(34)スリランカ内戦と急速に進んだ仏教聖地復活の背景~シンハラ仏教ナショナリズムと聖地の関係とは

アヌラーダプラ 仏教聖地スリランカ紀行

(34)スリランカ内戦と急速に進んだ仏教聖地復活の背景とは~シンハラ仏教ナショナリズムと聖地の関係とは

前回の記事「(33)ダルマパーラとシンハラ仏教ナショナリズム~スリランカ近代仏教の大きな流れとは」でダルマパーラとシンハラ仏教ナショナリズムについてお話しした。旅行記そのものから外れて少し解説的な記事となってしまい、皆さんを戸惑わせてしまったかもしれない。だがここをぐっとこらえて頂けたら幸いだ。これらの記事で解説されたことは必ずやこれからの旅行記を読む上で効いてくる。私がそこで何を感じたかを知って頂くためにも、ぜひこれらの基礎知識は必要なのである。

そして何より、これらスリランカ・インドの宗教事情を学ぶことで、私達日本人の姿も見えてくるのである。やはり比べてみるからこそ見えてくるものがあるのだ。

では、記事本編に入っていこう。

前回の記事で見てきたように、スリランカでは19世紀のイギリス統治により社会情勢が急激に変化し始めた。新興エリートの急増やキリスト教、英語教育によってシンハラ人仏教徒には不満がたまりつつあったのである。そんな時代に現れたのがダルマパーラだった。

アナガーリカ・ダルマパーラ(1864-1933)Wikipediaより

ダルマパーラはシンハラ仏教ナショナリズムを提唱し、スリランカの民族対立がここで急速に強まることになる。

小競り合いや暴動が19世紀末より起こり始め、20世紀に入ると多数の死傷者を出す事態にも発展していく。そんな危険な状態にあったスリランカではあったが1948年、ついにイギリスから独立を果たす。これは1947年に独立したインドに続く大きな出来事だった。

しかしこの独立もただ喜ばしいだけではなかった。

インドも独立直後、ヒンドゥー教徒の多い地域とイスラム教徒の多い地域で対立が激化し、インドとパキスタンへと分かれることになった。その後も両国は戦争を繰り返し現代でもその対立は激しいものがある。

それと同じことがここスリランカでも起ころうとしていたのである。イギリスというタガが外れた今、いつ爆発してもおかしくない危険な状態となってしまったのだ。

そして決定的だったのが1956年のシンハラ・オンリー政策と呼ばれるシンハラ人優遇政策だ。時の政権はシンハラ仏教ナショナリズムを旗印に票を稼いでいた政党だった。その彼らがさらにシンハラ人の勢力を増すために様々な優遇策を通過させたのである。

これにタミル人が猛反発。少数派であるタミル人を完全に蚊帳の外に置くこの政策は彼らにとって非常に危険なものだった。

こうしてこれまでの小競り合いや暴動とは一線を画す衝突がスリランカ各地で勃発していく。

ソロモン・バンダラナイケ Wikipediaより

この危険な状況に時の政権トップだったバンダーラナーヤカはこれまで自身が喧伝してきたシンハラ・オンリー政策を撤回しようとする動きを見せたのだが、その撤回に今度はシンハラ人側からの猛反発が浴びせられることになる。

そしてついに、あろうことか1959年にバンダーラナーヤカは暗殺されてしまうのである。シンハラ仏教ナショナリズムを奉ずる僧侶にピストルで射殺されてしまったのだ。もはやスリランカの民族対立は制御不可能な域に達してしまったのだ。

このバンダーラナーヤカの後を継いだのが彼の妻シリマウォだったのだが、彼女もシンハラ・オンリー政策を強力に推し進めていくことになる。

こうしてスリランカの民族対立は修復不可能なものとなってしまった。そしてそれがついに全面的な内戦となってしまったのが1983年のことだったのである。その内戦は2009年まで続き、その死者は少なくとも10万人以上だとされている。

内戦の経緯について詳しくはここではお話しできないが、興味のある方にはぜひ入門書として澁谷利雄著『スリランカ現代誌』や、『スリランカを知るための58章』をおすすめしたい。

さらに詳しく知りたい方には川島耕司著『スリランカと民族』『スリランカ政治とカースト』、和田朋之著『ハイジャック犯をたずねて—スリランカの英雄たち』などの本がおすすめだ。

さて、ここからは本記事のタイトルにも書いた「内戦とスリランカの仏教聖地」についてお話ししていきたい。

シンハラ・オンリー政策がシンハラ仏教ナショナリズムと連動した政策だったことはこれまで述べてきた通りだ。

そしてその中でも重大プロジェクトとして挙げられるのが仏教聖地の整備だったのである。

その代表例が「(29)なぜ私はスリランカの聖地や仏跡に感動できなかったのだろうか~宗教と「人生の文脈」について考える」の記事でもお話ししたアヌラーダプラなのである。

アヌラーダプラ

アヌラーダプラはスリランカ仏教の聖地として有名だが、この仏都は1017年の段階でインド・チョーラ朝の攻撃を受けて放棄されてしまった。

そしてこの地はそのままジャングル化し、ほとんど人が住まない場所となりその存在すら忘れ去られてしまったのである。

そんなアヌラーダプラが発見されたのはなんとおよそ800年後の19世紀中頃のことだ。統治国のイギリスがこの遺跡を発見したのである。

「800年も忘れられていたなんてそんな馬鹿な」と思うかもしれないが、スリランカ中部のジャングルを甘く見てはいけない。上の写真はアヌラーダプラ付近の山道の写真だが、想像してほしい。今はこうして車が走れるような道があるが、かつてはここ全てが深い緑に覆われていたのである。車窓から外を見てもすぐに視界が遮られてしまうような密生ぶりだ。

