メンデルスゾーンとゲーテの交流と友情~『イタリア紀行』に強い影響を受けたメンデルスゾーン

ドイツの大詩人ゲーテを味わう

メンデルスゾーンとゲーテのつながりと友情~『イタリア紀行』に強い影響を受けたメンデルスゾーン

ドイツの作曲家メンデルスゾーン(1809-1847)は幼い頃より神童ぶりを発揮していました。

そして家柄もよく、その文化水準の高さによってメンデルスゾーン家のサロンには錚々たる顔ぶれがそこに集まっていました。ベルリン大学を創立した言語学者フンボルトや哲学者のヘーゲル、ガンス、グリム童話で有名なグリム兄弟、作家のホフマンなど当時の最高レベルの知識人が集う中でメンデルスゾーンは育っています。これを知った時は思わず驚きで声を上げてしまいました。

すべて繋がっているんだと。

後に歴史を残す偉人たちは必ずどこかで繋がり合っている。でも、さすがにこれは繋がり過ぎだろうと!しかも後にはあのゲーテとも固い友情で結ばれるというのです。これにはさすがに呆然としてしまいました。

こうしたメンデルスゾーンの生涯を私は彼の伝記を通して知ることになりました。

今回の記事ではそんなメンデルスゾーンとゲーテのつながりをご紹介していきます。

参考にするのはひのまどか著『メンデルスゾーン 美しくも厳しき人生』です。

メンデルスゾーンの生涯においては以下のクッファーバーグ著『メンデルスゾーン家の人々 三代のユダヤ人』が最も詳しく書かれているのですが、今回は読みやすさ、親しみやすさの点でひのまどかさんの作品から引用していきたいと思います。

メンデルスゾーンについては以下の解説動画がとてもわかりやすくておすすめです。彼のことを知ってからこの記事を読むとより楽しめますのでぜひご覧ください。

メンデルスゾーンとゲーテの初めての出会い~1821年、メンデルスゾーン12歳、ゲーテ72歳の年

十月二十七日、十二歳のフェリックスは師ツェルターと師の娘と共にべルリンを発ち、一週間後の十一月三日、ゲーテが住むザクセン・ワイマール公国の首都ワイマールに着いた。

ゲーテの崇拝者たちから「神殿」のごとく思われているゲーテ邸は、町の中心部フラウエン広場に面して建っていた。

ゲーテはまだ旅行から戻ってきていなかったが、家のことはゲーテの息子の妻オッティーリエ夫人が管理していて、一行は客用の一室を与えられた。

大きな邸宅には、豪華な居間や接見室や書庫など、立派な部屋が十数室あった。

三日後、フェリックスが町でスケッチをしていると、ツェルターが急ぎ足で呼びに来た。

「ゲーテが到着された。もうここに居られるぞ」

初めてゲーテを見た時、フェリックスは思った。

ー七十二歳ってきいていたけど、すごく若い!それに、どの肖像画にも似ていない。

ゲーテは、長い巻毛と天使のように愛らしい顔の少年を親し気に迎えてくれたが、親友が自慢するほどの神童かどうかまだ疑っているらしかった。

そのことを察したツェルターは、フェリックスをピアノの所に連れて行き、命じた。

「閣下のために何か弾きなさい」

フェリックスはバッハのフーガと即興演奏で、ゲーテの目も耳も心も奪ってしまった。

―誠、モーツァルトの再来だ!

この瞬間から、ゲーテは少年を愛し、その愛情は日々刻々と増していった。

フェリックスは音楽の神童であるだけではなく、語学にも絵にも優れており、それでいて勉強漬けの青白い子とは違い、活発で、無邪気で、愛さずには居られない要素をたくさん持った、真に魅力的な子供だった。

ゲーテは少年を身辺から離そうとしなかった。

フェリックスは十一月十日付の手紙で、両親にこう報告した。

『ここでは家に居る時よりずっとたくさん弾きます。四時間以下のことは滅多になくて、時には六時間、いや八時間のこともあります。毎日午後になるとゲーテはシュトライヒャーのピアノを開け。「きょうはまだ君のピアノを全然きいていないな。少しばかり私のために弾いてくれないかな」と言い、ぼくのとなりに腰を下ろします。そしてぼくが弾き終るとキスをしてくれるか、ぽくがキスをねだるかします。ゲーテがぼくにどんなに良くして下さるか、どんなに親切か、想像もつかないでしょう』

ゲーテはフェリックスの全てに魅了されてしまったので、出発予定の日が来ても帰そうとしなかった。ゲーテ邸には彼の親戚の美少女も滞在しており、フェリックスはその少女からも可愛がられて、子供心にも甘い思いを味わった。

