ナポレオンのエジプト遠征と皇帝即位~ドストエフスキー『罪と罰』とナポレオンの関係を考察

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ナポレオンってどんな人?⑵エジプト遠征と皇帝即位 ドストエフスキー『罪と罰』とナポレオンの関係を考察

ダヴィッドサン=ベルナール峠を越えるボナパルトWikipediaより

さて、今回の記事でも前回に引き続きナポレオンについてお話ししていきます。

前回もお話ししましたが、ナポレオンとドストエフスキー『罪と罰』には深い関係があります。主人公ラスコーリニコフの言葉をもう一度見てみましょう。

ああいう人間はできがちがうんだ。いっさいを許される支配者、、、というやつは、ツーロンを焼きはらったり、パリで大虐殺をしたり、エジプトに大軍を置き忘れ、、、、たり、モスクワ遠征で五十万の人々を浪費、、したり、ヴィルナ(訳注現在リトアニア共和国の首都)でしゃれをとばしてごまかしたり、やることがちがうんだ。それで、死ねば、銅像をたてられる、―つまり、すべて、、、が許されているのだ。いやいや、ああいう人間の身体は、きっと、肉じゃなくて、ブロンズでできているのだ!

『罪と罰』上巻P480 新潮文庫、工藤精一郎訳、平成20年第57刷

前回の記事ではここで言うパリの大虐殺までお話ししましたので、今回はその続きからナポレオンの動きを見ていきます。

ナポレオンはパリでの反乱を圧倒的な力で鎮圧、ここから獅子奮迅の働きで対外戦争にも連戦連勝していきます。

さて、ここからのナポレオンの動きを知るためにはフランスと諸外国の状況を知る必要があります。

1789年に革命が勃発し、絶対王政が崩壊したフランス。そしてあろうことか国王ルイ16世が1793年にギロチンで処刑されるという事態になります。

これにはイギリス、プロイセン(ドイツ)、オーストリア、ロシアなどのヨーロッパの大国も大激怒です。

なぜならこれら大国は皆、国王による統治がなされていた国だったからです。

もしフランス革命が正当化され、その思想がヨーロッパ中に広まってしまったら、次は我が身になりかねませんでした。

だからこそこれら大国はフランス革命を全力で潰しにかかります。

地図を見てみればなんとなくイメージが付きやすいのですがフランスは南はスペイン、海を隔ててイギリス、東側にはオーストリア、プロイセン、ロシアと完全に包囲されていることがわかります。

こうした対フランス革命包囲網を対仏大同盟といいます。

フランス革命後のフランスは国内の反乱だけではなく、この対仏大同盟との絶え間ない戦争にも直面しなければならなかったのです。

こうしたヨーロッパ情勢の中でナポレオンという天才的な軍人が彗星のごとく現れてきたのです。

ではいよいよナポレオンの動きを追っていきましょう。

パリの暴動を鎮圧したナポレオンは中将に昇進し、さらに国内軍総司令官に任命されます。てっぺんはもうすぐそこです。

そしてすぐに指令が下ります。

「ただちにイタリアに出陣し、オーストリアを撃破せよ!」

ここからナポレオンが国外にも武勇を轟かす伝説が始まるのです。

ただ、最初から順風満帆だったわけではありません。

ナポレオンに与えられた軍備は貧弱で兵の数も大国オーストリアと戦うにはあまりに少なすぎました。

それは並の将軍では「これでどう戦えと言うのか」と頭を抱えてしまうようなものだったのです。

しかしナポレオンは並の将軍とは一味も二味も違います。

持ち前のカリスマを発揮し兵の士気を挙げ、オーストリアの裏をかく戦術を次々と生み出します。圧倒的不利と目されていたイタリア戦線もいざ戦いが始まってみればナポレオンの連戦連勝!オーストリアを完膚なきまでにやっつけてしまったのです。

なぜこんなにもナポレオンは強いのか。

フランス軍の兵士たちが屈強で強かっただけじゃないの?

いやいや、違うのです。

言うならば三国志における諸葛亮のような軍師の才がナポレオンにはあったのです。しかも彼のすごいところは将軍にも関わらず最前線で戦い、兵たちを率い鼓舞する圧倒的なカリスマも有していた点にあります。

ナポレオンの名声はヨーロッパ中を駆け巡ります。このイタリア遠征はナポレオンの衝撃的な国際デビューとなったのでした。

オーストリアに勝利したナポレオンの次なる相手はイギリスです。とはいえ直接イギリスとは戦いません。ナポレオンはエジプトへと出征します。

当時のイギリスは海の覇者でした。イギリスと戦うには海を渡り本土へ上陸しなければなりません。しかし海に出たとたん世界最強の海軍を持つイギリスに海のもくずにされてしまいます。

そこでエジプトを攻略することでイギリスにダメージを与えてやろうという作戦を取ったのです。

当時イギリスはインド航路によって莫大な富を得ていました。そのインドへはアフリカ大陸をぐるっと回って航海しなければなりません。その補給基地としてエジプトはイギリスにとって重要な港だったのです。