こんな視界もないようなジャングルにわざわざ入っていくのはあまりに危険。ここスリランカには野生の象もたくさんいるのだ。ジャングルに入るというのはそもそも命がけなのである。そんな危険を冒してわざわざジャングルに入ろうとする人間はほとんどいなかったことだろう。

そしてキャンディ王国で特に顕著なのだが、王権側がこのジャングルを天然の要塞として重要視していたという背景もある。あえてジャングルを残すことで外敵からの攻撃を阻む狙いがあったのだ。しかも新しい道をあえて作らず侵入経路を限定することによって待ち伏せ攻撃も可能であり、防衛上のメリットは計り知れない。

こういうわけでジャングルに覆われた遺跡が忘れ去られてしまうのである。「(16)なぜインドの仏跡は土に埋もれ忘れ去られてしまったのだろうか~カジュラーホーでその意味に気づく」でもお話ししたが、インドでもこのようにして仏跡が忘れ去られてしまったという歴史があるのだ。

さて、1833年からイギリスがこの遺跡の発掘と復興に着手し始めたが、1860年頃から始まったシンハラ人による仏教復興運動の煽りを受けイギリスがこの街の復興から手を引くことになる。

そして1899年、あのダルマパーラがここに大菩提会の支部を設け、ここを仏教聖地として本格的にアピールするようになっていくのである。これ以後積極的にアヌラーダプラ近辺のジャングル地帯の再開発が行われ、多くの人が入植することになる。今のようにアヌラーダプラに人が住み始めるようになったのは20世紀に入ってからのことなのだ。

そして1956年のシンハラ・オンリー政策によって仏教聖地の整備が急速に行われていく。具体的に言えば荒廃した遺跡の修復や再建という直接的なものから、主要都市からの道路建設や交通網の整備、巡礼・観光地としてのアピールなど様々な政策がなされたのである。

「(28)スリランカの古都アヌラーダプラ~ブッダガヤ伝来の菩提樹が立つ上座部仏教の聖地を訪ねて」の記事で見たイスルムニヤ精舎もまさに近年修復されたものである。堂内の涅槃仏が異様に新しかったのもそういうことなのである。

そしてこれはアヌラーダプラだけではない。ほぼスリランカ全土にわたってこのような再整備が行われているのだ。

特に彼らはアヌラーダプラ、ポロンナルワ、ダンブッラ、シギリヤなどの忘れ去られた古代遺跡を復活させ「文化三角地帯」として売り出し、観光資源としても世界に強力に押し出した。仏教の国スリランカのイメージはこうしたシンハラ・オンリー政策によって強められたのである。

つまり、現在スリランカで仏教聖地として信仰されている場所はそのほとんどが近年シンハラ仏教ナショナリズムによって再創造されたものなのだ。そこに歴史的連続性はないのである。

ここが私達日本人にとってなかなか理解が難しい点であり、私がスリランカで苦い顔になってしまう根本原因なのである。「(29)なぜ私はスリランカの聖地や仏跡に感動できなかったのだろうか~宗教と「人生の文脈」について考える」の記事でもお話ししたように、私達はどうしても歴史の連続性に重きを置いてしまう傾向がある。新しく作られた金ぴかの仏像より、1000年前から人々の祈りを見守り続けた黒ずんだ仏像をありがたく思ってしまうのだ。

しかも私はスリランカのこうした新しい寺院や仏像などを見る度にどうしてもこのシンハラ仏教ナショナリズムを連想してしまうのである。人々の信仰が生み出し、守り続けてきた仏教というより、明らかに政治主導的な仏教というように私には見えてしまうのである。私が上の記事で「シンハラ人の、シンハラ人による、シンハラ人のための仏教」と言ったのはそういう意味なのだ。

もちろん、スリランカ仏教全てがそうなわけではない。ダルマパーラが主導したシンハラ仏教ナショナリズムを支えたのは従来のスリランカ仏教と異なる「プロテスタント仏教」と呼ばれる新仏教だ。このプロテスタント仏教と古くから伝えられているスリランカの仏教は根本的に違うのである。ここがまたスリランカの複雑なところなのだが、このことについてはまた後の記事でお話しすることにしたい。

今回の記事では内戦への大まかな流れとシンハラ仏教ナショナリズムと聖地復興についてお話しした。ここ数回の記事は皆さんにとって驚くことが多かったのではないだろうか。私自身、スリランカを学んで驚愕し通しだったのである。スリランカという国が実に興味深いことにきっと皆さんも気付かれたのではないだろうか。

では、次の記事から再び旅行記に帰ることにしよう。

※以下、この旅行記で参考にしたインド・スリランカの参考書をまとめた記事になります。ぜひご参照ください。

「インドの歴史・宗教・文化について知るのにおすすめの参考書一覧」
「インド仏教をもっと知りたい方へのおすすめ本一覧」
「仏教国スリランカを知るためのおすすめ本一覧」

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