チェーホフ『黒衣の僧』あらすじ解説―天才と狂気は紙一重?

チェーホフとドストエフスキー

チェーホフ『黒衣の僧』あらすじ解説―天才と狂気は紙一重?

『黒衣の僧』は1894年にチェーホフによって発表された作品です。

私が読んだのは岩波書店、松下裕訳『六号病棟・退屈な話』所収『黒衣の僧』です。

早速あらすじを見ていきましょう。

哲学マギストル(博士)の学位を持ち、将来の学界のホープである主人公アンドレイ・コーヴリンは、第一章ですでに神経の異常を訴えている。その徴候が出てきたころ、たまたま恩人の娘ターニャ・ぺソツカヤから招きの手紙を受け取り、保養を兼ねて彼女のいる田舎へ行ってみようと思い立つ。冒頭の章はきわめて明るい。ターニャの父ぺソツキーは、彼が子供のときから親身に面倒を見てくれたひとである。ターニャに会うのも五年ぶりであった。(中略)

コーヴリンはここで熱烈に歓迎され、ターニャとも急速に親しくなる。すべてはつつがなく平和そうに見える。が、もうこのごろ、彼は黒衣の僧の幻影と遊ぶようになっていた。

コーヴリンは滞在中にターニャに結婚を申し込む。

筑摩書房、佐藤清郎氏の『チェーホフ芸術の世界』P233

主人公のコーヴリンは学会のホープです。しかし彼はすでに精神病の兆候がすでに現れており、その休養も兼ねてかつての恩人のもとへ赴くのでありました。

その恩人ペソツキーの娘ターニャとも親しくなりすべてはうまくいっているように見えました。しかしこの頃、彼は黒衣の僧の幻影を見るようになっていたのです。

幻影は頻繁に現れ、彼は周りの人からは見えない黒衣の僧と会話を楽しみます。ある日彼は僧とこんなやりとりをします。

「わかってもらえたらなあ、君の話を聞くのがどんなに楽しいか!」とコーヴリンは、満足のあまり両手を揉み合わせながら言った。

「そりゃ、ありがたい」

「だが僕にはわかってるんだよ、君が行ってしまうと、君の本質はなんだろうと疑問が湧いて、不安になるのがね。君は幻で、幻覚だ。つまり、僕は精神病で正常でないということになるんだろう?」

「それでもいいじゃないか。どうして困ることがあるんだね。おまえは病気だ、無理な働きようをして、疲労困憊したからね。でもそれは、おまえが自分の健康を思想の犠牲にしたということで、生命までも思想に捧げつくす時が近づいているということなんだ。これよりいいことがあるかね。それこそ、天から高貴な素質を授かった者のすべて目指すことなのだからね」

「自分が精神病だと知ってても、なお自分を信じることができるものだろうか」

「じゃアどうして、世界じゅうが信じる天才たちが同じように幻を見なかったとおまえにわかるのかね。それに今では、天才と狂人は紙一重だと学者が言っている。わが友よ、健康で正常なのは、平凡な群衆だけだ。神経病時代だ、過労だ、退化だなどという考えに深刻に苛立つのは、人生の目的を現在に置いている連中、つまり群衆だけだよ」

岩波書店、松下裕訳『六号病棟・退屈な話』p107-108

もちろん、僧は彼の作り出した幻覚です。しかし僧は幻覚とは思えないほどしっかりと会話することができました。

彼はこのやりとりの後、自分が選ばれた人間であることを確信し、楽しい幸福な気持ちに浸ります。その素晴らしい気分のまま、ターニャに結婚を申し込み、二人は結ばれることになりました。後に悲劇が待っていると知らずに・・・

感想―ドストエフスキー的見地から

精神を病み、そこから自分が作り出した幻覚と話をする。

これは『カラマーゾフの兄弟』の主要登場人物、イワンを彷彿とさせます。彼も精神を病み、自分の作り出した悪魔と対話します。彼もそれが幻覚だと知りながらも悪魔と対話するのです。

