(39)『福者ルドヴィカ・アントーニ』~サン・フランチェスコ・ア・リーパ教会のベルニーニ最晩年の力作!
【ローマ旅行記】(39)『福者ルドヴィカ・アントーニ』~サン・フランチェスコ・ア・リーパ教会のベルニーニ最晩年の力作!
長々とベルニーニの生涯と作品を見てきたが、いよいよ最晩年に突入する。数々の栄光を掴んできたベルニーニであったが、その最晩年は残念ながら苦しいものとなってしまった。
というのも、これまでベルニーニに深い理解と親愛の情を持って支えてくれたクレメンス九世がたった二年ほどの在位で亡くなってしまったのだ。では、ベルニーニの苦難のきっかけとなった1670年の新教皇の即位について見ていこう。
クレメンス十世の即位とベルニーニへの誹謗中傷
教皇選挙は異常に長引いた。一二月二〇日に始まったこの教皇選挙は、翌年四月二九日になってようやくエミーリオ・アルティェーリを選出したのである。新しい教皇クレメンス十世はローマの旧家出身で、八十一歳という高齢であった。だから野心的な美術企画など期待すべくもなく、おまけに教皇庁の財政状態はそれを許さぬほどひっ迫していた。一方、教皇の一族も、教皇の存命中に自家のパラッツォを増築し、装飾することで頭がいっぱいだった。この工事は夜間も燈火をともして続けられたといわれる。
クレメンス十世が即位した一六七〇年という年は、べルニーニにとって沈鬱な晩年の始まりだった。教皇の後楯を失った彼は、さっそく批判の矢面に立たされる。すなわち同年八月二日の文書でべルニーニは、当局から「かくも悲惨な時代に教皇を無益な浪費に溺れさせた扇動者」と決めつけられ、この後も再三非難を浴せられるのである。またこの年の一一月一日に除幕された《コンスタンティヌス帝の騎馬像》に対する、先に紹介した長文の誹毀文書も、こうした反べルニーニ派の一連の批判の一つと見ることができる。
そしてさらに悪いことには、一二月二〇日に兄弟のルイージが罪を犯し、ローマから逃亡せざるをえなくなるという事件が起きた。この時べルニーニは事件がスキャンダルにならないよう、あらゆる手段を講じている。まず彼は、クリスティーナ女王に裁判を棚上げにするよう懇請し、さらにアルティエーリ家の助力を得るために、多くの仕事を無報酬で引き受けた。その後聖年の特赦によってルイージが放免になりこの一件が落着したのは、一六七五年のことであった。
吉川弘文館、石鍋真澄『ベルニーニ バロック芸術の巨星』P197-198
※一部改行した
ベルニーニの沈鬱な晩年はこうして始まった。後ろ盾を失ったベルニーニは激しい批判にさらされる。そして身内の起こした事件によって無報酬で多くの仕事を引き受けざるをえなかった。しかもそれは助力を得るために彼から懇願してそうしなければならなかったのである。バロックの王としてローマに君臨していた彼にとってこれほど屈辱的なことはなかっただろう。
そして注意したいのは、引用の前半の「新しい教皇クレメンス十世はローマの旧家出身で、八十一歳という高齢であった。だから野心的な美術企画など期待すべくもなく、おまけに教皇庁の財政状態はそれを許さぬほどひっ迫していた。一方、教皇の一族も、教皇の存命中に自家のパラッツォを増築し、装飾することで頭がいっぱいだった。この工事は夜間も燈火をともして続けられたといわれる」という箇所だ。
教皇庁の財政がひっ迫していたから大規模な建築がなされなかったのはわかる。だが、教皇の一族は随分と羽振りが良かったようで自身の家や別荘を建てるのに大忙しだったよう。
「(15)モーツァルト級の才能と驚異の頭脳を発揮する神童ベルニーニ~16世紀ローマの特殊な社会状況も紹介」の記事の中でもお話ししたが、これといった産業のないローマでは教会や公共施設の建設は福祉政策でもあった。これによって雇用が生まれていたという事情もたしかにあったのだ。
だが、ここに来てローマの財政はいよいよひっ迫。もはや大規模工事はできないほどだった。いわば沈みゆく大船だ。だからこそ教皇の一族はここぞとばかりに自分たちのためのパラッツォを建てたのだろう(その財源は言うまでもない)。
もちろん、こうした行為はこの時に始まったわけでもなく、ここ数世紀のバチカンでは当たり前のことであった。教皇の一族が重要なポストを独占し繁栄するというのは慣例のようになっていた。だがこれも複雑な背景があり、そうせざるをえなかったという事情もある。この辺りの複雑怪奇っぷりについてはとてもじゃないがここでは語れない。このことに興味のある方は石鍋真澄著『教皇たちのローマ』や江村洋著『カール五世 ハプスブルク栄光の日々』、M・ヴィローリ著『マキァヴェッリの生涯 その微笑の謎』などをぜひおすすめしたい。
さて、最晩年のベルニーニであるが、私にはそんな沈みゆく大船ローマのスケープゴートとして犠牲となったと思わざるをえない。たしかに彼の芸術にはお金がかかった。それに対する批判もかつてからあった。だが、それにしてもこの時期におけるベルニーニへの批判は不当なものがあるように思う。
