中島美千代『釈宗演と明治 ZEN初めて海を渡る』~スリランカを訪れた禅の名僧のおすすめ伝記

釈宗演 スリランカ、ネパール、東南アジアの仏教

中島美千代『釈宗演と明治 ZEN初めて海を渡る』概要と感想~スリランカを訪れた禅の名僧のおすすめ伝記

今回ご紹介するのは2018年にぷねうま舎より発行された中島美千代著『釈宗演と明治 ZEN初めて海を渡る』です。

早速この本について見ていきましょう。

鈴木大拙、西田幾多郎の師にして、漱石参禅の導師…明治期禅文化の中心にいた高僧の破天荒な足跡を追って。円覚寺僧堂から慶應義塾と、紅灯の巷へ、はたまた小乗仏教の地セイロンへ、シカゴ万国宗教会議へ。欧米に禅の種を撤いた、この驚くべき行動力の秘密とは。

Amazon商品紹介ページより
釈宗演(1860-1919)Wikipediaより

本書の主人公釈宗演は上の本紹介にありますように、鈴木大拙や西田幾多郎らビッグネームの師匠であり、若き日には福沢諭吉に師事していたという驚異の禅僧です。

私が本書を手に取り釈宗演について知りたいと思ったのは、以前当ブログでも紹介した馬場紀寿『仏教の正統と異端 パーリ・コスモポリスの成立』で次のように紹介されていたのがきっかけでした。

本章では、その中でも釈宗演(一八六〇―一九一九)という人物に焦点を当てたいと思う。それは、釈宗演がパーリ・コスモポリス衰滅後のセイロンとシャムの仏教に接触し、近代化運動の中心人物に出会っているからだが、理由はそれだけではない。西欧で始まった近代仏教学の動向を把握して、積極的に英語で発信し、弟子の鈴木大拙をとおして「大乗仏教」(Mahāyāna Buddhism)という概念を定着させ、その結果、「上座部仏教」(Theravāda Buddhism)という概念の成立を促したからである。

東京大学出版会、馬場紀寿『仏教の正統と異端 パーリ・コスモポリスの成立』P221

そしてここから釈宗演についての解説が始まります。

一八八七(明治二〇)年三月三一日、釈宗演は英領セイロンのコロンボ港に降り立った。二五歳の若さで鎌倉の円覚寺での禅修行を終え、慶應義塾で福沢諭吉に学んだ釈宗演は、帰国後、臨済宗円覚寺派管長として活躍し、夏目漱石の『門』における「老師」のモデルにもなるが、当時はまだ無名の一禅僧に過ぎなかった。

釈宗演の師となった今北洪川はもともと荻生徂徠の古文辞学の流れを汲む藤沢東畡の下で漢学を学んだ儒者だったが、転じて禅門で出家し、神儒仏一致を説く『禅海一欄』を著した人物だった。釈宗演は円覚寺での修行を終えると、今北の反対を押し切って慶應義塾に入学したのである(図2)。

また、セイロン留学に当たり、釈宗演は、師である福沢に加えて、今北に参禅していた山岡鉄舟や鳥尾小弥太らから経済的支援を受けていた。山岡は、江戸無血開城の功労者として、また剣豪として知られるが、維新後、明治天皇の侍従などを務め、釈宗演が留学する直前の一八八五(明治一八)年には、奇兵隊出身で陸軍中将だった鳥尾や師の今北らとともに、護国を目指す明道協会を設立した。

釈宗演は、コロンボで一泊した後に南へ移動し「一八八七年四月二日の朝、ゴールへ到着した。向かったのは、支援者となるセイロン人仏教徒のエドマンド・グネラトネの屋敷である。彼の家で、釈宗演は、半年早くセイロンにやって来ていた釈興然と合流した。

東京大学出版会、馬場紀寿『仏教の正統と異端 パーリ・コスモポリスの成立』P221-222

釈宗演についての解説はこの後も続いていきますが、すでにしてスケールの大きさが感じられますよね。福沢諭吉だけでなく山岡鉄舟の名前まで出てきた時には私も驚きました。

そんな釈宗演についてのおすすめの伝記が本書『釈宗演と明治 ZEN初めて海を渡る』になります。

本書について「はじめに」では次のように述べられています。

明治二十六(一八九三)年、コロンブスのアメリカ大陸発見四百年を記念して、シカゴで万国博覧会が開かれ、その部会の一つとして万国宗教会議が開催された。世界の諸宗教の代表者が集まるという世界宗教史上初めての出来事だった。参加したのはイギリス、フランス、ドイツや中国、日本などの十九カ国で、ユダヤ教、イスラム教、仏教、ローマ・カトリックなど十六の宗教だった。各宗教代表者は二百人を越えた。日本から仏教代表の一人として参加した臨済宗の釈宗演は、この檜舞台で禅を核とした仏教を伝えたのである。これが禅を欧米に伝えた最初だった。釈宗演は、ここに禅の種を撒いたのだ。

