ダンディーの元祖、イギリスのブランメルとは~その歴史と時代背景

産業革命とイギリス・ヨーロッパ社会

ダンディーの元祖、イギリスのブランメルとは~その歴史と時代背景

前回の記事では松村昌家著『十九世紀ロンドン生活の光と影―リージェンシーとディケンズの時代』をご紹介しました。

今回はその中でも特に印象に残った「ダンディーの元祖」ブランメルについてお話ししていきたいと思います。

ダンディーといえば当ブログでも以前19世紀パリのダンディーについて「なぜフランス人男性はモテるのかーパリの伊達男「ダンディー」の存在から考えてみた」という記事でもお話しましたが、このパリのダンディー文化も元々はここロンドンで生まれたものでした。ダンディーの元祖はロンドンにあったのです。

これよりざっくりとこのダンディーの歴史について見ていきたいと思います。

ダンディーはそもそもどのようにして生れたのかーその前段階としてのマカロニースタイル

ダンディはどのようにして生まれてきたのか。リージェンシーのロンドンの昼と夜、表と裏の情景、生活風俗を描いた作品として知られるピアス・イーガンの『ロンドンの生活』(前章参照)によると、ダンディは、虚栄が気取りを相手にして産ませた子どもだと言われている。

その元祖は、遠く十五世紀の‟Fop”にさかのぼる。「フォップ」の次が‟Coxcomb”で、これは十六世紀の終わり頃に現われ、十九世紀までその名を残したが、十七世紀に入ると‟Fibble”の時代となり、それから十八世紀後半には‟Macaroni” (Petit-maitre)の時代となる(第一編第三章「脚注」)。

そこで、ダンディに一番近い「マカロニー」がどのようなものであったのかを見てみることにしよう。
※一部改行しました

世界思想社、松村昌家著『十九世紀ロンドン生活の光と影―リージェンシーとディケンズの時代』 P36

ここでダンディの前身であるマカロニースタイルについて語られましたが、それがこちらです。

Wikipediaより

いかがでしょうか。私も初めて見た時は度肝を抜かれました。凄まじいルックスですよね。

ではこの奇妙奇天烈なマカロニースタイルについて解説を見ていきましょう。

「マカロニー」とは、その名称からも分かるように、おおよそ一七六〇年頃から一七七〇年代にかけて(ジョージ三世の時代)、イタリアかぶれの若いしゃれ者たちの間にはやったファッション・スタイルである。

図2(※上の写真 ブログ筆者注)に見るように、こったメーキャップ(つけぼくろなど)と、そびえ立つかつらが際立った特徴をなす。その高さは三フィート(九十センチメートル余り)に達することがあり、てっぺんは小型のシルク三角帽子の形に作られている。

派手な刺繍で飾った絹地のブリーチズにウエストコット、フレアのついたヴェルヴェットの上着と大きな花飾り、赤いヒールの靴といった身なりだが、これだけのスタイルを整えるのに、どれだけの費用と時間を要したことだろうか。

先にあげた「フォップ」からこの「マカロニー」に至るまで、それぞれの名称には「阿保」ないしは「間抜け」のニュアンスが含まれているのだが、このマカロニー・スタイルはその最たるものであるように思われてならない。

ファッションはもともと誇張によって成り立つものであり、誇張ゆえにある種の馬鹿さ加減を伴い、またそれゆえに浮き沈みが激しいのだとも言えよう。
※一部改行しました

世界思想社、松村昌家著『十九世紀ロンドン生活の光と影―リージェンシーとディケンズの時代』 P36 ー37

マカロニーからダンディへ~ブランメルの登場!

