謎の国ロシアの歴史を年表を用いてざっくり解説!

ロシア ロシアの歴史・文化とドストエフスキー

年表から見る、近いけど遠い「謎の国」ロシア!その成り立ちと歴史をざっくり解説!

これまで長々とドストエフスキーを学んできましたが、フランス・イギリス・ドイツと思わぬ遠回りを経ながらもようやくここからロシアに突入です。

私が住む函館市は開国以来、日本の玄関口として多くの外国人が訪れる街で、その中でも特に関係が深いのがロシアでした。

ロシア正教・函館ハリストス正教会

地理的にも北海道はロシアと非常に近いです。もはや隣人と言えるかもしれません。

しかし、そのロシアが一体どんな国なのかと聞かれると、まったくわからない・・・

思い浮かぶとしたらソ連のイメージやプーチンの存在くらいでしょうか。あと、スケートやバレエ、ボルシチ、ウォッカ、などなど・・・

正直、ドストエフスキーを学ぶまで私はほとんどロシアのことを知りませんでした。

「極寒の薄暗いどんよりした恐い国」

そんなイメージが頭にあるだけでした。

いつ頃からロシアという国が成立し、どんな歴史を経て今に至っているかなど全く想像すらできなかったのです。いや、興味関心もなかったというのが正直なところかもしれません。

謎の国ロシア。

ですが、いざ調べてみると実はこの国の歴史は非常に面白いことがわかってきました。

そしてドストエフスキーを学んでいく上でも非常に参考になりそうな事柄がどんどん出てきたのです。

ドストエフスキーが描く作品には支離滅裂で極端と極端を行き来するような謎の人物がたくさん出てきます。この非合理的な人間像はまさしく「ロシア的」と形容される性格で、ドストエフスキーはこういう人物を意図的に書いていたのだと思われます。

ロシアの歴史を学ぶとそういう「ロシア的」な性格がおぼろげながらも姿を現してきます。

今回の記事ではそんなロシアの歴史を年表を見ていきながらざっくりとお話ししていきます。

これから見ていく年表はロシア社会史学者土肥恒之氏の『興亡の世界史 第14巻 ロシア・ロマノフ王朝の大地』を参考にしています。一部私の方で書き足している部分や省略している箇所もありますのでご了承ください。

では早速始めていきましょう。

ロシアの起源

4~8世紀 スラブ諸民族が各地に分散、移住。町ができ始める。

860頃 キリル文字の誕生=※それまで文字はなかった

882  オレーグ公がキエフ国家を統一。古代ルーシ(ロシア)の成立

988  キエフ大公ウラジーミルがギリシア正教を受容。キリスト教国家へ。

1156 ユーリ・ドルゴルーキーがモスクワを建設

『興亡の世界史 第14巻 ロシア・ロマノフ王朝の大地』を参考

年表だけ見てもさっぱりわからないと思いますのでざっくり言いますと、ロシアという国が出来上がったのは実はかなり最近のことなのです。

この年表で言うと、ロシアの原型が出来上がるのは882年。

しかもロシアのスタートはウクライナのキエフが国家として成立したところに原点があります。ロシアはモスクワやサンクトペテルブルクから始まったわけではないのです。

そしてそこから100年以上も経った988年にキエフがコンスタンチノーブル(現イスタンブール)からキリスト教を受容したことで、ロシア正教の歴史がスタートしていきます。

そしてそこからさらにおよそ170年を経た1156年になってようやくモスクワという街が形成されるようになっていったのです。

驚くべきことに、この時点ではロシアという国はまだありません。

この頃はウクライナのキエフが現在のロシア周辺のエリアの中でも最も文化の進んだ国家として体裁を構えていました。

ですがロシアの広大な土地ではまだ国家と言えるようなものはまだなく、それぞれの土地を収める自治都市があり、そこを治める領主(大公)がいるという状態でした。

先程出てきたモスクワもそのような状態です。

そしてそれら領主は、時には戦闘で奪い合い、時には政治的な駆け引きでそれぞれ覇を競い、都市とその周辺地域を治めていました。

日本で言うならば戦国時代のようなものだったのです。(ロシアの場合は中心の朝廷がありませんが)

