(13)レーニン崇拝、神格化の始まりとソ連共産党官僚の腐敗

レーニン・スターリン時代のソ連の歴史

ヴィクター・セベスチェン『レーニン 権力と愛』を読む(13)

引き続きヴィクター・セベスチェン著『レーニン 権力と愛』の中から印象に残った箇所を紹介していきます。

レーニン暗殺未遂事件とチェカーの弾圧

1918年8月30日、レーニンは演説を終えた後、銃撃に遭います。

三発の銃弾が彼を襲い、あと少しで大動脈を傷つけ命を失うほどの大けがでした。幸い、命の心配はありませんでしたが、その後彼はこの銃撃の後遺症に苦しむことになりました。

この暗殺未遂事件によってボリシェビキの国家公安部隊チェカーはさらにその力を強め、弾圧に乗り出します。

チェカーが解き放たれた。ぺトログラードでは五〇〇人の囚人ージノヴィエフは「捕虜」と呼んだーが、即座に「ウラジーミル・イリイッチに対する暗殺未遂とウリツキー殺害のあと宣言されたテロルの結果として、処刑された」。

翌月はさらに三〇〇人。帝政時代の元当局者と社会革命党員は公開銃殺された。ニジニノヴゴロドでは、レーニンが撃たれた翌日の午後、四一人が処刑された。彼らの名前が公表され、地元のチェカーは「あらゆる共産党員の殺害、ないしそうした殺害の企てに対し、われわれはブルジョア人質の銃殺で応酬する」と警告した。クロンシュタットでは、水兵が約四〇〇人の囚人を数カ月間、要塞に抑留していた。翌朝、囚人はもはやいなかった。全員が殺されてしまったのだ。(中略)

レーニン襲撃後のニカ月間で、六一八五件の死刑判決が出されたが、殺害された人数はおそらくもっと多い。「われわれは人間生命の尊厳についてのローマカトリック教徒やクエーカー教徒の雑音に、金輪際終止符を打たなければならない」とトロツキーは述べ、テロを正当化した。

以後、チェカーに対する成約は事実上なくなる。そのメッセージは、チェカー係官は多かれ少なかれ何でも望みどおりにできるということである。
※一部改行しました

白水社、ヴィクター・セベスチェン、三浦元博、横山司訳『レーニン 権力と愛』下巻P221ー222

レーニン暗殺未遂事件後、政府はそれを口実にチェカーを利用し帝政末期をはるかに超える暴力によって国民を抑え付ける政策を取り始めるのでありました。

レーニン崇拝、神格化の始まり

暗殺未遂は「レーニン崇拝」の始まりだった。その後の数十年間、共産主義世界を特徴づける過大な賞賛と半ば宗教的な崇拝であり、これはのちにスターリンと毛沢東、そして金日成によって完成されるのだが、レーニンの生命に対する脅威が生じたあとの日々に起源があるのだ。

銃撃事件の三日後、ジノヴィエフがその基調を決めるバカげた演説をした。「レーニンは人類がこれまでに知った最大の指導者、社会主義革命の使徒である」と彼はまくし立てた。建前上は無神論者だが、正教会の聖職者が皇帝をそう呼んだように、レーニンをイエス・キリストになぞらえ、彼は「神の恩寵による指導者」だ、とのたまわったのだ。

トロツキーは前線から急いで戻り、モスクワのソヴィエトで、レーニンを「わが革命期、わが新時代のもっとも偉大な人間」と呼んだ。「レーニンを失えば、革命にとって破滅的であろう」と。新聞各紙はレーニンの英雄的行為と人格についての、度を越し、しばしば捏造された記事を掲載した特別号だらけだった。新聞がレーニンの人物について多少なりとも詳しく書いたのは、これが初めてだった。
※一部改行しました

白水社、ヴィクター・セベスチェン、三浦元博、横山司訳『レーニン 権力と愛』下巻P222

レーニンが暗殺されかけ、命を失ったかもしれないという衝撃が、彼を神格化していく流れに火をつけました。

その流れはやがて死後にもっと加速していき、その姿を見たらレーニン自身が驚いてしまうほどであったでしょう。こうしてレーニンは神格化され、伝説と化し、人々に崇拝されるようになっていったのでした。