サン・フランチェスコ・ア・リーパ教会の『聖ルドヴィカ・アルベルトーニ』
さて、ベルニーニは今や七十歳を過ぎ、一六七三年には妻にも先立たれた。にもかかわらず、彼の創造力は衰えを見せなかった。あまり気勢の上がらなかったクレメンス十世時代にも、彼はいくつかの優れた作品を制作している。その筆頭にあげるべきは、福者ルドヴィーカ・アルべルトーニの像であろう。この作品は、ローマのトラステヴェレ地区にあるサン・フランチェスコ・ア・リーパという目立たない教会にある。そのため一般にはほとんど知られていないが、この時期のべルニーニの代表作ともいえる傑作である。この作品は、クレメンス十世が即位すると間もなく、パルッツィ・デㇽリ・アルべルトーニ枢機卿から依頼され、一六七一年から七四年にかけて制作されたと考えられる。このアルべルトーニ枢機卿は、教皇の実家アルティエーリ家と姻戚関係にあり、教皇が最も頼りにしていた人物であった。
一方福音ルドヴィーカは、一四七三年に生まれ、二十歳の時にトラステヴェレ地区の貴族と結婚する一三年間の結婚生活の後に夫を失い、苦労しながら三人の子供を育て上げると、宗教生活に入って、その貧者に対する献身で人々に福者として崇められた女性である。彼女は一五三三年に亡くなったが、その時作られた墓碑にはすでに福音ルドヴィーカと記されている。しかしながら、教皇庁がこの民間信仰を正式に認めて福者に列したのは、一六七一年一月、つまりクレメンス十世の時代になってからであった。かくして自家が生んだ福者を記念すべく、アルベルトー二枢機卿はサン・フランチェスコ・ア・リーパにある自家の礼拝堂の祭壇装飾をべルニーニに依頼したのである。べルニーニはルイージの事件の余波で、この仕事を無償で引き受けている。
吉川弘文館、石鍋真澄『ベルニーニ バロック芸術の巨星』P201-203
※一部改行した
この解説の最後にあるように、ベルニーニはこの仕事を無償で引き受けている。だがその仕上がりは最晩年のベルニーニの傑作と言ってよいものであった。
引き続きこの像についての解説を見ていこう。
ベルニーニの熟練した神秘的表現
このアルべルトーニ礼拝堂は一六世紀に作られたもので、この教会の左翼廊部にある。べルニーニはこの礼拝堂の奥に祭壇を設け、その両脇に窓を切って光を採り、祭壇には自ら刻んだ横たわる福者の像とバチッチョの《聖アンナと聖母子》の絵とを飾っている。身廊の方から見ると、この祭壇装飾は暗い礼拝堂の奥に、あたかもそこだけが神秘の光に包まれているかのように照り映えている。ことに大理石のルドヴィーカの像はやわらかな光を漂わせ、まことに神秘的だ(この礼拝堂におけるほど教会の照明が作品の効果を損う例はない。もしライトがついていたら、消してもらうべきである)。その効果はライモンディ礼拝堂やコルナーロ礼拝堂の場合に似ているが、前者よりは一層集中感があり、また後者とは比較にならないほど構想が単純である。それゆえ、我々はそこにより深い宗教性と神秘を感じるのである。
そしてこうした効果に、べルニー二一流の色彩に対する配慮が貢献している点も見逃すわけにはゆかない。つまり彼は背景に絵を据え、台座の布に色大理石を用いて、白い大理石の像がよく映えるように工夫しているのである。そしてルドヴィーカの像自体も、衣襞を大きく深く刻むことによって、その石の肌を透けてとおったり、あるいは表面に漂ったりする光の効果を有効に引き出し、それによって、この像の神秘的表現を達成しようとしているのだ。
ルドヴィーカは胸に手をあてて横たわり、至福を表情に浮かべている。この像の解釈には、福者の死の姿を表わしているとする説と、神との神秘的合一の状態を表現しているとする説とがあり、どちらともにわかには判じ難い。そのポーズは死の姿を表わしたマリア・ラッジを思わせるが、十字架をかき抱いたという、伝記作者の伝えるルドヴィーカの死の様とは符合しないから、後者の説を正しいとすべきかもしれない。ともあれ、この像に近づいて手の表現などの細部を観察すると、衰えざるべルニーニののみの力に心を打たれないわけにはゆかない。
けれども、そうした表現力やドラマティックな形態にもかかわらず、全体の印象には不思議なほど静かで深いものがある。イタリア彫刻に関する三巻の著書で名高いポープ・へネシーは、べルニーニとバロック彫刻にはむしろ冷淡だが、彼のこの時期の作品には大へん好意的だ。たとえばサン・タンドレア・デㇽレ・フラッテの天使像について、彼は「これらは我々に、劇作家や設計者の無神経な自惚れではなく、献身的な大理石彫刻家の控え目な声で語りかける」と記し、一方このルドヴィーカの像については、「これまでの時期には考えられなかったような、円熟味と見栄に対する蔑視とをもって作られている。彼がイタリアの最も偉大な美術家の一員として受け入れられるとしたら、それは最終的には聖女テレサでなく、この至高の像によるにちがいないのである」と述べている。