これが原初のロシアにあたります。1156年になっても国家としてのロシアはまだまだスタートしていなかったのです。日本と比べると驚きですよね。

タタールの軛(くびき)時代とイヴァン雷帝の登場

アンリ・トロワイヤ『イヴァン雷帝』工藤庸子訳 中公文庫

1237 チンギスハンの孫バトゥ指揮下のモンゴル軍、ロシアに侵攻

1240 キエフが陥落

1243 キプチャク・ハン国成立。「タタールのくびき」の始まり。

1480 「タタールのくびき」からの離脱

1533 イヴァン4世(雷帝)即位

1547 イヴァン雷帝、「全ロシアのツァ―リ(皇帝)」として戴冠。親政開始

1552 カザン・ハン国を征服。赤の広場にヴァシーリー聖堂建立

1565 恐怖政治―オプリチニナ政策が始まる

1570 ノヴゴロド略奪、反対派の大量処刑

1584 イヴァン雷帝死去

『興亡の世界史 第14巻 ロシア・ロマノフ王朝の大地』を参考

まだまだ王朝を中心とした国家という形を成していなかったロシア。

1200年代前半のこの地方の中心は依然ウクライナのキエフでありました。

しかし1237年、そんな状況に重大な変化が訪れます。

タタール人、つまりモンゴル軍がロシアに現れます。なんとその時の指揮官はあのチンギスハンの孫、バトゥ。日本史でも有名な元軍がついにヨーロッパにまで進行しようとしていたのです。

一旦はタタール軍を追い返したかに見えたロシアでしたが、それはあくまで斥候にすぎませんでした。

1240年に再び現れたタタール軍は前回とは比べ物にならぬほどの軍勢で襲来し、あっという間にキエフは陥落。キエフ公国が滅亡します。

その後も彼らの進撃は止められずロシア全土はタタール軍に蹂躙され、壊滅状態に陥ります。

そして1243年ロシア南部はタタール人の勢力下に収まりキプチャク・ハン国が成立。

以後ロシア全土はタタール人に税金を払うことを強制されることになります。

これがタタールのくびきの始まりです。

今では信じられませんがロシアはモンゴル帝国の属国になってしまったのです。

タタール軍による破壊は凄まじく、繁栄を誇っていたキエフが再浮上することはありませんでした。

ですがその一方徐々に徐々にですが、力を蓄え始めた街ができていきます。

それがキエフのはるか北方のモスクワやノヴゴロドなどの商業都市でした。

交通の要所にありながら、タタール人の本拠地キプチャク・ハン国よりかなり北方に位置したため、その影響が比較的軽微なもので済んだのです。

1156年に生まれたモスクワは徐々に力をつけ、1300年代にはその領主はモスクワ大公と呼ばれ、ロシア筆頭の都市となっていきます。

そして1480年、ついにタタールのくびきが破られます。

モスクワ大公はロシア全土の領主を従え、弱体化しつつあったタタール人勢力を打ち倒します。

こうしてタタール人支配体制から脱却し、ロシアは独立した強国への道を歩んでいくことになるのです。

その道筋を完成させたのが1533年に即位したイヴァン雷帝です。

イヴァン雷帝

とはいえ、この時イヴァン雷帝はまだ3歳。当面は母が摂政政治で実験を握っていました。

イヴァン雷帝が本格的に政治を始めるのは1547年。

この時にモスクワ大公としてではなく、正式に「全ロシアのツァーリ」として戴冠することになります。

これまでのロシアはあくまで群雄割拠のロシア貴族による議会政治。そしてロシア内にたくさんいる領主貴族の中でも最も強いモスクワ大公がそのリーダーを務めるというシステムでした。そのためモスクワ大公はそこまで強大な権力は持ち合わせていませんでした。

