【お知らせ】ブログトップページをリニューアルしました
皆さんこんにちは。本日はお知らせがあります。
昨日9月29日、ブログのトップページをリニューアル致しました。
これまでのページは新着記事がどんどん更新されていくブログスタイルでしたが、新バージョンではカテゴリーページを並べる形に致しました。
これからも変わらず【日々是読書】の精神で学び続けていきますので、ぜひお付き合い頂けましたら幸いでございます。
今後ともよろしくお願い致します。
皆さんこんにちは。本日はお知らせがあります。
昨日9月29日、ブログのトップページをリニューアル致しました。
これまでのページは新着記事がどんどん更新されていくブログスタイルでしたが、新バージョンではカテゴリーページを並べる形に致しました。
これからも変わらず【日々是読書】の精神で学び続けていきますので、ぜひお付き合い頂けましたら幸いでございます。
今後ともよろしくお願い致します。
この本の中で「マルクス主義にも宗教的なところがあるのではないか」という指摘がなされるのですが、まさにこのことこそ当ブログでもずっと考え続けてきたことであります。
マルクス主義にも宗教的側面があるのではないかと私が考えていたことと、この本で語られていることがリンクしていくようで非常に興味深く読ませて頂きました。
私はどちらかというと真宗教団の研究からマルクスへ向かうのではなく、マルクスそのものやその思想背景、時代背景から宗教へと向かって行ったのでこの本のアプローチとはちょうど反対向きということになると思います。
プラトンが『国家』を書いたのは、尊敬する師ソクラテスが不当に処刑されてしまったことに対する反発からでした。
そしてそのソクラテスがなぜ処刑されねばならなかったのかについて書かれているのがこの『ソクラテスの弁明』という作品です。
親鸞自身もプラトンと同じように、尊敬する師が理不尽にも処罰を受けなければならないのを身をもって体感しています。
親鸞もそうした理不尽に反論するために主著『教行信証』を書いたという側面があります。
プラトンと親鸞が体験した「無念」という共通点が私にはドキッとくるものがありました。
2022年6月16日、滋賀県野洲市にございます真宗木辺派本山錦織寺にて親鸞聖人新暦御命日法要の法話をさせて頂きました。
二年ぶりに訪れた本山。しかも今回は布教ということで非常に緊張しながらお参りさせて頂きました。
これからも精進致しますので今後ともよろしくお願いします。
あけましておめでとうございます。
僧侶のブログとしては謎としか言いようのないラインナップでお届けした昨年の記事たちでしたが、今年もまだまだそれは続きます。
一見バラバラにも思える記事たちですが、私の中では「親鸞とドストエフスキー」という一貫したテーマで考え続けています。全ては繋がっています。
今年もよろしくお願いします
この本はコロナ禍における今だからこそ非常に重要なものとなっています。 私たちは病や死をどう考えていけばいいのだろうか。目に見えない存在に対してどう向き合うべきなのか。科学や合理性を盲信するあまり大事なことを見失ってはいないだろうか。 そのようなことを考えさせられる1冊です。
今、私達の死生観が問われています
私はTwitterをしています。Twitterではこちらのブログで投稿した記事の紹介や、世界一周記や日々の何気ないことをつぶやいたりしております。
最近はスターリンやヒトラーについての記事の更新を続けていますが、その中でとある質問を頂きました。
この記事ではその質問を通して私なりに思うことを記してみました。
この本は虐殺に突き進んでいった青年知識人たちにスポットを当てた作品でした。彼らがいかにしてホロコーストを行ったのか、そしてそれを正当化していったのか、その過程をじっくり見ていくことになります。 この本で印象に残ったのはやはり、戦前のドイツがいかに第一次世界大戦をトラウマに思っていたのかということでした。 そうした恐怖が、その後信じられないほどの攻撃性となって現れてくるというのは非常に興味深かったです。
親鸞とドストエフスキー。
平安末期から鎌倉時代に生きた僧侶と、片や19世紀ロシアを代表する文豪。
この全く共通点のなさそうな2人が実はものすごく似ているとしたら、皆さんはどう思われるでしょうか。
と、いうわけで、この記事では親鸞とドストエフスキーの共通点についてざっくりとお話ししていきます。
ドストエフスキー全集を読み始めた私でしたが、そのどぎつさ、膨大な量に苦しむことになりました。
ですが、ある時から急にそれが変わっていきます。
そして伝記や参考書も駆使して2周目に突入するとそれまでとは違うドストエフスキーを感じるようになりました。
人間のどす黒さをこれでもかと暴き出すドストエフスキーに、優しさを感じ始めたのです。