筆者はべルニーニの作品に対するポープ・へネシーの評価には必ずしも同意できないし、この論述にも賛成しかねるが、それは確かに一つの見識だといわざるをえない。福音ルドヴィーカの像には、七十代半ばの作とは信じ難い創造性とともに、その年齢にふさわしい精神的な深さがあるからである。
吉川弘文館、石鍋真澄『ベルニーニ バロック芸術の巨星』P
※一部改行した
この解説の前半に出てきたライモンディ礼拝堂(写真左)やコルナーロ礼拝堂(右)は以前紹介した。
これらはベルニーニ壮年期の傑作礼拝堂だが、これらと比較して見ていくのも面白い。詳しくは以前の記事「(24)ベルニーニのライモンディ礼拝堂~見事な光のスペクタル!劇作家・演出家としてのベルニーニ」と「(27)ベルニーニ『聖女テレサの法悦』~バロック美術の最高傑作!コルナーロ礼拝堂の驚異のイリュージョン!」をご参照頂きたい。
では、実際にこの教会を訪れて『福者ルドヴィカ・アントーニ』を見ていくことにしよう。
サン・フランチェスコ・ア・リーパ教会を訪れて
この教会はコロッセオやスペイン広場があるエリアから少し離れたトラステヴェレ地区にある。そのため少しアクセスがしにくい。だがこの近辺には先ほど紹介したライモンディ礼拝堂や『聖チェチリアの殉教』で有名なサンタ・チェチリア・イン・トラステヴェレ聖堂もあるのでこれらを一気に見学するのがおすすめだ。
私は夕暮れ時に来たので堂内は薄暗かった。そしてほとんど人もいなかったので思う存分教会の静かな雰囲気を味わうことができた。
中央祭壇近く。これまで見てきた大規模な教会と比べるとかなりこじんまりした教会。だがとても居心地よくアットホームな空気すら感じる。
こちらが『福者ルドヴィカ・アルベルトーニ』。夕暮れ時の薄暗い堂内。ベルニーニ得意の採光窓によってこの彫刻にも光が差し込んでいる。この時間帯特有のものなのだろうが、これはまさに月明りに照らされているかのようだ。その美しさ、幻想的な雰囲気に思わず息を呑んでしまった。
そしてこの教会にもご丁寧に照明器具が備え付けられている。一ユーロ投入すればライトが点く仕組みだ。石鍋真澄先生は「この礼拝堂におけるほど教会の照明が作品の効果を損う例はない。もしライトがついていたら、消してもらうべきである」と注意されていたが、せっかくなので点けてみよう。あえてその違いを感じてみたい。
あぁ、たしかにライトを点けたことで見やすくはなった。しかし先程感じた幻想的、神秘的な雰囲気がどこかへ行ってしまった!やはりベルニーニが意図して作った光でなければだめなのだ。窓から差し込む光があってこそのこの像なのだ!
聖ルドヴィカの恍惚とした表情はたしかにベルニーニの本領発揮と言えよう。
そして『聖女テレサの法悦』と比べると『ルドヴィカ』は衣の表現がかなり柔らかいというか控えめになっているのがわかる。神秘の躍動というより、静かにそっと法悦を身に受けたという印象。エネルギーに満ちた壮年期のベルニーニと、苦しい晩年を過ごした老境の作品ではその表現も違うのも当然だろう。
石鍋真澄は「筆者はべルニーニの作品に対するポープ・へネシーの評価には必ずしも同意できないし、この論述にも賛成しかねるが、それは確かに一つの見識だといわざるをえない。福音ルドヴィーカの像には、七十代半ばの作とは信じ難い創造性とともに、その年齢にふさわしい精神的な深さがあるからである。」と述べていたが、私もまさにそのように思う。
作品としての完成度やその独創性、時代を切り開く圧倒的パワーを感じるのはやはり『聖女テレサの法悦』だ。
だが、『福者ルドヴィカ』はそれはそれとして卓越したものを持っている。それは間違いない。ベルニーニ最晩年の傑作として歴史に残る作品であるのは疑いようがないだろう。
それにしても闇夜に光る『福者ルドヴィカ』の美しさよ・・・!
この時間に来て正解だった。もし次にここに来る機会があったとしても私はこの時間に訪れるだろう。
ベルニーニは採光を完璧に統御している。そして差し込む光がどう彫刻を照らすかもすべて計算済みだ。ライトの光では絶対にそれは再現することができない。石鍋真澄がくれぐれも注意していたことの意味がよくわかる。
いやぁ、実に素晴らしい体験であった。ローマ観光においてはマイナーなスポットであるかもしれないが、非常にインパクトのある教会だ。ぜひトラステヴェレ地区に行かれる際はここを訪れるのをおすすめしたい。
続く
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※以下の写真は私のベルニーニメモです。参考にして頂ければ幸いです。
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