ブランメル Wikipediaより

このあまりにもばかばかしいマカロニーに取って代わって登場してきたのが、ダンディである。十九世紀初頭におけるイギリスの男性の服装世界に革命的な変革をもたらし、ダンディ旋風を巻き起こしたジョージ・ブライアン・ブランメル—ボー(しゃれ男)・ブランメル(一七七八-一八四〇)である。

ブランメルは、あのマカロニー・スタイルに代表されるような十八世紀の流行界の大げさな、けばけばしいメーキャップや、ヴェルヴェツト、絹、宝石などを排除し、簡素化されたスタイルを編み出した。簡素化されたといっても、今日の私たちが常識的に考える簡素化とはわけが違う。すなわち、従来の奇抜さやけばけばしい飾り立てを排除したという点では簡素化なのだが、彼は服の仕立て方に徹底的にこだわり、そのためには時間を惜しまなかった。

彼の考え方によれば、男のおしゃれの秘訣は、服装の奇抜さではなく、上着の仕立て方にあるのであった。つまり、素材や飾りよりも上着がどれだけ体によく似合うかが、エレガンスの決め手となるのである。したがってブランメルは、上着、ヴェスト、ブリーチズを、それぞれ別々の腕利きの専門家に作らせるほどに仕立てにこだわっていたのである。

リージェンシー・ダンディが「〈衣服の〉ダンディ」と呼ばれるゆえんだが、イギリスが洋服仕立ての技術を世界に誇るようになったのも、このような文化史的背景があったからである。ブランメルが編み出したサートーリアル・ダンディ・スタイルは、図3(上の写真 ※ブログ筆者注)に見るように、真鍮のボタンのついたダークブルーの上着とレザー・ブリーチズにトップ・ブーツ、そして硬い白地のクラヴァットとのコンビネーションによって成り立つ。

このスタイルはたちまち摂政皇太子のお気に召すところとなり、これを基調としてリージェンシーのダンディ・スタイルは定まった。そして当時のロンドンにおける超一流の社交界として入場者に厳しい規制を課していたオールマックスにおいても、このスタイルが標準とされるようになり、ダンディズムは文字どおり全盛期の到来を迎えたのである。

世界思想社、松村昌家著『十九世紀ロンドン生活の光と影―リージェンシーとディケンズの時代』 P 37-38

あの奇抜なマカロニースタイルから一気にここまでスタイリッシュになりました。この変化は驚くべきものですよね!

こうしてこの後パリにも広がっていくダンディ・スタイルが出来上がったのでした。

では、このダンディの元祖ブランメルとはそもそもどのような人物だったのでしょうか。

ダンディーの元祖、ブランメルとは

では、ダンディ王国の君主ともいうべきブランメルとは、いったいどのような人物であったのか。

まず重要なこととして最初に強調しておきたいのは、ブランメルが貴族ではなく、いわば成り上がりの男であったということ。彼の家系について知られているのは、せいぜい祖父のウィリアム・ブランメルの代からだ。

世界思想社、松村昌家著『十九世紀ロンドン生活の光と影―リージェンシーとディケンズの時代』 P 3 9

ブランメルの祖父ウィリアムズはとある名家の従僕でしたが、そこからロンドンの高級な地域に上流階級を相手にした宿屋を開業しました。一介の従僕から上流階級相手の宿屋を開くということ自体がまず飛躍的な階級上昇でした。

そしてブランメルの父もそうした祖父の宿屋のおかげで有力な縁故を得たことにより、後々高級官吏にまで出世します。

そしてダンディーの元祖ジョージ・ブランメルが生まれてきます。

ジョージ・ブランメルは、このようなとんとん拍子の上昇気運に乗ったブランメル家の三代目ということになるのだが、イギリスの社会史的観点から、この成り行きは注目に値する。

というのは、ブランメル家におけるこの社会的上昇は、少なくともジョージ三世の時代までは、「クロース・バラ(閉ざされた特権城市)」を形成していた貴族社会に変化が生じはじめたことを象徴するような出来事であったからである。言い換えるならばこれは、十八世紀も半ばをすぎると、平民にとって貴族社会との間の障壁を越える可能性が出てきたことを意味する。

世界思想社、松村昌家著『十九世紀ロンドン生活の光と影―リージェンシーとディケンズの時代』 P 40

1700年代末頃には階級の流動性が生まれてきていたことがここからもうかがえます。かつてのように人々の身分は固定されていたのではなく、個人の智慧才覚や、縁故によっては飛躍的な階級上昇が可能になってきたのでありました。つまり「成り上がり」を夢見ることができる時代となったのです。

一七九〇年、十二歳になったブランメルは、名門パブリック・スクールのイートン校に入学、持ち前の美男子ぶりで注目を浴びたほかに、学問・スポーツにおいて秀でた才能を発揮し、上流貴族階級の子弟たちの人気者となった。(中略)

