(2)レーニンの出自~貴族階級で裕福な家庭環境と人生を変えた兄の処刑とは

レーニン・スターリン時代のソ連の歴史

『レーニン 権力と愛』を読む⑵

引き続きヴィクター・セベスチェン著『レーニン 権力と愛』の中から印象に残った箇所を紹介していきます。

レーニンの出自ー彼の父親と裕福な家庭環境

一九五〇年代に出版された、ソ連における最後の公式のレーニン伝は、父親イリヤ・ニコラエヴイッチ・ウリヤーノフのことを「アストラハンの貧しい中流の下の階層」の出身だと書いている。ここでは、明かされている事柄より隠されていることの方が多い。レーニンの父方の祖母、アンナ・アレクセーヴナ・スミルノフは中央アジアに起源を持つカルムイク人の、読み書きのできない女性であり、その顔つきにも人種的な起源がはっきり現れていた。レーニンの風貌の描写はほとんどが、その「モンゴル人のような眼」と高い頬骨に触れているが、ソ連は彼の祖父母に関する情報を組織的に隠蔽した。それでは、ボリシェヴイズム創始者のイメージにそぐわなかったということだろう。創始者はあくまでも偉大なロシア人でなければならなかった。

白水社、ヴィクター・セベスチェン、三浦元博、横山司訳『レーニン 権力と愛』p46

理想的なレーニン像を作るために、かつてのレーニン伝ではソ連による意図的な隠ぺいや改ざんがありました。レーニンは貧しい家庭の出身であるという伝説が作られていたので、それに合致しない事実は都合の悪い情報だったのです。

この引用だけだと少しわかりにくいので、レーニンの父についてH・カレール=ダンコースの『レーニンとは何だったか』という伝記を参考にします。レーニンはウリヤーノフ家の父イリヤと母マリヤの子として1870年に生まれました。

伝説の語るところとは逆に、若きウリヤーノフの家は貧しくもなければ労働者階級に属してもいない。彼が育つ家は広々とした立派な家で、二階建であり、これは相対的繁栄の印である。何人もの召使が奉公していた。これはまさしく、数学の教師を経て、シンビルスク地方の公立学校の視学という、人も羨むポストに任命された一家の長としては当たり前の暮らし向きである。

未来のレーニンの父親、イリヤ・ニコラーエヴィチ・ウリヤーノフは、長い間、十月革命の英雄を農奴出身とするための根拠とされてきた。確かに曾祖父にヴァシーリー・ウリヤーノフという農奴はいたが、彼は一八六一年の改革(農奴解放)よりもずっと早い時期に解放されていた。彼は町に住むことになり、こうして始まった社会的地位の上昇を彼の子孫はさらに継承したのである。

息子ニコライ・ヴァシーリエヴィチはアストラハンで仕立屋を営んだ。孫のイリヤ・ニコラーエヴィチはレーニンの父であるが、カザン大学で数学を勉強し、前述のごとく教授となり、総視学となり、とうとう国務院参事官の地位にまで昇りつめ、これにより世襲貴族の地位に到達した。農奴から勲章に身を飾る貴族へと、わずか三世代で昇りつめたのだから、まことに急速な上昇であった。
※一部改行しました

藤原書店、H・カレール=ダンコース著、石崎晴己、東松秀雄訳『レーニンとは何だったか』P22-23

レーニンは後に資本家(ブルジョア)や貴族たちを目の敵にし、革命を起こしますがそのレーニン自身が裕福な貴族階級だったというのは何とも言い難い事実ですよね。これはマルクスやエンゲルスとも共通しています。彼らも裕福な家庭の出身でした。これはレーニンを考える上で重要な点であるように思えます。

そしてレーニンの母も信仰心の篤いプロテスタントの信者で、こちらも裕福な地主の出身でした。

ウラジーミル・ウリヤーノフの幼年時代、あるいは思春期に、彼が史上最大の反乱者の一人になることを予感させたものは何もない。人目を引くような裕福さとまではいえないにせよ、堅実なブルジョア的快適さを備えた愛情あふれる家族に固まれて、幸福な家庭で育った。努力、倹約、勤勉、そして教育の大切さを教えられ、両親がそれを身をもって示した。

白水社、ヴィクター・セベスチェン、三浦元博、横山司訳『レーニン 権力と愛』p51

ウラジーミル・ウリヤーノフとはレーニンの本名です。

不動とも見える社会的・経済的地位が社会の中の個人の位置を固定する世界にこのように安住していたのだから、ウリヤーノフ家の子供たちは、自分たちが特権的な人間だと思ったとしても当然だったろう。シンビルスクの古典中学校では、子供たちは父親の威信の恩恵に浴していた。彼らの家庭は調和がとれていた。思い遣りに溢れた母親、寛大な父親。父親は教育に関してはリべラルな思想の持ち主で、そのために子供たちの能力の開花を促すことになった。

藤原書店、H・カレール=ダンコース著、石崎晴己、東松秀雄訳『レーニンとは何だったか』P25

レーニン(ウラジーミル)は裕福な温かい家庭で育ち、リベラルな教育を受けていました。そのおかげかレーニンを含むウリヤーノフ家の子供たちは皆成績優秀だったそうです。

この一見革命とは無関係な家からなぜレーニンという革命家が生まれてきたのでしょうか。それが次に述べる、兄の処刑だったのです。

皇帝暗殺を企てた兄サーシャの処刑

1887年、レーニン17歳の年、兄のサーシャが皇帝暗殺を企てたとして逮捕され処刑されます。

サーシャはウリヤーノフ家の長男で、真面目でずば抜けた知性の持ち主でした。家族の誰もが彼が暗殺を企てたとは想像もできないくらい彼を信用していたのでありました。

サーシャの弟で、一七歳になっていたウラジーミルは、絞首刑が執行された日には地理の試験を受けていた。翌日の遅くまで、だれも処刑のことを知らされなかった。母親は最後の最後まで、最悪の場合でも死刑が終身刑に減刑されると信じていた。

