チェーホフ『すぐり』あらすじと感想~幸福とは何かを問う傑作短編!幸せは金で買えるのか。ある幸福な男の恐ろしすぎる実態とは

ロシアの大作家チェーホフの名作たち

チェーホフ『すぐり』あらすじ解説~幸福とは何かを問う最高傑作!幸せは誰かの犠牲がなければ成り立たない?

チェーホフ(1860-1904)Wikipediaより

『すぐり』は1898年にチェーホフによって発表された短編三部作の第二作目の作品です。

私が読んだのは中央公論社、神西清、池田健太郎、原卓也訳『チェーホフ全集 11』所収の『すぐり』です。

早速あらすじを見ていきましょう。

すぐりは日本では長野県の山地に自生するゆきのした科の落葉低木で、その実は赤く、甘酸っぱい。 ある辞典から

『すぐり』は短い作品であるが、鋭く人の心を刺す。人は何のために生きるかを、わずか数ぺージに、香り高く圧縮して見せてくれている。生きる目的を問うのに、逆に典型的な徒労の人生を示す。モーパッサンの名作『頚飾り』がイミテーションの頸飾りのために一生を棒にふる女の話であるように、これは酸っぱいばかりで甘みのないすぐりのために一生を捧げる男の話である。

筑摩書房、佐藤清郎『チェーホフ芸術の世界』P294

この物語も前作『箱にはいった男』に出てくる2人の男、教師のブールキンと獣医のイヴァン・イヴァーノヴィチが主人公で、今作からは友人の田舎地主アリョーヒンも彼らのおしゃべりに参加するようになります。

今回の語り手は獣医のイヴァン・イヴァーノヴィチ。

彼はこの作品で自身の弟ニコライについて語っていきます。引き続き佐藤氏の解説を見ていきます。

彼ら兄弟は貧しい一代貴族の子に生れ、幼いときは農村で過した。そのことが弟の一生を左右することになる。都会に出て小役人になってからも、農村が懐かしくてならなくなるのだ。いつか地主になって田舎で悠々と過したいと夢見るようになる。

そのためには地所を買う金を貯めねばならない。そこで、けちに徹する。ぼろ服もいとわず、せいぜいまずいものを食べ、遊びというものは一切しりぞけて、金を貯めに貯めていったのである。

四十歳を過ぎるころ、郵便局長の未亡人で、彼よりずっと年長の、美しくもない小金持の婦人と結婚するが、彼女の金を銀行に預金し、さらに倹約をつづける。それこそ食うものも食わずに、金、金、金の毎日だったのである。

そのような徹底したけちの生活のなかで、細君は栄養失調のためにしだいにやせていく。彼女は以前はおいしいものを食べ、裕かに暮していたひとなのだ。そして、ついに亡くなる。

「もちろん、彼女の死に責任があるなどとは、弟は思ってもみなかった」とチェーホフは語り手に言わせている。金はこの弟をますます、「奇人」にしていった。

筑摩書房、佐藤清郎『チェーホフ芸術の世界』P296

金の節約のために妻が衰弱死してもまったく気にしない弟。いや、むしろ自分の金が増えて喜んでさえいる弟。自分の幸福、夢のために彼は金を貯め続けます。

さて、主人公は、けちにけちを重ねた金でついに百二十デシャチン(一デシャチンは一.〇九二ヘクタール)の土地を手に入れる。もっとも、かねて夢見ていたようなすてきな荘園ではなく、川はあっても流れがコーヒー色をしている。なにしろ川岸の片方には煉瓦工場、もう片方には火葬場があったからだ。