十五歳でイートン校を終えてから、ブランメルはオックスフォード大学オーリエル・コレッジに入ったが、父親が亡くなったために学業をやめ、ロンドンに戻った。それからまもなく、彼はその際立った風貌と作法によって、グリーン・パークでめぐり合った摂政皇太子の関心を引きつけ、皇太子の指揮下にあった第十軽騎兵連隊の将校に任ぜられることになる。

この連隊は、摂政皇太子直々の指揮のもとにおかれていたということもあって、当時におけるイギリス陸軍の中で最もファッショナブルであることを誇りとしていた。したがって、ブランメルにとって、摂政皇太子に目をつけられたということは、まさにそこに入隊するための千載一遇のチャンスであったのである。

しかし、もともとダンディとしての己れを売り込むことが目当てであったブランメルにしてみれば、軍隊そのものに特に執着していたわけではなかった。彼は頃合を見て、さっさと将校の地位を人に売り渡し、父からの遺産3万ポンドを元手に、グリーン・パークとハイド・パークの間に挟まれたチェスターフィールド・ストリートに居を構えて流行界に君臨し、ダンディ・スタイルの指南役として絶大な勢力をふるうようになる。

世界思想社、松村昌家著『十九世紀ロンドン生活の光と影―リージェンシーとディケンズの時代』 P 40-41

こうしてダンディの指南役として絶頂期を迎えるわけでありますが、残念ながら彼の栄誉ははかない幻と消えてしまうのでした。というのも、ダンディ・スタイルはあまりにも「金と時間」がかかり過ぎたのです・・・

一介の召使からはじまったブランメル家の社会的上昇は、三代目で頂点に達し、絢爛を極めた感があったが、その栄光は長くはつづかなかった。財力の限界による借金の累積と、彼の怖いもの知らずの不遜傲慢な言動をその主たる原因としてあげることができよう。


世界思想社、松村昌家著『十九世紀ロンドン生活の光と影―リージェンシーとディケンズの時代』 P 42-43

ダンディーの条件とは

ブランメルがリージェンシー・ダンディの鑑として仰がれていた点から推して、損得の常識に超然たる傲慢さが、ダンディ・スタイルの重要な一部分をなしていたことがわかるであろう。

ダンディ・スタイルのもう一つの側面は、時間の観念に超然たることだ。ダンディ小説の標本ともいうべきブルワー・リットンの『ぺラム、またはあるジェントルマンの冒険』第二版(一八二八年)の一節を借りて、時間についてのダンディのあり方を示しておく。

『「ねえ、ぺラムさん、あなたもブルゲー時計をおもちかしら。」ポールディング嬢がぼくのほうをふり向きながら尋ねた。「時計ですって?ぼくが時計などもつなんてお思いですか。あれほど野暮ったいものはありませんよ。一日に九時間も事務所で働いて、一時間で夕食をすませるような勤め人ならいざ知らず、誰が時間など気にするものですか。」』(第一編第十三章)

それもそのはず、ダンディがその独特のスタイルを整えるだけでも、優に半日はかかっていた。時間に縛られるということは、いわばダンディズムのルール違反を意味するようなものであった。試みに、ブランメルの身支度の様子を覗いてみることにしよう。

まず、最も小さなひげ剃りで、できるだけ時間をかけて丹念に顔を剃ることから彼の身支度ははじまる。それがすむと、次は全身をこすりかつ洗うのに毎朝たっぷりニ時間をかける。皮膚の活性化のために、剛毛のブラシで全身がロブスターのようにまっ赤になるまでごしごしこするのも、日課の一つであった。それがすむと、今度は歯医者用の鏡と毛抜きをもって、顔中を隈なく探しながら剃り残しの毛を念入りに抜きとるのである。

ダンディの身支度の最大の山場は、ネッククロスすなわちクラヴァットを巻く場面であった。十八世紀の肖像画を見ても分かるように、従来のネッククロスにはやわらかな布が使われていたが、ブランメルはこれを改良(?)して、ごわごわと硬く糊づけした大きなモスリン地を使うことを考案した。その結果、これがダンディ・スタイルの最大のポイントとなったのである(図3参照 ※下の写真 ブログ筆者注)