円覚寺の管長にして鈴木大拙の師であり、夏目漱石も参禅したと聞けば、誰しも雲の上にいて、峻厳な近寄りがたい高僧だと思うだろうが、釈宗演はそうではなかった。禅の修行をひと通り終えたあと、洋学と英語を学ぶために福澤諭吉の慶應義塾へ入塾し、さらに仏教の源流を遡ろうと、セイロン(現スリランカ)に遊学するという、当時としては型破りの禅僧だった。彼は江戸時代から続く古い因習に囚われた仏教の近代化と、海外布教をめざしていた。このように血気みなぎる一面がある一方で、情にもろく、悲哀を感じると人の前でもすぐに泣いた。厳しく指導するが弟子の面倒見もいい。舌鋒鋭く、ロは悪いが慈悲深い。早くに父母も兄弟も亡くし、「天地一箇孤独」の身であることの哀しみを、胸の底に張りつけて生きていた。釈宗演はこんな人間味に溢れた人だった。この釈宗演が撒いた一粒の種が、ドイツ系アメリカ人で宗教哲学者の心をとらえた。その種はどのように発芽し、今日見る海外での坐禅の隆盛に繋がっていったのだろう。

禅がZENとして欧米に広まったのは、その端緒に釈宗演という人物がいたからであり、それを継いで禅の種が花を開くまでの遠く険しい道を歩んだ人たちの意志と力があったからだ。その意志と力は、人間のどこから生まれてくるのだろう。そして、「厳しい修行によって煩悩を断つ」ことが果たしてできるのだろうか。「悟り」は体験できるのだろうか。さあ、そんな問いかけを抱いて、釈宗演とその時代への旅に出よう。そこには大きな足跡が、セイロンに、東南アジアに、そしてアメリカにと強く深く刻まれている。

ぷねうま舎、中島美千代『釈宗演と明治 ZEN初めて海を渡る』P2-3

私は今、スリランカに強烈に惹きつけられています。

そのスリランカを今から150年も前に訪ねた禅僧がいた。

そのことに私はやはり興味を禁じ得ません。

本書ではそんな釈宗演の生涯がドラマチックに語られていきます。

そして私にとって特に驚きだったのが、釈宗演が自分からセイロン行きを志していたわけではなかったということでした。これからの道に迷う釈宗演の進路を決めたのはなんと、あの福沢諭吉だったのです。

さて、慶應義塾に学ぶことおよそ三年、このごろの宗演に迷いがないわけではなかった。世の中は近代化という名の物質的文明が次第に浸透し、欧化主義が広まり続けている。仏教の衰退は、勉学に励んでいても何になるのか。還俗してさらに進路を開拓した方がいいのではないだろうかと思うこともあった。そんな迷いを、宗演が打ち明けたとき、福澤が返した言葉はこうだった。

  汝道に志す、宜しくセイロンに渡航して、源流に遡るべく、志や復た翻すべからず。

福澤諭吉はセイロンへいって、仏教の原点に立つことを勧めた。志を翻してはいけない。禅僧の修行を終えて、洋学を学ぼうとしたのは何のためだったのか。福澤は仏教が近代文明社会に合流するためにも、科学的知識に基づく学問を涵養した宗教者を待っていた。福澤は、改革者になるであろう宗演に期待していたのだ。

福澤が諭した言葉の中の「セイロン」。宗演がそれまで考えてもみなかったことだった。しかし、福沢諭吉によって頭に刻みこまれた「セイロンに渡航」が激しく宗演の心を揺さぶりはじめる。

ねうま舎、中島美千代『釈宗演と明治 ZEN初めて海を渡る』P64-65

このエピソードにも痺れました。

あの福沢諭吉とのこんなやりとりがあったからこそのセイロン渡航だったのです。

幕末から明治のうねりを感じられるものすごい師弟関係をここに感じました。

そして苦しみながらもスリランカでの滞在を終えた釈宗演は後に「セイロンで深めた禅への信頼と布教への自信は揺らぐことはない」という境地にまで達することになります。

私もこれから仏教を学びにスリランカへ向かいます。

この本を読めたことはとてつもない刺激になりました。現地に行き何を思うのか、今からそれが楽しみです。

釈宗演という巨大な人物の生涯をドラマチックに見ていける本書はとてもおすすめです。ぜひぜひ手に取ってみてはいかがでしょうか。

以上、「中島美千代『釈宗演と明治 ZEN初めて海を渡る』~スリランカを訪れた禅の名僧のおすすめ伝記」でした。

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