(21)ドストエフスキーお気に入りのミラノ大聖堂と夫妻のイタリア滞在の始まり
【イタリア旅行記】(21)ドストエフスキーお気に入りのミラノ大聖堂と夫妻のイタリア滞在の始まり
愛娘を喪い悲しみに暮れるドストエフスキー夫妻。ヴヴェイでの悲しみの夏を過ごした後、二人はいよいよイタリアへ向かうことになる。
スイス、ヴヴェイからミラノへ向かうドストフスキー夫妻
秋が近づくと、重くるしい気分をなんとしても変える必要のあることがはっきりしてきたので、九月初めにイタリアに立ち、まずミラノに寄ることにした。一番の近みちは、シンプロン越えの山みちだった。あるところは徒歩で行った。夫といっしょに、山をのぼって行く大きな乗合馬車とならんで歩いて追い抜いたり、山あいの小道をたどりながら道々花をつんだりした。イタリア側にはいってからは、一頭立ての国馬車でくだった。あるとき、こんなおかしなことがあった。ドモ・ドッソラでわたしは果物を買いに行って、夏のあいだ学んだイタリア語をためしてみようと思いついた。夫がある店にはいったのに気がついたので、話を手つだうつもりで、いそいでそこに行ってみた。夫は何かわたしのよろこぶようなものはないかと思って、ショーウィンドウで見た細い鎖の値段をたずねているのだった。わたしたちを「高貴な外国人」と思った店のものは、これはウェスパシアヌス時代あたりのものだからと言って、その細い鎖に三千フランをふっかけてきた。その言い値は、わたしたちの金を全部あわせても及びもつかなかったので、夫は思わず笑いだしたが、それは実にあの不幸以来ひさびさの明るい顔といってよかった。
みすず書房、アンナ・ドストエフスカヤ、松下裕訳『回想のドストエフスキー』P199-200
スイスからイタリアへはアルプスを越えねばならない。
前回の記事「(20)ドストエフスキー夫妻のヴヴェイ滞在~悲しみのジュネーブを去り、愛娘の死を悼み暮らした夏」でも見たヴヴェイの景色だが、ミラノはまさに目の前のあの光り輝く山々の向こうにある。ドストエフスキー夫妻は馬車や徒歩でこの山を越えていった。ドストエフスキー夫妻の健脚ぶりにはこれまでも驚かされてきたが、まさかここでも歩いていたとは・・・
そして上の引用の最後に「夫は思わず笑いだしたが、それは実にあの不幸以来ひさびさの明るい顔といってよかった。」というアンナ夫人の言葉があったが、やはりこれも気になってしまう。それほど愛娘を喪ったショックは大きかったのだ。彼ら夫妻のヴヴェイ滞在の苦しさがうかがえる。
私も早朝、ジュネーブ発の鉄道に乗りミラノへと向かった。ミラノへはおよそ4時間の長旅。現代の高速鉄道ですらこれほどの時間がかかるのだから、馬車と徒歩で移動したドストエフスキー夫妻はどれほどの時間がかかったことだろう。
まさにヴヴェイで見た山々の間を走っている。目の前に崖のようにそびえ立つ山々を見ながらの車窓に興奮してしまう。
朝もやに太陽の光が差し込み、幻想的な光景が広がる。時間の都合で今回私はスイス・アルプスに滞在することはできなかったが全く悔いはない。こんなにも美しい車窓を楽しむことができたのだから。
ドストエフスキーもこのヴヴェーからミラノへの山々について書簡で次のように述べている。
このシンプロン越えの美しい山道は、どんなに生き生きした想像力を持った人でも、思い浮かべることはできないでしょう。(1868年10月26日づけ、姪ソーニャ・イヴァーノヴァ宛)
河出書房新社、米川正夫訳『ドストエーフスキイ全集17』P190
まさにこの言葉通りの素晴らしい景色であった。
さて、ドストエフスキー夫妻も見たであろうスイスの山々を眺めながら、いよいよ私もミラノに近づいてきた。
間もなくミラノ中央駅に到着である。
では、ここからまたアンナ夫人の『回想』の声を聞いていこう。
ミラノ大聖堂とドストエフスキー