結局彼はゲーテ邸に十六日間も滞在したのである。

いざ別れるという時、ゲーテはたくさんのおみやげをくれた。その中にはフェリックスのために書いてくれた、影絵付きの詩もあった。

『魔法使いのホウキが厳粛な楽譜の上を飛び回れるのなら君もそれにまたがってごらん!もっと広い音の世界をかけ巡ってもっともっと楽しませておくれ、力一杯やり終えた時またここに戻ってきておくれ』

これはゲーテがフェリックスの即興演奏に、心から感嘆した証だった。

七十二歳のゲーテと十二歳のフェリックスは、年の差を越えた友情で結ばれた。

リブリオ出版、ひのまどか『メンデルスゾーン 美しくも厳しき人生』P27-29

12歳のメンデルスゾーンと72歳の老ゲーテの微笑ましい交流が目の前に現れてくるようですよね。

12歳のメンデルスゾーン Wikipediaより

ちなみに、こちらが12歳のメンデルスゾーンの肖像画です。とんでもない美少年だったことがこの絵からも伝わってきますよね。そしてゲーテも驚くほどの才能と、教養がありながらも活発で魅力ある性格。

まさに神童です。

また、上の文中にもありましたがメンデルスゾーンは音楽だけでなく絵の才能もありました。

私はこの画集を見て度肝を抜かれました。さすがに子供の頃に描いた絵はここまでのクオリティーではないでしょうが、彼の万能さはゲーテに通ずるものがあるように思います。

そしてメンデルスゾーンはこの4年後にもゲーテを訪れますが、それは今回割愛させて頂きまして、4度目のゲーテ訪問シーンを紹介します。

1830年、ゲーテ邸への4回目の訪問。そして最後の別れ

メンデルスゾーンは1829年、彼が20歳の時にイギリス・スコットランドに大旅行に出かけます。

この時代の名家の跡継ぎたちは教養旅行(グランドツアー)という名目でヨーロッパ中を旅するという習慣がありました。若い頃に旅に出て経験を積み、さらには人脈も広げることも目的とされていました。

イギリスから帰国したメンデルスゾーンは実家のベルリンに滞在した後、今度はイタリアを目指して旅立ちます。その途中で彼はゲーテのもとを訪ねたのでありました。

デッサウでべルリンに帰る父と別れたフェリックスは、ワイマールにゲーテを訪ねた。訪問は今度で四回目だった。

八〇歳になるゲーテは「ファウスト第二部」の完成に心血を注ぐ日々を送っていたが、フェリックスを心から歓迎して、彼が、

「ワイマールには二日間滞在する予定です」

と告げると本気で引き止めた。

「これから何年もの旅に出るのだから、少しばかりここに長く居たからといって何も逃すものはないだろう。毎日家に食事に来て、スコットランドのことや今度の旅のこと、音楽のこと、哲学のこと、詩のこと、何でも自由に話してほしい」

ヨーロッパの知識人に神のように敬まわれているゲーテから、これほど愛され、これほど歓待される客はいなかった。フェリックスはゲーテの息子の妻オティーリエ夫人からそう言われ、自身もそう感じた。

ベルリンで負った心の傷は見る見る癒され、気分は一気に晴れやかになった。

彼はゲーテの望みに応えて毎日家に行き、何時間もピアノに向かって作曲の大家たちの曲を年代順に弾いた上、解説も行った。

ゲーテは、バッハやへンデルやモーツァルトや、フェリックスの曲を喜んできいたが、

「ベートーヴェンはきかない」

と拒否した。この場ではフェリックスが師だった。

「それではどうしようもないです。べートーヴェンを知らなくてはいけません。省くことはできません。これをきいて下さい。ハ短調交響曲(《運命》)の第一楽章です」

ゲーテはべートーヴェンの音楽に圧倒されていた。きき終ると、最初はブツブツと文句を並べていたが、やがて本心をさらけ出した。

「この曲は偉大だ!何という力強さだ!全くすごい!この家が倒れるのではないかと恐ろしくさえなる。これを完全なオーケストラで演奏したら一体どうなることだろう!」

フェリックスはゲーテに、新しい音楽の世界を開いて見せたのだった。

ゲーテは愛する若い友人のために美女たちを招いて舞踏会まで開いてくれた。画家を呼んで、ピアノを弾くフェリックスの肖像画も描かせた。ワイマール滞在はゲーテの願いで何度も延びたが、二週間が経ってフェリックスが、

「そろそろ出かけなくてはなりません」

と切りだすと、やっと諦めて出発を許してくれた。

八〇歳と二十一歳の別れは辛いものだった。

ゲーテは「ファウスト第一部」の初版本に献呈の辞を書き入れ、フェリックスに贈った。

『私の最愛なる若き友F・M・Bフェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ、力強く優しきピアノの大家へ―一八三〇年五月の日々の思い出として  J・Wヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ』