世界思想社、松村昌家著『十九世紀ロンドン生活の光と影―リージェンシーとディケンズの時代』 P 43-44
上の引用における図3の絵

上の引用を読んで頂ければわかるように、ダンディーは普通の仕事どころではありません。あまりに支度に時間がかかるので通常の労働など到底不可能です。

ブランメルの没落と社会階級の越えられない壁の存在

以上のようなことから、私たちは、ダンディズムとその流行は、実際的な活動を完全に否定した現象であったことを再確認することができよう。そのため、ダンディ集団はのちに、ヴィクトリア朝に労働の福音をもたらしたトマス・カーライルによってこっぴどくたたかれることになるのであるが、ここでもう一度、ダンディズムの元祖ブランメルが貴族ではなかったことを想起しよう。

貴族階級に属さないブランメルは、ダンディであることによって、カーライルの言う「働かざる貴族」を演じていたのである。それは、彼のダンディズムに摂政皇太子はじめ、本物の貴族たちが信者として群がることによって可能になった。

しかし見失ってはならないのは、リージェンシーの貴族たちの気質と嗜好の問題だ。J・B・プリーストリーの言い方に従えば、「退屈な生活をもて余していた彼ら貴族たちは、何か変わったことを経験してみたかった。そして高貴な身分や富を忘れて、階級の門戸を開き、秘密を洩らされる心配のない遊び相手、、、、、を迎え入れたのである」(The Prince of Pleasure and His Regency,p48,傍点筆者)

したがって、ダンディ集団の枠組みの中にいるかぎり、ブランメルは貴族と同等、というよりは彼らの支配者でありえた。しかし、ダンディズムは、貴族階級にとっては余技、、であったのに対し、ブランメルにとっては生きがい、ないしは人生そのものであった。

階級的基盤と富の裏づけがあるのとないのとでは、雲泥の差がある。ブランメルが借金で八方ふさがりなった結果、一八一六年からは国外に逃れてカレーでの逃亡生活を余儀なくされたのも、貴族と平民との違いを如実に物語っている。平民であったがゆえに、彼は国外逃亡によってしか、債務者監獄入りを免れる術がなかったのである。

カレーに逃れたあとも、ブランメルは家具や室内装飾に粋を集めることをやめなかったあたりは、さすがダンディズムの王者だと言うべきだろうが、彼がロンドンの社交界に復帰することは、ついになかった。そして彼の失墜は、リージェンシー・ダンディズムの終焉につながった。一八三〇年、ブランメルはカンの英国領事としての閑職を与えられたが、晩年は精神錯乱が高じて同地の病院に収容され、惨めな境遇の中で生涯をとじた。
※一部改行しました


世界思想社、松村昌家著『十九世紀ロンドン生活の光と影―リージェンシーとディケンズの時代』 P 46-47

この箇所も非常に重要です。

いくら階級が流動的になっても権力や財力の基盤の差は歴然としています。そこにブランメルの没落の原因があったのでした。

【重要】イギリスダンディズムの衰退とフランクリンによる勤勉倹約の労働倫理

また、次の箇所ではイギリスダンディズムが衰退した理由としてベンジャミン・フランクリンの勤勉倹約の労働倫理やそこから生まれたスマイルズの『自助論』を挙げています。後のヴィクトリア朝の時代精神を考えていく上でも非常に重要な箇所ですのでぜひじっくりご覧ください。

上に述べてきたようなブランメルの生涯は、リージェンシー・ダンディズムの衰退の原因を、ほぼ全体的に集約しているということができよう。すなわち、時間の観念も金銭感覚もなく、浪費三味に終始したのがダンディズムである以上、それが長つづきするはずはなかった。

しかもダンディズム流行の時代は、産業革命進行期、すなわち勤勉と労働を旗じるしにした新興階級台頭期であったことも思い出す必要がある。ジョージ三世の時代には、すでに機械化に向かって時代は着実に動いていたのである。

そしてさらに、ブランメルが生まれた一七七八年頃には、アメリカ大陸からベンジャミン・フランクリンによって発信された勤勉・倹約の教訓がイギリス社会に浸透していたということも見落としてはならない。