環境の変化と、旅行の印象と、新しい人々とは(フョードル・ミハイロヴィチの意見では、ロンバルジヤの百姓の顔は、ロシアの百姓にたいへんよく似ているということだった)、夫の気分にいい作用をあたえ、ミラノに着いたばかりのころ、非常に元気で、有名なミラノの大聖堂に案内してくれたりした。これこそ彼がいつも心から感嘆して見とれずにはいられないものだった。ただ、大聖堂まえの広場のすぐちかくまで家が建てこんでいるのを残念がって(いまでは広場はずっと広くなっている)、そのため聖堂も荘厳さを失っていると言っていた。あるよく晴れた日に、わたしたちは聖堂の屋根にのぼって見もした。あたり一帯が見わたされたし、聖堂を飾っている彫像をよく見ることができた。住いをコルソの近くに見つけたが、そこはごみごみした通りで、住んでいる人たちが互いの窓から話ができるほどだった。
みすず書房、アンナ・ドストエフスカヤ、松下裕訳『回想のドストエフスキー』P200
ミラノに着いた頃にはドストエフスキーの精神面にも変化があったようで、ようやく回復の兆しが見えてきたようだ。
そしてドストエフスキーは、大のお気に入りであるミラノ大聖堂にアンナ夫人を連れていく。彼自身、書簡の中でこの大聖堂の美しさを次のように褒め称えている。
この町で注目すべきものは、有名なミラノ寺院くらいなものでしょう。巨大な大理石建築で、ゴチック・スタイル、全体がajour(透し彫り)になっていて、夢のようにファンタスチックな感じです。内部もずばぬけて立派です。(1868年10月26日づけ、姪ソーニャ・イヴァーノヴァ宛)
河出書房新社、米川正夫訳『ドストエーフスキイ全集17』P191
「夢のようにファンタスチックな感じです。」とドストエフスキーに言わしめた大聖堂!これは期待が高まる。私も早速ミラノ大聖堂を訪れることにした。
別の角度からも。
私は地下鉄でこの大聖堂前の広場にやって来たのだが、地下から階段を上って目に入ったこのファサードに思わず声を上げてしまった。「おぉ・・・!これはすごい!」
ドイツで見たケルン大聖堂やマインツ大聖堂とも全く違う。
ミラノ大聖堂は横幅がかなりある。そのおかげかバランスが整っているように見える。天高く伸び上がっていくケルン大聖堂と違い、落ち着いた調和、ハーモニーを感じる。
聖堂内部に入りその思いはさらに高まった。横幅がある空間のおかげで重厚ながら圧迫感を感じない開放的な作りになっている。そして何より両側に立つ柱に注目してほしい。柱の上部に装飾を施すことでこの柱の重心が高くなったように感じる。この装飾のおかげで太い柱であっても鈍重さを感じないということなのではないだろうか。
こちらは二枚ともケルン大聖堂と並んでドイツを代表するマインツ大聖堂の内部。柱の太さはミラノ大聖堂とほとんど変わらない。いや、むしろミラノ大聖堂の方が太いのではないか。だがミラノ大聖堂に比べてなんと重厚でどっしりしていることだろう。ドイツとイタリアの気質、文化の違いと言ってもいいのかもしれない。
中央祭壇もごてごてと飾り過ぎず、洗練されたものを感じる。ミラノは古くから商業・金融の街として栄えていた。だからこそこれでもかと見せびらかすような豪華さや、過剰な装飾というものを避けるのかもしれない。あくまで調和、ハーモニー。
大聖堂の外観を見ただけでその調和、ハーモニーを感じた私であったが内部にいる間もずっとそのことが頭を離れなかった。まるで美しい音楽を聴いているかのようなハーモニー。なんと美しく繊細な教会なのだろう。私もこの大聖堂が大好きになった。
そして私もドストエフスキー夫妻と同じく屋根の上に上ることにした。予約しないと入場チケットを手に入れることも難しいので、早めの予約ををおすすめする。
思わず息を呑んでしまう美しさ・・・!まるで森。柱の森だ。下からでは感じることのできない迫力。
