代ローマの偉大さを思い起こさせる偉業となるであろう。この仕事は半分が終ろうとしているが、あと三年はかかるといわれる。私はこのような努力が現在行われるのが適当かどうかを議論するつもりはない。それは私よりこうした事柄をよく理解する人に任せよう。けれども、ローマでは建物がますます増える一方、住む者が少なくなっているのは事実である。この住民の減少は著しく、誰の目にも明白である。コルソ通りにも他の繁華街にも、空家と貸家の貼紙ばかりが目につく」。そしてこの七年後には、べルニーニの柱廊に価値を認めない次の大使ジャコモ・クリエーリが「これらすべては、一〇〇万スクーディ以上が一連の破壊的な過ちに浪費されたという最悪の噂を裏づけている」と記している。

しかしながら、アレクサンデル七世とべルニーニが残した偉大な遺産は今日もなお生きている。クリスマスや復活祭などの特別の祝日だけでなく、この広場で毎週行われる教皇の祝福や謁見ウディエンツァにも多くの信者が集まり、広場はまさしく劇場テアトロとなるからである。べルニーニの広場の価値を正しく評価するためには、是非ともこうした機会に広場を訪れる必要があろう。
※一部改行した

吉川弘文館、石鍋真澄『ベルニーニ バロック芸術の巨星』P156

幼いころから神童として活躍し、20代で『アポロとダフネ』『バルダッキーノ』を制作した早熟の天才ベルニーニ。60代になっても彼の栄華は続いたが、その晩年は苦しいものとなる。パトロンのアレクサンデル七世の死や悪化するローマの社会情勢がベルニーニに襲いかかったのである。

たしかに、生活するにも困っているローマ市民を救わずに豪華な建築ばかりに邁進していたのなら市民の不満も爆発してもおかしくはない。財政破綻しかねないほどの財布事情でこれ以上豪華な建築にお金をかけられないというイノケンティウス十一世の判断もわからなくもない。

だが、後世を生きる私たちにとってはこの素晴らしいサン・ピエトロ広場の価値は疑いようもない。

この広場が批判されたという事実やローマの社会事情を考えると複雑な思いにもなってしまうが、これが歴史や文化を学ぶということでもある。「ああすごいね!素晴らしいね!」だけで終われないものもあるのだ。(ちなみに、こうした建築事業はこれといった産業のないローマ市民の雇用を創出する公共事業でもあった。ローマの教会建築にはそういう一面もあったことを改めて指摘しておきたい)

では、最後に私がこのサンピエトロ広場に訪れた時の写真をいくつか紹介してこの記事を終わりたい。

早朝のサン・ピエトロ広場前。この日は雨で薄暗かったが、それはそれで味わい深かった。

日中は大混雑の広場も早朝ならほとんど人もない。サン・ピエトロ大聖堂への入場もスムーズであった。

こちらは夜の写真。ファサード側から広場を眺める。11月末から12月にかけては雨が多いと聞いていたがまさにその通りだった。

ライトアップされた白い柱廊と聖人像がとても美しかった。

ローマに訪れたならこのサン・ピエトロ広場は必ず訪れることになるだろう。だがここは朝昼晩と、それぞれ違った姿も見せてくれる。できることならバチカン近くに宿を取る日も設けて様々な時間帯のバチカンも体感してほしい。写真で見てもわかるように、たとえ雨だったとしてもそれはそれで美しく、趣があるものだ。どんな時間帯、どんな気候でもここは圧倒的な空間なのだ。ぜひベルニーニの究極の作品を味わってほしい。

続く

※以下の写真は私のベルニーニメモです。参考にして頂ければ幸いです。

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