フェリックスはその場でこの本の中の「ヴァルプルギスの夜」に音楽を付けさせてほしい、と頼み、ゲーテを喜ばせた。

これからドイツを南下してオーストリアを通り、イタリアに行くフェリックスにとり、ゲーテが三十代の終りのイタリア旅行の体験を綴った「イタリア紀行」は、最高の道しるべだった。


リブリオ出版、ひのまどか『メンデルスゾーン 美しくも厳しき人生』P97-9

ゲーテはこの2年後の1832年に亡くなります。ですのでこれがメンデルスゾーンとゲーテの今生の別れでした。

そしてこの引用の最後に出てきた『イタリア紀行』。これがメンデルスゾーンにとって大きな意味を持っています。

『イタリア紀行』については以前当ブログでも紹介しました。1816年に出版されたこの旅行記はヨーロッパの知識人に絶大な影響を与えました。メンデルスゾーンもその一人です。

メンデルスゾーンはゲーテと別れた後にイタリアに向かいます。そしてその時に旅のお供として持って行ったのがこの『イタリア紀行』だったのです。

メンデルスゾーンとゲーテの『イタリア紀行』

メンデルスゾーンはゲーテが見たイタリアに強い憧れを持っていました。そしてその影響は彼が家族に送った手紙にも表れています。彼の書く文体が明らかにゲーテの『イタリア紀行』を意識したものだったのです。

メンデルスゾーンとこの『イタリア紀行』について星野宏美著『メンデルスゾーンのスコットランド交響曲』では次のように書かれていました。

前項では、メンデルスゾーンの大旅行が「音楽教養旅行」あるいは就職活動としての意味を持っていたことを強調した。しかし、彼の大旅行にはもうひとつの側面があったことも見逃せない。すなわち、当時のヨーロッパ市民層の間で一般的だった教養旅行の側面である。とくに、夏の休暇を兼ねて出掛けたスコットランドと、大旅行中で最も長い滞在となったイタリアは教養旅行の人気スポットであり、メンデルスゾーンもそこでは音楽に限らずに幅広い経験を積んでいる。

教養旅行としての側面は、従来の研究では、専らイタリア旅行について指摘されてきた。なかでも、文学者の立場からメンデルスゾーンのイタリア旅行中の手紙を分析したミラーの論考は示唆に富む。彼の論述を要約しよう。メンデルスゾーンは、イタリアからの手紙の中で「私」をいわば小説中の人物に仕立てつつ、自己の体験を物語るような書き方をしている。とくに、家族あての手紙にはその傾向が強い。(中略)

もう一方で、メンデルスゾーンのイタリアからの手紙には、ゲーテJohann Wolfgang von Goethe (1749~ 1832)の圧倒的な精神的影響が読みとれる。それは文体ではなく、手紙の全体的な雰囲気、考え方と言葉遣いに感じられる。ゲーテの『イタリア紀行』(1816年出版)を直接に引用している部分はもちろん、そうでなくとも、旅行中の体験を報告する際に、メンデルスゾーンは意識的にも、無意識的にもそれを指標としているのである。つまり、彼はイタリアの風景や遺跡、建築や芸術品などを現実に目にする前に、既にゲーテを通して対象についての知識を得、さらには解釈も与えられていた。「彼はイタリア、とくにローマとナポリに滞在中、実はゲーテのイタリアに生きていた」とも言えるのだ。これは。この時期にイタリアに向かったすべての旅行者に多かれ少なかれ共通する傾向であった。


音楽之友社、星野宏美『メンデルスゾーンのスコットランド』P65-6

「彼はイタリア、とくにローマとナポリに滞在中、実はゲーテのイタリアに生きていた」

ゲーテの感化力のものすごさを感じますよね。

ゲーテとはこの直前の面会が最後の別れとなってしまいましたが、こうしてメンデルスゾーンにとってゲーテは大きな存在であり続けたのでありました。

天才の「生みの苦しみ」~若きメンデルスゾーンの詩に見る芸術家の矜持

時は遡りますが、メンデルスゾーンは17歳の時に『夏の夜の夢』の序曲を完成させ、圧倒的な成功を収めることになりました。これは彼が大好きだったシェイクスピアの『夏の夜の夢』にインスピレーションを受けて作られた曲です。