ドストエフスキーが「ファンタスティック」と形容するのもわかる気がした。天に向かって突き出ていくかのような尖塔。塔先端のシャープですらりとした彫刻がまるで神の力を表しているかのようだ。
屋根の上の通路を通って進んでいく。きっとドストエフスキー夫妻もここを通ったのではなかろうか。
ちょうど大聖堂のファサードの裏側部分に到着。
まさにこのファサードの先端部の真裏に私は立っているのだ。
ミラノはイタリア屈指の大都市。その中心にドンとそびえる大聖堂。その屋根から見える景色を満喫したのであった。ドストエフスキーが見たミラノは今から150年以上も前。今のような現代的な建物は当然ないとしても、やはり壮観であったことだろう。
そして夜のライトアップされたミラノ大聖堂も必見だ。
それにしてもこの大聖堂広場周辺の豪華さとオシャレさよ。あまりに洗練されていてちょっと引いてしまう。『憧れの「ミラニスタ」』となるのもわかる気がした。ここで颯爽と歩けたならもう怖いものはない。男性女性問わず、ここが流行の最先端として評価されているのもむべなるかなと思った。
レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』があるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会
せっかくミラノに来たので私はレオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』にお目にかかることにした。不思議なことに、ミラノにおいてドストエフスキーはこの絵に全く言及していない。当時は自由に拝観することができなかったのだろうか。
『最後の晩餐』があるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会へは大聖堂付近からもメトロを使えば簡単にアクセスすることができる。
『最後の晩餐』を見るにはチケットの事前予約が必須だ。しかも時間指定もかなり厳しく、コロナ対策もあるのか同時に見れる人数も制限されている。まあ、おかげで大混雑の中見なくてもよいのでこちらとしてはとても助かるのだが。
こちらが『最後の晩餐』が描かれている広間。思ったより広い空間に、思ったよりもかなり巨大に描かれていたのが『最後の晩餐』だった。初めて見た時は思わず「でかっ!」と声が漏れてしまった。
じっと見つめる。
何だろう。このぼんやりと浮き上がってくるかのような印象は。
遠近法を積極的に使っているのもよくわかる。壁でありながらその先に奥行きがあるかのように見える。
そして何より、全体としての印象だ。フェルメールの『真珠の耳飾りの少女』の時と同じだ。(「(19)フェルメールの『真珠の耳飾りの少女』のオリジナルは想像をはるかに超えた傑作だった」の記事参照)
個々の分析とか理屈とかを超越した迫力。そうか。『最後の晩餐』もそういうタイプの絵だったのか。この絵は『ダ・ヴィンチコード』しかりその他絵解きでもよく使われるが、その実そうしたものを圧倒してしまうタイプの絵だったということなのだろう。(もちろん、絵の見方はそれぞれなのでこれはあくまで私見である)
いやぁこの絵を見ることができてよかった。
元気を取り戻したかのように見えたドストエフスキー、再び沈鬱状態に
ミラノ到着当初は元気を回復したかのように見えたドストエフスキーだったが、間もなく彼は再び気落ちし、ふさぎ込むようになる。
そんなドストエフスキーを心配するアンナ夫人。
そこで二人はさらにイタリアを南下し、ドストエフスキーにも馴染みの深いフィレンツェへと向かうこととなった。
次の記事ではそんなフィレンツェ滞在についてお話ししていく。
続く
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