ドストエフスキーはどんな人?~ドストエフスキー全集を読んで

親鸞とドストエフスキー

「ドストエフスキー全集を読む。」

そう決めた私でしたが、実はこの時私はドストエフスキー全集がどれだけの分量なのかを全く考えていませんでした。

早速市の図書館の文学全集コーナーの書架に行ってみると、思わず「おぉ・・・」と呻いてしまいました。

ドストエフスキー全集(新潮社版)は27巻と別巻1冊の全28冊。

『カラマーゾフの兄弟』や『罪と罰』、『悪霊』など有名な作品の他にもドストエフスキーはものすごい数の作品を残しているということを目で見て実感しました。

巻末の目録を見てみましょう。

1巻目は1846年に出版されたデビュー作『貧しき人々』をはじめとした初期の短編と中編が収められています。

16巻目までがドストエフスキーの小説作品なのですが、基本的に年代順に収められています。

有名な長編作品のイメージが強かったのでドストエフスキーがこんなにも多くの作品を書いていたというのは少し意外でした。皆さんはどうですか?

また、こうして見てみるとドストエフスキーで最も有名である『罪と罰』が出来上がるまでずいぶんと多くの作品が作られていたのだなと感じます。ちなみに『罪と罰』が完成したのは1866年。ドストエフスキーがデビューしてからちょうど20年後になります。

そしてこの目録を見て驚いたのは20巻から23巻までの4冊が書簡で占められていることでした。

そのうちの1冊は妻との手紙だけで出来上がっています。

電話やメールもない時代とはいえ、凄まじい量の手紙です。そしてさらに不思議なのはそれがしっかりと保管されていてこうして現代を生きる私たちが読めているという事実。

全集を読むということはこういうひとつひとつのことにも面白みがあるなと感じたのでした。

さすがに分厚く字の小さい全集をすべて読むのは大変なので、文庫で手に入るものは文庫で読むことにしていきました。

文庫の場合、いくつもの出版社からドストエフスキー作品が出版されていますが、私は新潮文庫をお勧めします。

訳も素晴らしく、ドストエフスキーの原典に忠実かつ、現代人の私たちにも読みやすい訳となっています。

私はまずは『カラマーゾフの兄弟』を皮切りに、文庫で出版されている長編小説に進み、その後で図書館にある全集に順次取り掛かることにしました。

8月上旬にスタートした全集はなかなかペースが上がらず苦戦を強いられましたが、世界一周記の記事を書き終えた12月上旬から一気にペースアップし1月の半ばにはようやく第一周目を終えることが出来ました。

そして読んでみての感想はといいますと・・・

とにかく辛かったというのが本音です。

『カラマーゾフの兄弟』はまだ救いがある内容なのでなんとかなります。しかし同じく長編小説の『悪霊』ともなると、小説の毒気に当てられるといいますか、読んでいてどんどん体調が悪くなっていきました。

全集の初期短編、中編小説群もなかなかに手強い相手です。

少なくとも、「読んでいて楽しくはない」、そんな思いを持ちながらの読書でありました。

特に3巻の『ステパンチコヴォ村とその住人』は私の中で最も辛いものでした。この小説に出てくるフォマという人物がとにかく腹立たしい。読んでてお腹の辺りがグラグラグラグラ煮えたぎってくるようでした。危うく発狂です。

「なんでこんな人間を書かなきゃいけないんだ!一体ドストエフスキーは何を考えているんだ!もう勘弁してくれ!」

思わず私は心の中で雄叫びを上げました。

もしこの本が図書館のものでなかったら、この本は八つ裂きの刑に遭っていたことでしょう。

しかしここで私はハッとしました。

ふと小林秀雄の言葉を思い出したのです。

「文は人なり」

そうです。全集を読むというのは作品を通して作者その人を知るということです。

全集を読み続けてきてからここにきて初めて、心の底から「作者のドストエフスキーはなぜこういう人物を書かねばならなかったのだろう」という疑問が浮かんできたのです。

ドストエフスキーそのものに対して心の底から興味が湧いた瞬間でした。

ここから私の読書も変わっていったような気がします。(相変わらずフォマは大嫌いでしたが)

小説を読み終えると今度は『作家の日記』へと突入します。

『作家の日記』はドストエフスキーが発行した雑誌で、ジャンルを問わずドストエフスキーが世に対して思うことを自由に書き連ねていくというスタイルのものです。

小説と違ってドストエフスキーが世の中のあらゆることに対して率直に語ることから、ドストエフスキーその人を知る上で非常に重要な資料であると言われています。

『悪霊』やフォマの件にもあったように、ドストエフスキーは人間のどす黒いものをとにかく執拗なほど私たちに暴露します。

ドストエフスキーは人間のどす黒いものをえぐり出した暗い作家。

そんなイメージが私の中には強く存在していました。

しかしそのイメージが覆され始めたのがこの『作家の日記』でした。

『作家の日記』には虐げられた女性の話や、子供たちに対する思いやり溢れた言葉がたくさん書かれていました。

読み進めていく内に私は少しずつ新たな感情を抱き始めます。

「ドストエフスキーは優しい人なんだ・・・」と。

虐げられた弱者へのまなざし、特に貧困に苦しむ子供や虐待を受けている子供たちに対するドストエフスキーのまなざしはそれまでのイメージとは全く違ったものでした。

人間のどす黒さを描いたまなざしと、苦しむ子供たちを憐れむまなざしが全く同じ人間から生まれてきていることに気付いたのです。

「なんでドストエフスキーはこんな人間を書かなければならないんだ!」私は少し前、そう疑問に思いました。

そのヒントがこの優しいまなざしにあるのかもしれない。ドストエフスキーは優しい人なのかもしれない。だからこそひどい人間をあえて描いているのかもしれない。

私はそう思うようになったのです。

1周目を終えて、ドストエフスキー作品のだいたいのあらすじを把握することは出来ました。しかし、その深いところは正直まだまだ分からずじまいです。初見で太刀打ちできるほど甘い相手ではありませんでした。

というわけですぐさま2周目に突入です。さすがに全作品を読むことはしませんが私が重要と思う作品はすべて読んでいくことにしました。今度は世界一周記もないので全勢力をドストエフスキーに傾けられます。

参考書や資料も駆使して読んでいきます。

そうすると、面白いことに初めて読んだ時とまったく違う印象を同じ作品から受けることになったのです。

これには驚きでした。

やはり初見は厳しいです。まず初めてなのでストーリーを追うのでいっぱいいっぱいです。

しかも仮に参考書を読んでいたとしてもその作品を知らなければ説明を読んでも頭に入って来ません。

しかし、一度作品を読み、あらすじがわかった上でさらにその作品の解説を読んで背景を知り、さらにはそれを書いたドストエフスキーその人を伝記や資料などで知ることで、もはや初めて読んだ時とはまるで別物の作品と化すのです。

2周目の全集は一周目とは打って変わり、非常に興味深いものとなりました。

もちろん、ドストエフスキーの描くどす黒さは健在です。相変わらず読んでいて具合は悪くなりますが、今ではそれにも意味があると納得した上での体調不良です。

私はこの頃には研究の対象というより、ドストエフスキーに個人的に惚れこむようになっていました。

こうして今もドストエフスキー研究は続いています。

まだまだドストエフスキー全集についてはお話ししたいことがたくさんあるのですがそれはまた機会があればということに致します。

次の記事ではドストエフスキーと親鸞の共通点についてお話ししていきたいと思います。

本日も最後までお付き合い頂きありがとうございました。

続く

次の記事はこちら↓

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