及川真介訳『蜜の味をもたらすもの 古代インド・スリランカの仏教説話集』~スリランカの民衆仏教を知るためにおすすめ

蜜の味をもたらすもの スリランカ、ネパール、東南アジアの仏教

及川真介訳『蜜の味をもたらすもの 古代インド・スリランカの仏教説話集』概要と感想~スリランカの民衆仏教を知るためにおすすめ

今回ご紹介するのは2023年に春秋社より発行された及川真介訳『蜜の味をもたらすもの 古代インド・スリランカの仏教説話集』です。

早速この本について見ていきましょう。

13世紀にスリランカで編纂され、今もなお上座部仏教の東南アジアで読み継がれる仏教説話集『ラーサヴァーヒニー』。布施の重要性と、それによる天界へ転生する功徳を説く103話を現代語訳。南アジアと仏教ならではの味わいあふれる因果の物語。

Amazon商品紹介ページより

本書『蜜の味をもたらすもの 古代インド・スリランカの仏教説話集』は、今なおスリランカをはじめとした上座部仏教圏で親しまれている仏教説話だそうです。

仏教説話といえばブッダの前世物語であるジャータカが有名ですが本書ではそれとは一味違った物語を目の当たりにすることになります。

ジャータカについては以前当ブログでも松本照敬『ジャータカ 仏陀の前世の物語』というおすすめ入門書をご紹介しましたが、その代表的なお話が法隆寺の玉虫厨子にも描かれている「捨身飼虎」です。飢えた母虎を救うために自らの身体を与えたという有名な物語です。

法隆寺、玉虫厨子「捨身飼虎図(須弥座向かって右面)」Wikipediaより

他にも自分の身体を切って鷹に肉を与えて鳩を救ったシビ王物語やバラモンへの供養のために自ら火に飛び込んだウサギの話など有名な物語がこのジャータカに説かれています。特にこのウサギの物語は「月のウサギ」の元となったお話でもあります。

私達にとっても身近な物語がこのジャータカには収められています。

それに対し本書『蜜の味をもたらすもの 古代インド・スリランカの仏教説話集』は何が違うのでしょうか。

そのことを念頭に置きながら本書冒頭の解説を見ていきましょう。

これはRasavāhinīというパーリ語で書かれた物語集の和訳である。和訳の底本はニャーナ・ヴィマラというお坊さんが校訂して一九六一年にコロンボのグナセーナ書店から出したシンハラ文字の刊本である。

Rasavāhinīは一種の仏教説話集で、インド由来のものが四十話、スリランカ由来のものが六十三話、合計百三話から成る。刊本は三百頁だから一話が平均三頁である。一番長いのが第七品第三話の「ドゥッタガーマニー・アバヤ大王の事」で十九頁である。本書の冒頭の偈によると、これらの寓話は以前にスリランカのお坊さん達が島の言葉(シンハラ語)で伝えて来たらしい。後になってナングッタ・ヴァンカ僧房のラッタパーラデーハというお坊さんがそれをパーリ語に転換したという。更に巻末の偈によると、シーハラのヴィッパ村のヴェーダーハというお坊さんがこのラサヴァーヒニーを作った、とある。ヴェーダーハが現在のきちんとした形に編纂したということであろう。彼は一三世紀後半の人と推定されている。

本書の題名「Rasa-vāhinī」は「味を運ぶもの」という意味である。冒頭の偈には「sumadhuraṃ rasavāhiniṃ(とても甘美な味を運ぶもの)」とある。東南アジアの伝本、写本では題名を「Madhu-rasa-vāhinī(蜜の味を運ぶもの)」としたものがあるという(松村、二一八頁)。本書にはamata-rasa(不死・甘露の味)も出てくる。不死・甘露というとnibbāna(涅槃、覚り)のことになるが、本書に登場する人々が求めているのは、覚りのような形而上の、高度に抽象的なものではないらしい。彼等はもっぱら現世での安穏な暮らしや後世に天界で栄華を享受するといったきわめて現実的なものを求め望んでいるようである。東南アジアの伝本の表題が示す「蜜の味」ははなはだrealistic(現実的)な「蜜の味」なのである。