さて、エジプトに乗り込んだナポレオンでしたが、やはりイギリス海軍に苦戦します。

エジプトに上陸するまでは上手くいったものの、それを追いかけてきたイギリス海軍はやはり強かった・・・!フランス軍の船は壊滅させられ、上陸したナポレオン軍は補給路を断たれてしまいます。さすがのナポレオンも補給がなければ戦えません。しかも船がないため兵を率いて帰国も出来ません。ナポレオンはエジプトで孤立のピンチに陥ります。

そして「ナポレオン、エジプトで孤立!」のニュースがヨーロッパで広まるやいなや、大国たちは息を吹き返したかのように攻撃を再開。ナポレオン不在のフランスは敗北を重ねます。

不甲斐ないフランス政府はがたがたになり、またもや内紛状態。強い指導者なき政府は何の手も打てずただただ状況が悪化していくのでありました。

その頃ナポレオンは苦しみながらも陸地で孤軍奮闘の戦いを続けていました。

そして、イギリス軍との交渉中、彼はフランス語新聞を入手します。

そこでナポレオンは不甲斐ない本国政府の体たらくを知り、こう決意します。

「この政府はもうだめだ。フランスは今、私を必要としている。この私がフランスを導かねばならない!」

彼はエジプトを離れ本国フランスに帰国し、自らが指導者になろうと言うのです。

ですがフランスに帰るには強力なイギリス海軍がいる地中海を通らなければなりません。

大船団を率いてそこを通れば撃沈されること間違いなしです。

そこでナポレオンは考えました。

「であれば、側近だけを連れてこっそり高速船に乗ってしまえばいいではないか。少数の船なら見つかりはしまい。」

こうして1799年8月23日、500人ほどの側近と共にエジプトを出航し無事に地中海を突破したのでありました。

ですが、残されたフランス軍はたまったものじゃありません。

事前に相談もなく、置き手紙ひとつで後のことを託されたJ・B・クレベール将軍は怒り心頭だったといいます。

艦隊350隻、陸兵3万8千、水兵1万6千を引き連れたナポレオンのエジプト遠征隊はこうして置き去りにされたのです。

これがラスコーリニコフの言う「エジプトに大軍を置き忘れ」と言わしめた出来事であります。

当然、置き去りにされたフランス軍は甚大な被害を被ることになりました。

さて、パリに戻ってきたナポレオンは政治の混乱を逆手に取り、フランス政府の第一統領となります。つまり政府のトップです。

政府のトップになってからもナポレオンの快進撃は続き連戦連勝!対外戦争においても無敵の強さを誇りました。彼の権力はますます盤石なものになっていきます。

国内の政治においても指導力を発揮し、続々と改革を打ち出し、フランス国内は革命以後誰一人として成しえなかった平和と繁栄を享受することになりました。

ナポレオンの人気は絶頂を迎えます。

そして1804年、ついにこの日が訪れます。

ナポレオンが皇帝となったのです。

これにより皇帝は世襲で引き継がれていくことになりました。

なぜ国王ではなく皇帝という名称なのかといいますと、国王では絶対王政の後継者というニュアンスが出てしまうので、そうではなく国民から選ばれたという意味合いを強くするために皇帝という称号を用いたのだと言われています。

さあ、こうなってしまえばもう敵はいません。フランスは次々と対仏大同盟との戦いに勝利し、ヨーロッパの覇権を掌中に収めていきます。

ナポレオン帝政の全盛期の到来です。

しかし、まだ1カ国だけ目の上のたんこぶが残っていました。

それがイギリスです。

イギリスはさすがに老獪です。直接フランスと陸地で戦闘をするのではなく、海上からじわじわと攻撃し、海上輸送網を混乱に陥れます。

そんなイギリスを叩きたいフランスですが、海の上ではなす術がありません。

イギリスはその海上の機動力を駆使し、対仏大同盟を支援します。

イギリスをなんとか潰したいナポレオンは、ついに1806年11月、「大陸封鎖令」を発令します。これはフランスの支配下にある国や同盟関係の国々、つまりヨーロッパのほぼすべての国にイギリスとの貿易の禁止を命じたものでした。

イギリスは貿易で繁栄した国です。その貿易を止めてしまえばイギリスは自滅していくだろう。ナポレオンはそう考えたのです。

実際、貿易封鎖によってイギリスは大混乱に陥りました。

このままこの大陸封鎖令がうまく機能していたらイギリスも崩壊していたことでありましょう。

しかし、そうは言っても歴史の流れはそんなに単純ではありません。

密貿易があとを絶たず、なかなか決定打にまではいたりません。ずるずると事態は長引き、逆に貿易封鎖によってイギリス以外の国のダメージのほうが深刻になってきてしまったのです。

ナポレオンは貿易封鎖を強化するべく1807年10月にフォンテーヌブロー勅令を発令しましたが、イギリスと経済的な結びつきの強いポルトガルはそれを無視。

ナポレオンはすぐにポルトガルを攻撃し、封鎖しましたが今度はスペインが密貿易を開始。

そしてすぐさまスペインに攻撃を開始しましたが、ゲリラの抵抗に遭いナポレオン軍は大苦戦。戦況は泥沼へと突き進んでいきました。

この頃からナポレオンの不敗神話に翳りが見えてきます。

そしてナポレオンにとって決定的なダメージとなったのが次のロシア遠征だったのです。

いよいよドストエフスキーの祖国ロシアとナポレオンの対決です。

続く

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