こうした自分が作り出した幻影との対話は『カラマーゾフの兄弟』の他にも初期の中編小説『二重人格』でも大きなテーマとなっています。ドストエフスキー自身も自らが作り出した幻影、分身との対話を非常に重要視していたと言われています。

そしてこの作品で興味深いのはやはり「天才と狂気は紙一重なのではないか」という問題です。

コーヴリンはある晩、黒衣の僧と話しているところを妻に見つかってしまいました。妻は見えない誰かとしゃべっている夫の姿を見て彼が病気であることを確信します。そして彼は精神病院に入れられてしまうのです。

月日が経ち、退院して家に戻ってきた彼はもはや別人となっていました。彼は陰気で怒りっぽく、気まぐれで、気難しく、面白みのない人間になり、家族との関係が急速に悪化していきます。そして彼は妻にこう言い放ちました。

「いったい、なんだってあなたがたは僕を治そうとするんです。臭素剤だ、ぶらぶら暮らしだ、温浴だ、監視だ、ひと口飲むにもひと足歩くにもおっかなびっくりだ―こんなことがみな、とどのつまりは僕を薄ばかにしちまうんだ。僕は気が狂った、誇大妄想狂だった、けれどもその代り僕は快活で、元気いっぱいで、幸福でさえあったし、おもしろくて独創的だったんだ。今では僕は分別くさく、手堅くなったが、その代りみんなとちっとも変わらない―月並みな人間になっちまって、生きるのが退屈で堪らない……。ああ、なんとあなたがたは残酷に僕を扱ったんだろう!僕は幻覚を見たけれど、それが誰の迷惑になったというんです。お開きしたいものだ、誰の迷惑になったというんだい」

岩波書店、松下裕訳『六号病棟・退屈な話』p125

彼は幻覚を見なくなった代わりにインスピレーションを失ってしまったのです。それによって元気いっぱいで幸福な日々も失われてしまったのです。

たしかに幻覚は見なくなった。しかしその分世界が色あせ、嫌なものにしか見えなくなってしまった。

最後の「僕は幻覚を見たけれど、それが誰の迷惑になったというんです。お開きしたいものだ、誰の迷惑になったというんだい」という言葉はなかなか強烈ですよね。

そして彼はこうも言います。

「仏陀やマホメットや、あるいはシェイクスピアはなんと幸せだったことだろう。親切な身内や医者たちに、恍惚感や霊感を無理やり治療されたりはしなかったんだからな!」

岩波書店、松下裕訳『六号病棟・退屈な話』p126-127

「もしもマホメットが神経を治そうとして臭素カリを飲んだり、一昼夜にたった二時間しか働かなかったり、牛乳を飲んだりしたのだったら、あの非凡な人間の死んだあとには、飼犬が死んだあとくらいのものしか残らなかっただろうにな。医者や親切な身内の者たちは、けっきょく人類を愚鈍にして、凡人を天才と見なして文明を滅ぼすのが落ちだ。あなたがたにはわかるまいがね」

岩波書店、松下裕訳『六号病棟・退屈な話』p127

ここでブッダやマホメットが出てくるのは面白いですよね。そして宗教家だけでなく、シェイクスピアもここで顔を出すことも。

天才とは何なのか。逆に言えば狂気とは何なのか。人と違ったことを考えたり、人と違うものが見えることが狂気であるならば、天才とはもれなく治療の必要な狂人となってしまうではないか。

そして巷でもてはやされる天才が結局そうではない以上、凡人が天才として祭り上げられているに過ぎないのではないか。そんな世の中などうんざりだとコーヴリンは語るのです。

これはとても考えさせられますよね。

天才ってそもそもなんだろう。狂気と紙一重のものなのではないだろうか。

これはとても面白いテーマですよね。そして同時に恐ろしくもあります。

この作品ではそうした天才と狂気の問題がチェーホフらしい簡潔な文体で描かれています。コーヴリンは最後にはどうなってしまうのか、それも見どころとなっています。個人的にかなり衝撃を受けた作品です。とてもおすすめです。

以上、「チェーホフ『黒衣の僧』あらすじ解説―天才と狂気は紙一重?」でした。

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