そしてこの曲の成功の後、その勢いのままメンデルスゾーンは『カマーチョの結婚』というオペラを制作します。

ですがこれは無残な失敗に終わってしまいました。曲のクオリティそのものにも失敗はあったのですが、事はそれほど単純ではありません。

彼のいたベルリンは保守的で、ユダヤ人差別の強い街でした。

ですので、若くて才能溢れるユダヤ人大銀行家の御曹司メンデルスゾーンには元々敵が多く、彼らはここぞとばかりにメンデルスゾーンに厳しい批判を投げかけたのでした。

ここからはメンデルスゾーンの伝記『メンデルスゾーンの伝記 三代のユダヤ人』を引用していきます。

メンデルスゾーンが受けた厳しい批評は『カマーチョ』が最初で最後だったわけではない。日曜コンサートにおいてさえ、何かを見つけてはケチをつける者も現われ、時にはそうした人の意見も新聞に掲載された。ツェルター(メンデルスゾーンの音楽の師匠 ※ブログ筆者注)は、ゲーテに宛てた手紙で、べルリンの批評家たちのフェリックスに対する仕打ちに不満をのべている。「彼らは音楽専門紙でフェリックスの弦楽四重奏曲や交響曲を冷たく扱っています……この紳土連中は、自分たちの頭上遥か高いところにあるものを、冷酷に切り捨てるのです。たったひとつの煉瓦をもって家全体を判断しようというのだから呆れてしまいます」

東京創元社、H・クッファーバーグ、横溝亮一『メンデルスゾーン家の人々 三代のユダヤ人』P179

そしてメンデルスゾーンはこうした不当な批判に対して次のような行動を取ります。これがすごいんです・・・!

自分についての批評を読んで、フェリックスはその返答として一編の詩を書き、自身の心情を示した。といってもその詩を『庭園新聞』(メンデルスゾーン家の中だけの新聞。家族記録のようなもの。※ブログ筆者注)以外に掲載して広めようとはしなかった。

もしも芸術家が厳粛に書いたなら
 それはひと眠りさせるため

もしも芸術家が楽しんで書いたなら
 それは悪趣味なものなのさ

もしも芸術家が長々と書いたなら
 長々聴くとはお気の毒!
もしも芸術家が短く書いたなら
 誰も少しも気にとめぬ

もしも芸術家が単純に書いたなら
 あいつは阿呆といわれるさ
もしも芸術家が複雑に書いたなら
 奴は気狂い、見りゃわかる

どうせどんなに書こうとも
 誰も喜ばせるなんて出来はしない
そんなら芸術家は書けばいい
 お気に召すまま、やれるまま


東京創元社、H・クッファーバーグ、横溝亮一『メンデルスゾーン家の人々 三代のユダヤ人』P179ー180

いかがでしょうか。これが早熟の天才メンデルスゾーン17歳の詩です。

この歳にしてすでに天才の孤独を感じていたのでしょう。

私がこの本を読んだのはだいぶ前なのですが、今だにこの詩の衝撃は忘れられません。

メンデルスゾーンはシェイクスピアが大好きで、16歳の頃に兄弟や友達と『夏の夜の夢』を演じ、その経験から序曲を作り上げました。

彼は幼いころから徹底的な英才教育を受けていたので文学への教養も抜群です。

上の詩の最後の行も、もしかしたらシェイクスピアの作品『お気に召すまま』から来ているかもしれません。

いずれにせよ、上の詩からメンデルスゾーンの芸術家としての矜持を私は感じてしまいました。

こうしたメンデルスゾーンだからこそ、ゲーテにあんなにも愛されたのではないでしょうか。

ゲーテも孤高の天才でした。彼のあまりに豊かな感性は周囲の人から理解されず、彼自身も周囲の人と距離を感じていた時期がありました。

そしてゲーテも多くの作品を残しましたが、世に出るということは多くの批判を受けることにもなります。メンデルスゾーンが受けたような不当な批判、誹謗中傷も山ほど受けたことでしょう。

そして自分が生み出す作品たちが本当にいいものなのか、考えても考えてもうまく作品が作れないという苦しみも味わい尽くしていることでしょう。

こうした天才ならではの苦しみを二人が直感的に察したからこそ、感じ合うものがあったのではないでしょうか。

私はそういう風にこの二人の関係性を感じてしまいました。

実際、メンデルスゾーンは後に、スウェーデンの歌姫ジェニー・リンドともそうした天才同士ならではの共感を持ち合う事になります。このことについては以下の本に詳しく書かれていますのでぜひそちらもご覧ください。

ゲーテとメンデルスゾーン。

二人の天才の親交は年齢を超えた深いものがあったと私は感じています。

くしくも両者とも文学や音楽の幅を超えた万能の天才です。

二人にしかわからない何かがあったと想像するのはロマンがありますよね。

私はゲーテもメンデルスゾーンも大好きです。

その結びつきを感じることは、私にとってとても幸せな時間でした。

この記事を通してゲーテとメンデルスゾーンの魅力が少しでも伝わってくれたなら嬉しく思います。

以上、「メンデルスゾーンとゲーテの交流と友情~『イタリア紀行』に強い影響を受けたメンデルスゾーン」でした。

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