しかしです。「神に選ばれた唯一絶対のツァーリ」となったイヴァン雷帝は絶大な権利を有します。

戴冠当時はまだまだ他の大貴族の力も強かったものの、イヴァン雷帝は圧倒的なカリスマと恐怖政治によって独裁政治へと突き進んでいきます。

それまで群雄割拠で足の引っ張り合いや小競り合いが続いていたロシア国内の力や富が、イヴァン雷帝というひとりのツァーリに集約されていきます。

こうして中央集権化が進み、ロシアはこれまでの田舎の弱小国からヨーロッパの強国へとのし上がっていくことになっていくのです。

年表後半の恐怖政治やノヴゴロドの虐殺はイヴァン雷帝の暴君ぶりを象徴する出来事で、ロシアの政治はこれ以後、イヴァン雷帝の絶対政治を真似たかのように同じような恐怖政治や虐殺を繰り返すことになります。

その点でもイヴァン雷帝の治世はロシア的精神を知る上で非常に重要とされています。

面白いことにちょうどイヴァン雷帝が絶大な権力を振るっていた時代は、日本ではあの織田信長が現れ日本統一を目指して快進撃を始めていた時代と重なります。

信長が現れる日本の戦国時代、遠いロシアではロシア全土を掌握しようとする怪物イヴァン雷帝が猛威を振るっていたというのはとても興味深い出来事であるように感じます。

この記事では長くなってしまうので、イヴァン雷帝については改めて別記事にて紹介していきます。

ロマノフ王朝の成立とロシアのヨーロッパ化―サンクトペテルブルクを作った男ピョートル大帝の治世

アンリ・トロワイヤ『大帝ピョートル』工藤庸子訳 中央公論社

1613 ミハイル・ロマノフをツァーリに選出。ロマノフ朝の始まり。

1694 ピョートル1世(大帝)親政開始

1700 スウェーデンとの大北方戦争の開始

1703 サンクトペテルブルクの建設開始

1712 モスクワからサンクトペテルブルクに遷都

1721 ピョートルに「皇帝」「大帝」「祖国の父」の称号が与えられ、ロシア帝国が成立。

1725 ピョートル死去。妻のエカテリーナ1世が皇帝即位

『興亡の世界史 第14巻 ロシア・ロマノフ王朝の大地』を参考

1584年、圧倒的な力を持った専制君主イヴァン雷帝が亡くなり、ロシアは再び貴族たちが覇権を争いを始め、モスクワは政治的謀略の巣窟と化します。

その混乱の中イヴァン雷帝の属していたリューリク王朝は断絶し、動乱時代を経て新たに1613年、ロマノフ王朝が成立します。

この王朝はレーニンの社会主義革命によって打倒されるまでおよそ300年間存続し、ロシアの繁栄を築きました。この王朝時代を経てロシアは独自の文化を発展させていくことになります。

とはいえ、その始まりは順風満帆なものではありませんでした。ロマノフ王朝が成立したとはいえイヴァン雷帝のような圧倒的な君主はなかなか現れず、貴族間の覇権争いは継続していました。

しかしそんなロシアについに規格外の大物が現れることになります。

その人物こそ後にサンクトペテルブルクを作ることになるピョートル大帝だったのです。

ピョートル大帝は専制君主としての基盤を確かなものにすると、古くからの伝統に凝り固まったロシアを西欧化することに全力を注ぎます。

旧態依然のあり方では西欧の国々には絶対に勝てない。進んだ技術を取り入れねばならぬという大帝の意気込みは並々ならぬものがありました。

その最大の業績がサンクトペテルブルクの造成だったのです。

サンクトペテルブルク

ロシアには当時、港がありませんでした。北方は極寒で1年の内大部分が氷に閉ざされてしまうので港の役目を果たしません。

バルト海沿岸もスウェーデンやポーランドに押さえられていたので使用不可です。

つまり、海上貿易をしたくてもまったくその手立てがない状態だったのです。

ヨーロッパの進んだ技術を取り入れたいピョートル大帝にとって、港を得ることは何よりの悲願でした。

そのピョートル大帝が1700年からのスウェーデンとの戦争でなんとか獲得したのがネヴァ川河口付近の沼沢地でした。

彼はここに要塞を築き、新しい街の建設に入ります。

しかしここはじめじめした極寒の湿地で、毎年のように洪水被害に襲われる最悪の土地でした。誰しもがここに街を作るなど狂気の沙汰だと大帝を諫めますが、彼は全く聞く耳を持ちません。