権力掌握後も質素な生活を続けたレーニン

クレムリンの多くの重鎮が間もなく、権力の虚飾を味わうようになっていたのに、レーニンとナージャ(※レーニンの妻。ブログ筆者注)はかなり質素に暮らした。彼らの暮らし向きは、亡命中のあり方と変わらず、気取らないものだった。(中略)

その慎ましさと質素さは、一つには政治的理由があった。レーニンは、自分の生活スタイルが知れわたるようになることを自覚しており、外見上は禁欲的な生活様式がすべての良き共産主義者のそれになるべきだということを、他の同志に伝えたかったのだ。

だが、それはたいてい本物だった。それが常に彼の生活様式であり、彼の好きな様式なのだ。共産党指導者の間で当たり前になった果てしないウオッカの乾杯と武勇伝が付き物の、酒漬けの豪華な七品コースのディナーは嫌いだった。彼は決して行かなかった。
※一部改行しました

白水社、ヴィクター・セベスチェン、三浦元博、横山司訳『レーニン 権力と愛』下巻P227-228

ボリシェヴィキの多くの高官が権力を握った途端それまでと打って変わって豪勢な生活を満喫いたのに対し、レーニンは亡命革命家時代の質素な生活を続けていました。

他者に見られる存在として、大衆の見本としての政治的自覚によって彼はその生活を続けたとされています。ですがそれにしても彼は恐るべきストイックさの持ち主です。普通なら腐敗してもおかしくありません。

引用の最後の「それが常に彼の生活様式であり、彼の好きな様式なのだ。共産党指導者の間で当たり前になった果てしないウオッカの乾杯と武勇伝が付き物の、酒漬けの豪華な七品コースのディナーは嫌いだった。彼は決して行かなかった。」というのが彼のすごみだと思います。「豪華なディナーが嫌いだった」というのがいいですよね。行きたいのに我慢していたとかではなくて、そもそも嫌いだと言い切れるところに彼の思想が表れていると思います。

以前紹介した「(4)革命家のバイブル、チェルヌィシェフスキーの『何をなすべきか』に憧れるレーニンとマルクスとの出会い」の記事にありましたように、レーニンが若き日に読んだチェルヌイシェフスキーの『何をなすべきか』が最後まで彼の心を貫いていたのかもしれません。ストイックな革命家像。彼はそれを守り抜こうとしたのかもしれません。

この箇所はレーニンのスケールの大きさを感じさせられました。やはり並の人物とは違うということを思わされました。

レーニンの別荘とその料理人ープーチン大統領との意外な関係

彼の一つの贅沢は、モスクワの南西二〇キロのゴールキにあるゲストハウスだ。撃たれたあと、傷の療養に初めて行ったところだ。彼はそれを定期的に使いはじめー「ちょうど小スイスだ、のどかだ」とレーニンは言っているー、最後の二年間はおおむね常にそこに住んだ。

それは「ダーチャ」、すなわち別荘と呼ばれたが、彼らがかつて住んだどこよりもはるかに大きくて快適で、正面に六本の白い柱をつけ、厚板ガラスとシャンデリアを惜しみなく使った優雅な荘園邸宅だった。

かつてサーヴァ・モロゾフが所有していたが、国賓をもてなすために帝政政府によって接収され、さらにボリシェヴィキが引き継いだのだ。「小さな丘」として知られる地区にあり、モミやキハダカンバの木々と庭園に囲まれていて、息をのむような眺望のべランダを備えていた。

レーニンもナージャもここがだんだん気に入るようになった。もっとも、彼女は当初、それは「わたしたちにはあまりに目新しく、奇妙だった……そのような所には住んだことがなく、質素な住居に慣れすぎていたので……わたしたちはとてもどぎまぎした。わたしたちは一番小さな部屋を見つけて住んだ」。

ゴールキでは常勤の四人の護衛と、ほかに三人のスタッフがいて、このなかには料理人のスピリドン・プーチンがいた。その孫のウラジーミルもまた、数十年後、ロシアの指導者になる。
※一部改行しました

