(28)スリランカの古都アヌラーダプラ~ブッダガヤ伝来の菩提樹が立つ上座部仏教の聖地を訪ねて

アヌラーダプラ 仏教聖地スリランカ紀行

(28)スリランカの古都アヌラーダプラ~ブッダガヤ伝来の菩提樹が立つ上座部仏教の聖地を訪ねて

ミヒンタレーの神話的な世界に浸った翌日、私はいよいよスリランカ仏教の聖地中の聖地、アヌラーダプラへと向かった。

アヌラーダプラは紀元前5世紀頃から紀元11世紀頃までスリランカの王都として栄えていた古都。

前回の記事「(27)スリランカ仏教伝来の聖地ミヒンタレーを訪ねて~聖地の名にふさわしい神話的な世界に感動!」に登場したティッサ王の本拠地がまさにここアヌラーダプラだ。そしてマヒンダ長老との出会いによって仏教に帰依したティッサ王はすぐさまこの王都に仏教僧院や仏塔の建設を命じることになる。こうしてアヌラーダプラがスリランカ仏教の中心として整備されていくことになったのだ。

こちらがイスルムニア精舎と呼ばれる僧院。この僧院はティッサ王の命で作られたとされ、スリランカ最古級の仏跡として知られている。ただ、今目にしているこの建物自体は近年建てられたものになる。この辺りの裏事情は後に改めてお話ししていくつもりだ。

堂内には巨大な涅槃像が横たわっているが、見ての通りかなり新しい仏像である。壁画も明らかに新しい。

古くて黒ずんだ年代物の仏像に心惹かれがちな日本人にとっては正直馴染みにくいものがある。

事実、僧院と同じくこの仏像も近年設置されたものなのだ。

僧院の裏手側に回れば、岩の上の僧院屋上に出ることができる。

イスルムニヤ精舎の屋上からすぐ目の前に巨大な白い仏塔があるのが見えた。おぉ、実にスリランカらしい美しい景色だと思ったのもつかの間、これも最近作られた仏塔だというのである。しかもこの仏塔はあの悪名高いラージャパクサ前大統領によって作られたそうだ。

ラージャパクサ大統領といえば、その汚職ぶりと失政から国民の怒りを招いていた人物で、上のニュースにもあるように2022年には空前の大規模デモが起きたほどだった。そのラージャパクサが多額の税金をはたいて自分の名誉のためにこの仏塔を建てたとガイドさんは言っていた。スリランカ国民の怒りはかなり根深いものがある。だからこそこの巨大な仏塔には人がほとんど訪れないのだそうだ。

先程の屋上のまさに正面からのアングル。僧院と岩山が一体化しているのが伝わるのはないだろうか。

そしてこのイスルムニヤ精舎の近くにはヴェッサギリアと呼ばれる僧院群跡も残っている。ここもティッサ王時代からある僧院だったそうだ。

そこは木々に囲まれた森の中という雰囲気で、その先に巨大な岩がゴロゴロ重なり合っていた。この岩山を利用して雨風や暑さをしのぎ、多くの出家修行者たちが共同生活をしていたのである。

たしかにこうして見るとしっかりと日陰が出来ていて快適そうである。「(18)ムンバイ沖エレファンタ石窟の巨大シヴァ神像に感動!ヒンドゥー教彫刻の白眉!」の記事でもお話ししたが、暑い地方ならではの天然のエアコンディショニングである。

ただ、ここまで来て私は自分の中の「ある不安」が増大していることに気づかざるを得なかった。

実はこの旅に出発する前から私はあることを恐れていたのである。

正直に告白しよう。

私は古代遺跡に対する感性が弱い。

どうしても古代遺跡の類に対してワクワクするような感情を抱けないのである。

これはあのローマのコロッセオを見た時ですらそうだった。

この「(5)古代ローマの象徴コロッセオとゲーテ・アンデルセン~文人たちを魅了した浪漫溢れるその姿とは」の記事の中でもお話ししたが、私はどうしても古代遺跡に弱いのである。

もっと言うならば、私には「考古学的なセンス」がないのである。

遺跡や廃墟を見ても、私には万能の詩人ゲーテのようにそこに生きていた人の姿が見えてこない。そこに生き生きとした光景を想像することができないのである。

あのコロッセオでそうならばインドやスリランカの仏跡もきっとそうなるに違いない。私はそんな不安を抱いていたのだ。そしてその予想は的中することになった。

ここまでお付き合い頂いている皆さんも薄々感じていたのではないだろうか。

カジュラーホーやエローラなどのインドの遺跡の記事であれだけ興奮気味に語っていた私がスリランカではどこかトーンダウンしていたのである。

特にこの「(26)サッセールワ大仏とアウカナ大仏~知る人ぞ知るスリランカの傑作大仏を訪ねて山中へ」の記事ではそれが顕著であったのがわかると思う。

そうなのだ。私はスリランカに来て古代遺跡の連続にすっかり消沈してしまったのである。「嫌だ」とか「苦手だ」というわけですらない。そもそも何も感じないのである。(ただ、ミヒンタレーだけは別だった。あそこは単なる遺跡ではなく神話の場所として物語性を感じることができた。つまり、単なる古代遺跡というより、現代にも生きる神話の舞台のように私には見えたのである。)

こういうわけで私はここアヌラーダプラを巡りながら「このままでは私は何も感じられないまま終わってしまうのではないか」という危惧を抱いたのである。これは仏教の聖地スリランカに対して非常に失礼な態度であると私も思う。だが、私はこの旅行記ではそれも素直に記したい。なぜなら、この無感覚が単なる「考古学的センスの有無」では片づけられないものをはらんでいたことに気づいてしまったからだ。

「なぜ私はこうもスリランカで無感覚になってしまったのか」

これは実は「自分にとって宗教とは何なのか」という問題と直結していたのである。

それはこの後アヌラーダプラの聖地中の聖地、「スリーマハー菩提樹」を訪ねた時に私の中で完全に姿を現すこととなった。

スリーマハー菩提樹

次の記事でこの菩提樹を通して私の「宗教的無感覚」についてお話ししていきたい。これは私だけの問題ではない。人間にとって避けては通れない問題がそこに横たわっていたのだ。

※以下、この旅行記で参考にしたインド・スリランカの参考書をまとめた記事になります。ぜひご参照ください。

「インドの歴史・宗教・文化について知るのにおすすめの参考書一覧」
「インド仏教をもっと知りたい方へのおすすめ本一覧」
「仏教国スリランカを知るためのおすすめ本一覧」

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