真面目なサーシャが急進的政治活動にこれほど深く、危険なまでにのめり込んでいたとは、家族の皆と同じように、ウラジーミルもまったく知らなかった。主たる関心は自然科学だと思われ、学徒としての輝かしいキャリアを約束されているように見えたのだから。母親と姉のアンナはサーシャが政治経済史の書物を真剣に読んでいるのは知っていたが、活動家として運動にかかわっているとか、友人に活動家がいるとかいうことは知らなかった。

気高いサーシャは兄弟姉妹からほとんど神格化されていた。夢見るようなロマンティックな風采、洗練された繊細な顔立ちで、物思いに沈むことが多かった。幼かったときも退屈なまでに良い子であり、物静かで自制心に富んでいた。

大変な勉強家で、食事の時もほとんど本を手放さない。ギムナジウムの最終学年には彼の寝室は研究室と化した。田舎に出かければ昆虫の標本採集に精を出した。虫が大好きだった。良く見られようとする彼の真剣さには、どこかひどく道徳家、信心家ぶったところがある。

ユーモアのセンスがなく、ましてや、弟のウラジーミルには満ちあふれていた諧謔の精神はまったくないようだった。理想の美人はだれか、と姉妹の一人に聞かれて、サーシャは大まじめで「ああ、それは母のような人だ」と答えている。
※一部改行しました

白水社、ヴィクター・セベスチェン、三浦元博、横山司訳『レーニン 権力と愛』p64-65

尊敬していた兄が皇帝暗殺の企てにより殺されてしまった・・・兄は世の中のために立ち上がったのに無慈悲にも皇帝は恩赦もせず処刑した。尊敬していた兄を奪われたという憎しみがレーニンの中に芽生えたとしても何ら不思議ではありません。そしてこの兄の処刑はウリヤーノフ家に暗い影をもたらすことになります。

兄サーシャの処刑の余波ーレーニンが革命家になったきっかけ

ウリヤーノフ家はシンビルスクのブルジョア社会からつまはじきにされた。一年ほど前にウラジーミルの父の葬儀に参列した町のお歴々は、もう家に寄りつかない。イリヤと(そしてイリヤが死んだ後はウラジーミルと)チェスをしに来ていた古くからの一家の友人たちは、もう来ない。

このことは、自由主義者と「中流の空想的社会改良家」に対する痛烈で、時に制御不能になる嫌悪をウラジーミルに植え付け、この嫌悪は死ぬまで彼の心から消えなかった。

「ブルジョアども……やつらは常に裏切り者で、臆病者だ」と、彼はこのあと決まり文句のように繰り返すことになる。政治は個人的な事柄だ―これは個人的な事柄だったのだ。政治のことをほとんど考えたことがなかった若者は、一夜にして急進化したのである。

マリヤ・アレクサンドロヴナはかつての友人たちのまなざしや、見知らぬ人の陰口にもはや耐えられなかった。彼女は一家でシンビルスクから引っ越すことを決め、モスクワ通りの家を売った。買ったのは、清廉潔白で知られた町の警察署長だったが、彼はテロリストの縁者から不動産を買うことに何の良心の呵責も感じなかった。

兄が読んでいた政治的な書物に没頭しはじめたウラジーミルに、新たな世界が開けた。とはいえ、兄のことでは、あることが彼をなおも困惑させていた。ほとんど一〇年も経ってから、将来、妻となるナジェージダと会った日のこと、二人はサンクトぺテルブルクの町をネヴァ川沿いに歩いていた。彼は彼女に、自分がサーシャの処刑をどれほど恨んでいるか、彼を死刑にした体制をどれだけ憎んでいるかを打ち明けた。それから彼は、兄が革命家になるとは夢にも思わなかったと話した。「革命家は虫の研究に夢中になったりはしないよ」

ウラジーミルはいまや当局から目を付けられる男になった。兄との結び付きからして怪しく、潜在的トラブルメーカーなのだ。彼は帝政と衝突する道を歩みはじめていた。
※一部改行しました

白水社、ヴィクター・セベスチェン、三浦元博、横山司訳『レーニン 権力と愛』p70

兄サーシャの処刑によって彼の家は町でのつまはじき者となってしまいました。それまで出入りしていた人たちからも見放され、陰口にも悩まされることになります。そしてついにはこの町を出ていかなければならなくなりました。

レーニンは人々の手のひら返しに対して深い恨みを覚えます。この時の憎しみが彼を革命家にさせた一つの原因となったのでした。

レーニンといえば、その後のソ連の方向を決定づけた冷酷な独裁者というイメージがありました。しかし彼は裕福で温かな家庭で育った普通の人間でした。そこから兄の処刑、町でのつまはじきなど、これまでの生活ががらりと変わってしまいました。こうした背景があったからこそレーニンが革命家になっていったと知り、それまでの冷酷で残酷な独裁者とはちょっと違った印象を受けることとなりました。

もちろん、レーニンのことを全肯定したとかそういうことではありません。しかし、身内が皇帝に殺されたという背景、家庭が壊されたという被害者意識、周囲の人間たちに手のひら返しをされたことによる人間不信など、様々な要因があってレーニンは革命へと突き進んでいったことを知ったのでありました。

続く

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