本書の眼目はその「蜜の味」を確実に獲得する手だて、方法を説くことにある。それは万人がpractical(実行可能)なものであり、特別の修行によってだけ得られるものではない。それは何か。dāna(施)である。dāna(施)こそが現世安穏・後生善趣の果報をもたらす魔法の杖なのである。檀波羅蜜(dāna-pāramitā)といって施によって彼岸に渡るのであるが、その彼岸は覚りの世界のことではなくて、現世での安楽な暮らしと死後に善いところに再生して栄耀栄華を享受することなのである。

春秋社、及川真介訳『蜜の味をもたらすもの 古代インド・スリランカの仏教説話集』Pⅰ-ⅱ

「本書に登場する人々が求めているのは、覚りのような形而上の、高度に抽象的なものではないらしい。彼等はもっぱら現世での安穏な暮らしや後世に天界で栄華を享受するといったきわめて現実的なものを求め望んでいるようである」という指摘は非常に重要です。

東南アジア仏教の姿を知る上でもこのことは見逃せません。

では引き続き解説を見ていきましょう。

さて、話の内容であるが、百三話に通底するポイントは次の如くであろう。

一.仏教僧団は聖なるもの、というゆるぎなき思い(信念)。そこから生まれる施者と受者との信頼関係。
二.生きもの(特に人間)は業(kamma)によって生まれ、業によって活き、業によって死ぬ。
三.善業善果、悪業悪果。因果応報。
四.生きもの、特に人間は輪廻転生する。天上の世間に再生し、また地獄に堕ちる。
五.施によって福徳を積み、それによって現世安穏・後生善趣を得る。
六.特に僧団(福田)への施は確実に大きく報果する。
七.なさけは人のためならず(自利のために施をする)。
八.正しい生活、五戒の遵守。
九.女性を一概に蔑視しない。良い女は良い女。悪い女は悪い女である。
十.後半のスリランカの部ではドゥッタガーマニー王(紀元前一〇一~紀元前七七)や十大戦士のダミラとの戦記を載せる。

以上のような事柄をかなめ、軸足として物語をつむぐのであるが、全編にわたって仏さま、仏教僧、仏教僧団を宣揚する臭いが濃厚である。それぞれの物語の中で数々の危難が出現するのだが、おおむね仏・法・僧の力と施の力によって解決をみる。それは摩訶不思議の領域での解決であって理性の立ち入りを許さない。「諸仏は不可思議(acintiya)である。仏の法は不可思議である」(第三品、第十話)と言う通り。我々が一十一=ニと計算する頭では思議すべからざる領域が存在するのである。この領域でつづられた物語を荒唐無稽と無視するのもよい。馬鹿馬鹿しいと笑いとばすのもよし。法螺を吹くな、ととがめるのもよし。死後の世界など誰も証明する者などいない、と拒否するのも現代を理知的に生きる者の営為として当然のことであろう。

しかしこの本の物語に登場する人々(この本の著者ヴェーダーハを物指にすると、十三世紀、日本の鎌倉時代以前の人々)は業の因果や死後の輪廻転生を「存在する」と信じ切って疑わない。その流れの中で現世安穏と後生善趣を願うのである。「その願いを叶えるには施が一番よい」と、堅い信頼に結ばれた仏教教団から教えられて施を実行する。しかし現世で現実に願いが叶えられるとは限らない。皮相的に言えば施をすれば財布が軽くなるだけである。現実の不首尾に絶望し、「この世での救いはもう結構です。どうか別の(死後の)世で私を救って下さい」(第三品、第九話)と、一種の悲愴感を背負った願求が転起する。厳しい現実に打たれ続けて日の目が見えないと人の心は弱まり、もろくなって何か救いを求めずにはいられなくなる。その人の心の弱みにつけ込み、現世安穏・後生善趣の保証を餌にして教団への施捨を促す宗教団体が今日でも後を絶たないことは銘記すべきである。