白水社、ヴィクター・セベスチェン、三浦元博、横山司訳『レーニン 権力と愛』下巻P228-229

豪勢な暮らしを好まなかったレーニンでしたが、療養のために住むことになったゴールキの邸宅はとても気に入ったようでした。自然を愛していたレーニンはここの景観にかつて感動したスイスの絶景の面影を感じたのかもしれません。

そして何より興味深いのが引用最後の箇所です。あのプーチン大統領の祖父がレーニンの料理人だったというのはなんとも不思議な縁だな思います。

ボリシェヴィキ幹部の腐敗

大方の共産党重鎮は、はるかに贅沢な生活をしていた。革命家の「前衛」は謹厳な、ほとんど修道僧のような階層で、主義のために苦難に耐えるものとレーニンは考えていた。だが、ヨッフェが言っているとおり、前衛はたちまち特権カーストになってしまっていた。共産主義者は人民から遊離してしまったのだ。

ボリシェヴィキ・エリートの甘やかされた生活スタイル、そしてそれに付随する腐敗は、早い時期に始まっている。

クーデターから一週間もすると、レーニンは一〇月革命の砦だったスモーリヌイ学院の労働者部門からある報告を受け取り、その報告は、ぺトログラードが飢えつつあるのに、スモーリヌイの腐敗したボリシェヴィキ当局者は食料をトラックに積んで、闇商人に法外な値段で売っていると述べていた。

「空腹の労働者たちは、ソヴィエトの党幹部連のめかし込んだ妃たちが食料包を持って出てきて、車で送られるのを目にしている」と報告は述べる。「昔のロマノフ一族や彼らの夫人連とまるで同じだ、と彼らは言っている……。彼らはジノヴィエフ〔ペトログラードの党議長〕に訴えるのを恐れている。彼は回転式拳銃をもった子分たちに取り巻かれており、彼に多くの質問をしすぎると、子分たちは労働者を脅すからである」と。

レーニンは激怒したが、それほど驚きはしなかった。彼は目前のスキャンダルに待ったをかけたが、同様の事例は絶えず起きていた。レーニンはそうした腐敗、それに官僚主義が党の精神をむしばみかねないことを常に心配していたが、この間題については目立ったことは何もできなかったし、する気もなかった。

共産党幹部職員の特権は、まったく当たり障りのないことから始まっている。低給与と大きな犠牲で革命のために献身的に働く同志に三度の食事を提供するのは、忠誠に対する妥当な対価だと思われた。

一九一八年初め、ロシア全土で食材不足が深刻になると、レーニンはぺトログラードに党活動家専用のレストランを開く計画を支持した。腹が滅っては革命ができないという理由だった。「労働者はその必要性を理解するだろう」と彼は言った。
※一部改行しました

白水社、ヴィクター・セベスチェン、三浦元博、横山司訳『レーニン 権力と愛』下巻P229-230

この流れはオーウェルの『動物農場』を想像させますね。

階級闘争を掲げて革命を起こしたのに、いざ革命が成功すると自分たちが特権階級になり、革命前より余計民衆を搾取していくという構図です。

特権がまともな食事というだけにとどまっていたら、労働者の理解は得られたかもしれない。だが、そのシステムはたちまち、年功と党員歴、忠誠度に基づく共産党エリートの広範な役得に拡大した。それはマルクス主義とは無縁のシステムで、きわめて厳密な方式で勤務手当を与える細かく分類された等級表を備えた帝政期公務員の複雑な「官等」を反映していた。

共産党の幹部要員制度も同様に、党員に最上の待遇を保障していた。二年以内に、ボリシェヴィキとその家族の四〇〇〇人がクレムリンと、党に接収されたいずれも赤の広場に近いメトロポール、ナツィオナーリの両ホテルに住んでいた。

モスクワへの移転から一年もすると、共産党当局者に雇われた家事労働者はニ〇〇〇人いて、それに特別商店や温泉、美容院、フランス仕込みの料理人のいる複数のレストランの複合施設があった。ペトログラードでは、党当局者は最近の修復で帝政時代の壮麗さを取り戻したホテル・アストリアに住んだ。「グリーシュカ〔グレゴリーの愛称〕」ジノヴィエフは町中の広いアパートに住んでいたが、彼のために常時、このホテルのスイートが各種取りそろえた情婦とともに用意されていた。
※一部改行しました