「でも、私の弟は少しも悲しまなかった―彼はすぐりの株を二十ほど買い入れて植えこみ、いまは地主さまになったのです」

筑摩書房、佐藤清郎『チェーホフ芸術の世界』P296-297

ついに念願の地主になった弟。そしてそんな弟のところへ語り手のイヴァン・イヴァーヌヴィチはある日訪ねていくのでした。

語り手は弟の屋敷を訪ねていく。久しぶりで会った兄弟は抱き合って喜び、お互いに鬢に霜を置く年齢になったのを悲しみ合った。弟は肥り、よく食べ、百姓からは「閣下」と呼ばれ、地主さま然とふんぞり返っていた。そして、慈善にも心がけているよと語った。いかにも勿体ぶって。いったい、どんな慈善かって?ソーダやひまし油で百姓を治療し、自分の名の日には祈禱をあげ百姓たちに酒をふるまうといった慈善である。(中略)

かつては気にしていた、貴族らしくない妙ちくりんなチムシャ=ギマライスキーという姓も、いまは彼にとって重重しく立派なものに思えている。祖父が百姓で、父が兵隊だったことも忘れて。滑稽で悲しい話である。

筑摩書房、佐藤清郎『チェーホフ芸術の世界』P297

そしてここからがこの作品の最も重要なシーンとなります。せっかくですので本文から引用していきます。

夜になって、わたしたちがお茶を飲んでいると、料理女がすぐりの実を山と盛った皿をテーブルに運んできました。よそから買ったすぐりではなく、株を植えてからはじめて取れたわが家のすぐりなのです。二コライ・イワーヌィチはにっこりと笑い、目に涙まで浮べて、黙ったまましばらくそのすぐりの実をじっと見つめていました。―感動のあまり口もきけなかったのです。それから、すぐりの実を一粒口のなかへ入れると、幼い子供が大好きな玩具をやっともらったときのように、得意そうにわたしの顔をちらりと見て、こう言いました。―

『なんてうまいんだろう!』

そうして彼は、むさぼるように食べながら、たえずこう繰り返して言いました。―

『ああ、なんてうまいんだろう!兄さんも食べてごらん!』

すぐりは固くて酸っぱかったのです。けれども、詩人プーシキンが歌ったように、≪高貴な嘘は真実の闇よりも尊い≫のです。わたしはそのとき、積年の夢がまぎれもなく実現した幸福な男の姿を見たのです。生涯の目的を達し、望みどおりのものを手に入れ、自分の運命に、自分自身に満足しきっている幸福な男の姿を見たのです。ところが、人間の幸福についてのわたしの想念には、いつもなぜか物悲しさがつきまとっていて、今もこの幸福な男を目のあたりながめながら、絶望と紙一重の重苦しい感情がわたしを捕えて放さないのです。

中央公論社、神西清、池田健太郎、原卓也訳『チェーホフ全集 11』P80-81

酸っぱいすぐりの実を「なんてうまいんだろう!」と貪り食う弟の姿。彼はいかにも幸せそのものでした。

しかし思い返してください。彼は金のために妻を衰弱死までさせた男だということを。そしてそこまでして金を貯めた末の幸せがこの酸っぱいすぐりの実を「うまいうまい」と貪る姿だったことを・・・

その姿を見た兄のイヴァンは絶望を感じます。

とりわけ重苦しい気分になったのは夜ふけでした。わたしの寝床は弟の寝室のすぐ隣りの部屋にのべられていましたが、するとその夜、弟がまんじりともしないでしじゅう起きあがり、すぐりの実を盛った皿に近づいては、一粒一粒食べている物音が聞えてくるのです。わたしはふと、満足し幸福な気持でいる人びとが、実際にはどんなに大勢いることだろうと思いめぐらしてみました。それはなんという圧倒的な力でしよう!

中央公論社、神西清、池田健太郎、原卓也訳『チェーホフ全集 11』P81

このシーンの恐ろしさたるや!真夜中に隣の部屋でまんじりともせずすぐりの実をほおばり続ける弟・・・ホラー映画並みのシーンです。すぐりの実の幸福に憑りつかれた男の狂気が伝わってきます。