ピョートル大帝は全精力を結集し、9年をかけてサンクトペテルブルクの街を作り上げました。ですがこの最悪の土地の環境は過酷で、この街を作るために大量の農奴が動員され10万人以上の死者が出たと言われています。街の建設のためにそれだけの人が死ぬというのはあまりにスケールが違いすぎます・・・

サンクトペテルブルクを視察するピョートル大帝

そのようなピョートルの圧倒的な指揮権の下、1712年モスクワからサンクトペテルブルクの遷都が行われ、ロシアの西欧化が決定的に進んでいくことになるのです。

ロシアの西欧化に踏み切ったピョートル大帝についても別の記事で改めて紹介していきます。

有名なエルミタージュ美術館や「青銅の騎士像」を作った女帝エカテリーナ2世の治世

1725 ピョートル死去。妻のエカテリーナ1世が皇帝即位

1727 ピョートル2世が即位

1730 アンナ・イワノーヴナ即位

1741 エリザヴェータ・ペトローヴナ即位

1761 ピョートル3世即位

1762 クーデターによりエカテリーナ2世即位

1772 第1次ポーランド分割(第2次は1793、第3次は1795年)

1774 オスマン帝国と条約を結び黒海へ進出

1775~1783 アメリカ独立戦争

1782 青銅の騎士像の除幕

1789 フランス革命

1796 エカテリーナ2世死去 息子のパーヴェル即位

『興亡の世界史 第14巻 ロシア・ロマノフ王朝の大地』を参考

圧倒的な指導力を持つピョートル大帝の後、またもやロシアは政治の混乱に陥ります。1762年にエカテリーナ2世が即位するまで皇帝が次々と変わっていくのはまさにその辺りの事情を克明に見せてくれます。

ピョートル大帝はあまりに偉大でした。残虐をはたらく暴君でもありましたが急速にロシアの西欧化を成功させた偉業はロシアそのものを根底から揺さぶりました。

その結果ピョートルの改革を進めたい改革派と、旧き良きロシアをなんとか守りたい保守派との対立も生まれてきます。

この記事では細かいところまで解説できませんが、それぞれの皇帝の思惑やその背後にいる大貴族たちの熾烈な争いがそこにはあったのです。まさにどこに裏切り者がいるかわからない、血で血を洗う骨肉の争いです。

そんな中現れたのがエカテリーナ2世という女帝だったのです。

彼女の業績はピョートル大帝の西欧化を引き継ぎ、強烈にそれを押し進め、国力を増強した点にあります。

彼女は混乱していたロシアを巧みな政治手腕でまとめ上げ、着々とロシアの領土を拡大していきます。

歴史的には悪名高いポーランド分割もこの時代に行われます。

かつてロシアを脅かし続けていた大国ポーランドを解体し、自分たちの領土に組み込むほどエカテリーナ2世のロシアは強くなっていたのです。

また黒海を獲得したことでサンクトペテルブルクに続き、ヨーロッパとの連携がさらに緊密になりました。

こうした国力の増強を世界中に知らしめるために、エカテリーナ2世は芸術の力を利用します。

ただ武力でもって国土を拡大しても、西欧の一流国家としては認められません。

野蛮な未開の国ロシアからの脱却は、ヨーロッパの文化と芸術を完全に吸収しているところを見せないと成立しないのです。

これは日本の文明開化の時もそうでした。西欧諸国に対して「私たちはあなた方の文化を受け入れ、こんなにもあなた方の文化を理解していますよ」というサインを送らなければならないのです。