白水社、ヴィクター・セベスチェン、三浦元博、横山司訳『レーニン 権力と愛』下巻P230-231

戦争で荒廃し、経済もストップし失業者があふれ、都市や農村でも餓死者が多数出ている状況でもこうした特権的なユートピアが出現し出したのです。

革命から数カ月もすると、ゴーリキーは妻に、「今日では、人民委員だけが快適な生活をしている。彼らは情婦と反社会的奢侈に支出するため、一般人からできる限り多くを盗んでいるのだ」と書いている。レーニンはそのどちらももっていなかったけれども、多くの有力同志がもっていることを知っていた。古参ボリシェヴィキたちから頻繁に苦情が申し立てられた。これは、位階がますます出世主義者によって埋まりつつある党にあって、本当に信念をもった人びとである。

レーニンの旧知の同志が一九一九年初め、「昔はこうではなかった」とのメッセージを込めて、トゥーラから彼宛てに書いている。「われわれは大衆から遊離し、彼らを引き付けることを難しくしてしまった。党内の伝統ある同志精神は完全に死んでしまった。それは、党のボスがすべてを仕切る新たなワンマン支配に取って代わられてしまった。収賄が一般的になった。それがなければ、わが共産党同志はまったく生き延びられないのだ」と。レーニンは同様の数件の警告を無視してしまった。

ヨッフェは腐敗していない当局者の一人なのだが、彼はべルリンから外務人民委員部の仕事に帰任し、衝撃を受けた。彼は大親友のトロツキーに宛てて書いている。

「とてつもない不平等があり、人の物質的待遇は主に党内ポストにかかっている。君はこれが危険な状況であることに同意するだろう。たとえば、わたしはこんなことを聞かされた……古参ボリシェヴィキはホテル・ナツィオナーリに住む権利、その他のこれに関連した諸々の特権を失うことを主たる理由に、追い出されるのを恐れているのだと。伝統の党精神は消滅してしまったよ、革命的無私と同志的献身は」。
※一部改行しました

白水社、ヴィクター・セベスチェン、三浦元博、横山司訳『レーニン 権力と愛』下巻P231-232

「マルクス主義はソ連の崩壊で間違いが証明された」という言い方がされることがあります。そして同時に「ソ連の社会主義は真のマルクス主義とは違うのだから今なおマルクスは間違っていない」という反論もなされます。

たしかにロシア革命後に権力を握ったボリシェヴィキは腐敗しました。しかしこれは「マルクス主義は必然的にそうなる」とか、逆に「真のマルクス主義ならそうはならないはずだ」という議論とは少し違う次元の話なのではないかと私は疑問に思ってしまいました。

これは主義とかシステムの問題ではなく、「人間そのものにおける問題」なのではないかと思ったのです。

マルクス主義であろうと社会主義だろうと、資本主義であろうと、「既存権力を打ち倒し、我々が新たに権力を握るのだ」というスローガンで突き進んだ後に何が起こるのかというのは主義やシステムに原因があるというより人間そのものの課題であると思います。

何も持っていない時は清廉潔白な意志を持ち、平等な理想の世界を作れると思っていた。しかしいざ権力を握り、思うがままに権力の旨味を味わえるようになったらそれを手放すことができるでしょうか。これはものすごく難しいことだと思います。

このことはソ連史を学んでいて私の中で非常に大きな比重を占める問題となっています。人間そのものの問題がここに示されているのではないかと私は思ったのです。

マルクス主義、社会主義、資本主義など、ソ連の話はイデオロギー論争として語られることが多いです。しかし、それらの議論ももちろん重要なのですが、どの主義であろうと、権力を握った人間がどうなるのか、官僚主義はどういった危険があるのか、平等な分配はありえるのかなどの問題は人間の本質に関わる問題であるように思います。その点を忘れずにこれからもソ連史とドストエフスキーについて考えていきたいと思っております。

続く

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