松村昌家『水晶宮物語 ロンドン万国博覧会1851』~世界初の万国博覧会とドストエフスキーのつながり

水晶宮物語 フランス文学と歴史・文化

松村昌家『水晶宮物語 ロンドン万国博覧会1851』概要と感想~世界初の万国博覧会とドストエフスキーのつながり

今回はフランスのお話ではないのですが、こちらとも重大な関係があるイギリス、ロンドン万博についてお話ししていきます。

ロンドン万博は世界で初めて開かれた世界万国博覧会で1851年にその歴史は始まりました。

その頃ドストエフスキーはというと、シベリアのオムスク監獄で流刑の生活を送っていました。

ですが、後々彼にとってこのロンドン万博というのは彼の思想に大きな影響をもたらすことになるのです。

ここからはリブロポート発行の松村昌家『水晶宮物語 ロンドン万国博覧会1851』を参考にお話を進めていきます。

ロンドン万博とは

ロンドン万博は1851年に開催された世界初の万国博覧会です。

当時のイギリスはヴィクトリア朝の最盛期でイギリスが世界の産業のトップを走り繁栄を極めていた時代でした。

そしてそのイギリスの進んだ工業を世界に知らしめるはたらきをしたのがこの万国博覧会だったのです。

そしてその最大の目玉が水晶宮(クリスタル・パレス)と呼ばれる、当時の最新技術であったガラスと鉄で作られた巨大な建造物だったのです。

水晶宮 Wikipediaより

水晶宮は建物全体がガラス張りで、降り注ぐさんさんとした太陽の光がガラスに反射し、まるで水晶のように輝く建物だったそうです。

建物内も温室のように太陽の光が明るく差し込み、その巨大さと美しさは入場者の度肝を抜く圧倒的なものだったと言われています。

水晶宮内部 Wikipediaより

この水晶宮についてはとてもよいサイトを見つけましたので、下のバナーをクリックして頂けますと水晶宮や万博の画像や解説を見ることができます。

ドストエフスキーと水晶宮

さて、肝心のドストエフスキーと水晶宮の関係についてここからお話ししていきましょう。

ドストエフスキーは1862年に初のヨーロッパ旅行に出かけています。そしてその時にロンドンを訪れており、第一回ロンドン万博後も残されていたこの水晶宮も見たと言われています。

ドストエフスキーはその旅行記『冬に記す夏の印象』でロンドンについて次のように述べています。

「数百万の富を擁し、全世界の商業を支配するシティ(訳注 ロンドン市長及び市会の支配する旧ロンドン市部で、英国の金融、商業の中心地)、水晶宮(訳注 一八五一年ロンドンで開催された第一回万国博覧会のために建てられた鉄とガラスから成る建造物。水晶宮という言葉は『地下室の手記』や『罪と罰』にも出てくる)、万国博覧会…いかにも、博覧会は驚嘆すべきものである。諸君は世界中からやってきたこれら無数の人間をここで一つの群に統一した恐ろしい力を感じるだろう。諸君は巨大な思想を意識するだろう。ここではもう何かが達成された、ここには勝利がある、勝鬨かちどきの声が聞える、と感じるだろう。いや、それどころか、何か恐怖の念さえ湧き起こってくるのを覚えるに相違ない。諸君がいかに独立不羈ふきの人間であろうとも、なぜか恐ろしくなってくるのだ。(中略)

これらすべてがあまりにも堂々と、あまりにも傲然と勝ち誇っているので、諸君は息苦しささえ感じはじめる。世界の隅々からおとなしくここへ流れてくる何十万、何百万の人々、同じひとつの考えを抱いてここに集まり、静かに、強情に、物も言わずに、この巨大な宮殿の中でひしめき合う人々を見て、諸君は、ここで何かが最終的に成就されたのだ、何かが成就され、終了したのだと感じるだろう。これは何やら聖書めいた光景である。何やらバビロンのようでもあり、目のあたりに成就されていく黙示録の予言のようでもある。」

ドストエフスキー『冬に記す夏の印象』『ドストエフスキー全集6』より 小泉猛訳、新潮社 P42

ドストエフスキーらしい、回りくどいような奥歯に挟まったような何とも難しい表現ではありますが、ドストエフスキーはこの水晶宮を見て、少なくとも好意的な印象は受けなかったようです。

ヨーロッパ思想は行きつくところまで行きついた。

そしてヨーロッパ特有の理性万能の合理的思想、人間中心思想の完成をこの水晶宮は象徴していると言うのです。

それは人々を恐れさせるほどの巨大さを以て君臨します。

しかしドストエフスキーはそこにある種の終末を見て取るのです。つまり『聖書』における黙示録のように、この水晶宮は人間の堕落の極まりであり、やがてそれが裁きを受け崩壊するときが来るであろうとドストエフスキーは言うのです。

そしてこの旅の2年後の1864年に出された『地下室の手記』では水晶宮は「未来の社会主義社会」を象徴するものとして描かれます。

つまり合理主義的思想を極限まで押し進めた先に待つユートピアとして彼は水晶宮を捉えるのです。

そして作中の主人公に「そんな理性万能の水晶宮など蹴り飛ばしてしまえ」と言わんばかりにこれを否定させます。

ドストエフスキーにとって水晶宮とはヨーロッパ思想の行きつく果ての象徴であります。

彼は実際にそれを見ることでその思いを強烈に抱いたのでありましょう。

ドストエフスキーの初めてのヨーロッパ旅行はやはり、彼に強い影響を与えたのではないでしょうか。

残念ながら水晶宮は1936年の火災で焼失してしまいましたが、この建物の重要性は失われずにこれからも語られ続けることでしょう。

以上、「松村昌家『水晶宮物語 ロンドン万国博覧会1851』ドストエフスキーと水晶宮」でした。

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