佐藤氏はこの場面について次のように述べています。

この弟はただ自己満足に浸っているだけなのである。だから兄の獣医は悲しくてならないのだ。

「人間の幸福について思うとき、いつも何か物悲しい思いが混じる。いま、幸福な者を見て、絶望に近い重苦しい感情に私は包まれた」と彼は言う。

これは彼の弟だけでなく、およそ自己満足の幸福者たちへの痛烈な批判である。次の言葉は私たちの心にさらに鋭く突き刺さる。

「満足しきって幸福でいる人たちの戸口の外に、小槌を持たせて誰かを立たせておくことが必要です。そうしてたえず、この世には不幸な人たちもいるんだ、君がどんなに幸福でも、人生は遅かれ早かれ君にその爪を見せるだろうし、災難が―たとえば病気や貧困や何かの喪失などが見舞って、君がいま他の不幸な人たちのほうを見ようとせず、その言葉に耳を貸そうともしないように、君のほうを見てもくれず、君の話を聞いてもくれないようになるぞと、その小槌を叩いて、たえず思い出させてやる必要があるのです。しかし、槌を持った人間はいず、幸福なものは結構な暮しをし、細かな生活上の心配は、風がやまならし、、、、、を吹くよう、ちょっと彼の心を波立たせるだけで―一切はつつがなく過ぎている」

私はこの言葉と次の痛烈な言葉が好きである。

「幸福な者がいい気分でいるのは、ただ不幸なものが、重荷を黙って背負っているからにすぎないようで、その沈黙なしには、幸福は不可能なのかもしれない」

この言葉の底を強く支えているのは作者自身の心である。通俗的な幸福を否定する気持がこの時期のチェーホフには強い。

筑摩書房、佐藤清郎『チェーホフ芸術の世界』P297-298

「あなたの幸福は自己満足だ。それは誰かが黙って犠牲に耐えているから存在するのだ。そして今あなたがいかに幸せだろうと、いつか運命の一撃があなたを襲うだろう。その時、今のあなたが誰の声も聞かないように、あなたの救いを求める声を聞いてくれる人は誰もいないだろう」とチェーホフは言うのです。

これはかなり厳しい指摘です。

チェーホフはイヴァンにこう言わせます。

苦しんでいる連中は、姿も見えなければ声も聞えない。人生の恐ろしい事柄は、どこか舞台裏で起っている。(中略)

幸福な人がよい気持でいるのは、ひとえに不幸な人びとが自分の重荷を黙って背負っているからで、この沈黙がなければ、幸福などはあるはずがない。いわば世間全体が催眠術にかかっているのです。

中央公論社、神西清、池田健太郎、原卓也訳『チェーホフ全集 11』P81-82

「世間全体が催眠術にかかっている」

だからこそ私たちは目覚めなければならない。そのためにこそ、

満足し幸福な気持でいるひとりひとりの人の戸口に、誰か金槌を持った人を立たせて、ひっきりなしにこつこつドアをたたかせ、そうしてこの世に不幸な人びとがいることや、現在どんなに幸福であっても、遅かれ早かれ人生が彼にもその爪を見せて、病気だの貧乏だの近親者の死だのといった災難が降りかかり、そうなったが最後、いま彼が他人をかえりみずその声を聞いてやらないように、誰からもかえりみられず誰にも悲みを聞いてもらえなくなるだろうということを、思い起させなければならないのです。

中央公論社、神西清、池田健太郎、原卓也訳『チェーホフ全集 11』P82

と言うのです。

『箱にはいった男』、『すぐり』と三部作の内二作品をここまで紹介してきましたがとてつもなく内容が凝縮された作品となっています。

『すぐり』もたった15ページに満たない物語の中でこれほどのことが語られるのです。これには驚くほかありません。佐藤氏も、

『すぐり』はすばらしい、そしてある意味でおそろしい作品である。小品といってもいい短い形式の中に盛りこまれた内容は一個の長篇小説に匹敵する。

塙書房、佐藤清郎『チェーホフの文学』P104

と絶賛しています。

この作品もチェーホフ文学の中でも特におすすめの作品です。ぜひ読んで頂きたい作品です。

以上、「チェーホフ『すぐり』あらすじと感想~幸福とは何かを問う傑作短編!幸せは金で買えるのか。ある幸福な男の恐ろしすぎる実態とは」でした。

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