ロシア正教の人間観や救いを解説 高橋保行『神と悪魔 ギリシャ正教の人間観』

ドストエフスキーとキリスト教

本日は角川書店出版の高橋保行『神と悪魔 ギリシャ正教の人間観』をご紹介します。

著者の高橋保行は1948年に東京で生まれ、1972年にニューヨーク聖ウラジミル神科大学院を卒業、1974年に日本ハリストス正教会の司祭に叙任され、ロシア正教に関する多数の著作を執筆しています 。

前回の記事でご紹介した同じく高橋保行による『ギリシャ正教』 ではギリシャ正教とは何か、そしてロシア正教とドストエフスキーの関係性が解説されています。(※この本ではギリシャ正教の教えを忠実に継承しているのがロシア正教であるということが解説されています。ざっくりと考えるならば、ギリシャ正教とロシア正教の関係はほとんどイコールの関係と考えてもよさそうです。以後この記事でも著者に従いギリシャ正教と書いていますが、ロシア正教の教えという意味でこの言葉を用いています)

それに対し、この著作ではギリシャ正教の思想により焦点を当てて解説をしています。

表紙カバーの本紹介を引用します。

「従来、キリスト教は「原罪」に特徴づけられるヨーロッパの信仰として理解されてきたが、本来のキリスト教は、西洋的な思想とは異なっている。霊魂を肉体から分離させて、その永遠性を説くようなこともしない。もともとのキリスト教は、霊を改め、そして高める場としてこの世の生をとらえてきた。その伝統を守り続けているのがギリシャ正教である。聖書の言葉やドストエフスキイの作品を鍵として、その思想と信仰のあり方の全貌を伝える。」

たしかに、キリスト教といえば人間は罪深い人間であるという原罪や、原罪から救われるために神に祈るというイメージがあります。

ですが著者の高橋保行は、それは伝統的なキリスト教の思想ではなく、西洋的な発想の下、後から付け足された思想であって、ローマカトリック教会の思想はヨーロッパ独特の産物であると述べます。

これには驚きました。原罪はキリスト教の根本的な考え方だと思っていましたがその原罪の解釈が異なれば他のあらゆることも変わってくることでしょう。

この本ではなぜそのようにカトリックではヨーロッパ特有の思想が見られるようになったか、またギリシャ正教がそれに対してどのような反応をとったかが歴史面だけではなく思想面でもわかりやすく説かれています。

また、この本でもドストエフスキー作品についても触れられていて、特に『カラマーゾフの兄弟』の修道院について多く言及されています。

『カラマーゾフの兄弟』の主人公、アリョーシャは見習い修道僧です。

そして彼が尊敬するゾシマ長老はまさしくギリシャ正教の精神を体現した修道僧として描かれています。

『カラマーゾフの兄弟』では有名な「大審問官の章」の後に、このゾシマ長老の生い立ちや信仰の秘密、そして主人公アリョーシャの救いについて語られていきます。

特にゾシマ長老が死ぬ直前にアリョーシャに語った次の言葉は重要です。

「わたしはお前のことをこんなふうに考えているのだよ。お前はこの壁の中から出ていっても、俗世間でも修道僧としてあり続けることだろう。大勢の敵を持つことになろうが、ほかならぬ敵たちでさえ、お前を愛するようになるだろうよ。人生はお前に数多くの不幸をもたらすけれど、お前はその不幸によって幸福になり、人生を祝福し、ほかの人々にも祝福させるようになるのだ。これが何より大切なことだ。お前はそういう人間なのだ。」(新潮文庫、原卓也訳『カラマーゾフの兄弟(中)』P58-59 より)

ゾシマ長老は修道院の閉じられた世界から俗世間へ出ていくことをアリョーシャに求めます。

そして俗世間の中でも修道僧として歩めと勧めるのです。

これはまさに、親鸞と師匠である法然の関係性と驚くべきほどの類似です。

法然という偉大なる師匠の教えの下、親鸞も山を捨て俗世間の中へ還っていく道を選んだのです。

この話はなかなか込み入ったものになってしまうのでここでその具体的な内容はお伝えすることは出来ませんが、ここにも親鸞とドストエフスキーの大きな共通点を感じることが出来ました。これはとても重要な問題であると思います。

いずれこのブログでもまとめてお話しできたらなと考えています。

『カラマーゾフの兄弟』をさらに深く読み込みたいという時にはこの著作は特におすすめです。ドストエフスキーが人間の救いをどこに見出していたのかを探る大きな手掛かりになることでしょう。

以上、高橋保行 『神と悪魔 ギリシャ正教の人間観』 でした。

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