「雪山童子の話」の漢訳者、曇無讖(三八五-四三三)を物指にすると、『ラサヴァーヒニー』に出てくる人々は四世紀以前の人々である。この本の後半に出てくるドゥッタガーマニー王の在位は紀元前一〇一-紀元前七七である。日本では古墳時代から古代(飛鳥時代)の初期にかけての時代に当たる。いずれにせよ今から千五百~二千年以前のインド・スリランカの人々の生活一般や心情がこの本に投影されている。それは、今日の近代科学文明の洗礼を受けた我々にとっては、奇妙奇天烈、摩訶不思議、曖昧模糊、魑魅魍魎などの言葉をあてたくなる代物である。さらにこの本の特徴は仏教色がきわめて強いことである。当然のこととして全ての論旨が仏教の広宣流布という航路をたどって行く。私がセイロンに滞在している時、毎朝セイロンの公共放送局がラジオから短いお経とお坊さんのお説教を流していたのを今思い出している。

春秋社、及川真介訳『蜜の味をもたらすもの 古代インド・スリランカの仏教説話集』Pⅳ-ⅵ

かなり手厳しい見解も述べられていますが、実際に『この蜜の味をもたらすもの 古代インド・スリランカの仏教説話集』を読んでみると著者の述べることもたしかに頷けるものがあります。

この物語集を読んで全体としてやはり、善行を積む、特に仏様の名前を唱えたり、教団にお布施をしたり、人のために善いことをすることで、自分自身の来世や現世利益に大きく跳ね返ってくるという雰囲気が非常に強いと感じました。

先程も紹介した『ジャータカ』ではそうした自分自身の救いという側面ではなく、仏様の慈悲に満ちた物語が感動的に語られていたのでこの違いはかなり大きく感じられました。

『この蜜の味をもたらすもの 古代インド・スリランカの仏教説話集』はジャータカのような見返りを考えない献身や慈悲とは明らかに雰囲気が違います。

そう考えるとスリランカの人々はリアリスト的な面が強いのかとも思ってしまいました。と同時に日本の宗教観とも通じるものもあるのではないかともうっすら感じてしまいました。

仏教はインドで生まれました。しかしその後世界各地に伝わるとその土着の文化と混じり合って定着していくことになります。インドでは仏教が国家運営の中心となることは稀でしたが、ここスリランカや東南アジア、日本ではまさに仏教こそ国家運営の中心思想になってきます。ブッダは社会を捨てて独自の教団を作りましたが、国家運営は社会そのものです。そうなってくるとインドにおいて語られた仏教とは当然違った語りが生まれてくることになります。

その違いがこの『この蜜の味をもたらすもの 古代インド・スリランカの仏教説話集』にも表れているのではないかと思ってしまいました。この物語集ではいかにブッダの力が世界を超越しているか、そして仏教を信じることでいかに世の苦難に打ち克てるかを説いていきます。ブッダを心に念じるだけで窮地を脱することができるという話もたくさん出てきます。これは『法華経』の観音菩薩による救いとも重なってきます。

東南アジアの上座部仏教では出家者と在家信者とではその区別が厳密です。

この物語はまさに在家信者に向けた教えです。悟りを目指し一心に修行生活を送る出家者のための仏教と、一般の人々の信ずる教えには違いがあります。ですがその違いを全て包んで成立しているのが上座部仏教であります。このあたりの聖と俗の関係性については以前当ブログでも紹介した『東南アジア上座部仏教への招待』や杉本良男『スリランカで運命論者になる 仏教とカーストが生きる島』などの著作でわかりやすく解説されていますのでぜひそちらも合わせておすすめしたいです。そしてそこからさらに専門的に学ぶには馬場紀寿『仏教の正統と異端 パーリ・コスモポリスの成立』やゴンブリッチ、オベーセーカラ共著『スリランカの仏教』もおすすめです。

スリランカ仏教を知る上でも本書は非常に興味深い作品でした。ぜひぜひおすすめしたい作品です。

以上、「及川真介訳『蜜の味をもたらすもの 古代インド・スリランカの仏教説話集』~スリランカの民衆仏教を知るためにおすすめ」でした。

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