フランクリンは『貧しいリチャードの暦』の作者としても知られるが、なかでも一七五八年の『暦』に書かれた序文は有名だ。これは、『富に至る道』という題のもとに別刷りの小冊子として刊行され、たちまちにして爆発的な人気を博し、イギリスではブロードサイド(タブロイド版の大衆向け読み物)と化して、全国津々浦々で読まれていた。ここには、例えば時間の大切さ、怠慢への戒め、勤勉のすすめを主題とした、親しみやすい格言・金言がたくさん盛り込まれていて、読む人の立身出世のロマンティシズムを燃え立たせるような趣向がこらされている。どの部分を見ても、それらはダンディズムと真っ向から対立するような処世術ばかりだ。

サミュエル・スマイルズの『セルフ・ヘルプ』(一八五九年)を通じて、そしてわが国でも中村正直の翻訳『西国立志編』を通じて有名になった「天は自ら助くる者を助く」という金言も、もとは一七五八年の『貧しいリチャードの暦』に含まれていたもので、もちろん今言った『富に至る道』に再録されている。ついでに、この小冊子の中から時間の大切さに関する格言を一つだけ選んで紹介しておこう。

「時間の価値が何より貴重であるならば、時間の無駄遣いは最大の浪費である。」

『貧しいリチャードの暦』とは別に、フランクリンが「若い商人への助言」(一七四八年)の一項として書いている「時は金なりということを忘れてはならない」という教訓も、私たちにとってなじみ深い言葉だ。十八世紀後半には、おそらく『貧しいリチャードの暦』の格言とともに、イギリス人の生活の中にも浸透していたことであろう。

このような背景は、ダンディズムの流行と並行して、やがてヴィクトリア朝の時代精神となるべきセルフ・へルプの路線が形成されつつあったことを物語る。セルフ・へルプというのは、まさに勤勉と積極的な活動を前提として成り立つものであるから、ダンディズムとは正反対の精神構造であり、したがってダンディズムにとっては、これほどの強敵はなかったのである。


世界思想社、松村昌家著『十九世紀ロンドン生活の光と影―リージェンシーとディケンズの時代』 P 48-49

イギリスはいち早く工業化が始まった国でもあり、さらにはフランクリン流の勤勉倹約の教えが広く伝わっていました。だからこそブランメルのダンディズムはその繁栄を保つことなく衰退していったのでありました。

興味深いのはこうしたダンディズムがその後パリに持ち込まれ大流行し、その後もずっと勢力を保ち続けたという点です。

というのもここで見てきたイギリスと違って、フランスではまだまだ工業化は進んでおらず、しかもフランクリンの影響も少なかったという背景もあります。他にも様々な要因が考えられますが長くなりますのでここではこれ以上は述べませんが、こうしたパリにおけるダンディズムについて語られるのが有名なバルザックの『ゴリオ爺さん』という作品です。

ダンディズムとは何かを知るにはこの作品は最適です。ストーリーも抜群に面白く、ぜひこれはおすすめしたいです。

ロンドンで生まれたダンディズムがパリでどのように受け入れられ、発展していったかはイギリスとフランスの文化を考えていく上でも非常に興味深いものでありました。

おわりに

この記事ではダンディーの開祖ブランメルとダンディズムが生まれてきた背景などをお話してきました。

私自身、ダンディーのことを知ったのはフランス文学がきっかけでしたので、その元祖のブランメルについてはこの本で初めてじっくりと見ていくことになりました。

ダンディーがマカロニースタイルという衝撃的な服装から発展して出来上がってきたというのは驚きでしたし、その衰退がイギリスの工業化やフランクリンの勤労倹約の思想に影響を受けているというのも驚きでした。

そしてこのフランクリンに影響を受けて出来上がってくるのがスマイルズの『自助論』であり、これがまたイギリスの労働者の道徳観を形成していくというのも興味深かったです。

次の記事ではその『自助論』を実際に読み、この本がどのような影響をイギリス社会に与えていたのかを見ていきます。

以上、「ダンディーの元祖、イギリスのブランメルとは~その歴史と時代背景」でした。

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