そうでなければ文明も解さない野蛮人と見下されて、まともな外交関係など望むことができなかったのです。

そのためにも彼女は莫大な国家予算を投じて、ヨーロッパの超一流の芸術品を大量に買い占めます。

その膨大なコレクションが今や世界三大美術館として名高いエルミタージュ美術館の柱となっているのです。

エルミタージュ美術館

また、1782年に除幕された「青銅の騎士像」の制作もエカテリーナ2世肝いりの大事業でした。

この像はロシアの西欧化を成し遂げたピョートル大帝をモデルにしていて、この像を作ることで自らがピョートル大帝の志を引き継ぐ最も正当な人間だと国内外にアピールする狙いがありました。

この像はロシアを代表する傑作として、今も多くの人を惹き付けてやみません。

また、エカテリーナ2世は恋多き女帝としても有名で多くの映画やドラマでも題材になっています。

彼女の人生は非常にドラマチックで波乱万丈です。

ロシアの西欧化を徹底的に進め、その国力を増したエカテリーナ2世。ピョートル大帝に並ぶロシアの偉大なツァーリとして評価されています。

「ナポレオンを敗走させた男」アレクサンドル1世時代

アンリ・トロワイヤ『アレクサンドル一世』工藤庸子訳 中公文庫

1796 エカテリーナ2世死去 息子のパーウェル即位

1801 クーデターによりパーウェル殺害 アレクサンドル1世即位

1807 フランスと「テルジットの和約」

1812 ナポレオンのロシア遠征 モスクワ大火

1814 アレクサンドルのロシア軍、パリ入城

1821 ドストエフスキー誕生

1825 アレクサンドル1世死去 ニコライ1世即位

『興亡の世界史 第14巻 ロシア・ロマノフ王朝の大地』を参考

エカテリーナ2世死去の後、その跡を継いだのは息子のパーウェルでした。

パーウェル

しかしこのパーウェルは大のロシア嫌いで、ガチガチのプロイセン(北ドイツ)寄りです。そのためエカテリーナの改革と真逆の政策ばかりを繰り返し、いよいよ国は大混乱に陥ります。

そこでやむなく息子のアレクサンドル1世をクーデターの末にツァーリにしようという動きが出てきます。

アレクサンドル1世は自らは手を下しませんでしたがパーヴェル暗殺を黙認します。

こうしてアレクサンドル1世は激動の19世紀の始まりと共にツァーリとして君臨することになったのでした。

彼の最大の業績は何と言ってもあのナポレオンを撃退したという点にあります。

ナポレオンがフランス皇帝となった1804年以降も、ナポレオンは破竹の連勝を重ね、その勢いを止めることは誰にもできませんでした。

ロシアも何度も何度もナポレオンに痛い目に遭っています。

そして1812年、ナポレオンはイギリスとの通商禁止条約を破ったロシアに対していよいよ全面戦争を開始します。

これが世に言うナポレオンのモスクワ遠征です。この遠征軍は総勢65万人という類を見ない超巨大な戦力でモスクワを目指していきました。

さすがにこれはロシアに勝ち目はないだろうと思われますが、ナポレオンはロシアの自然とロシア人の底力というものを甘く見ていました。

結果的にナポレオンは完膚なきまでの敗戦。生き延びた兵士は3万以下だったと言われています。

ナポレオンをロシアのど真ん中に孤立させるために首都モスクワを自ら焼き払うという狂気としか思えない作戦を実行したのもこの時です。

日本で言うなら当時の都、京都を自ら焼き払うようなものです。国宝級の文化財や寺院、皇族や貴族の邸宅だけでなく住民の生活基盤も全て焼き尽くすのです。

もちろん、事前に住民は退避させていますがこれは並大抵のことではありません。

ですがこのモスクワ大火によってナポレオン軍に決定的な打撃を与えることになりました。この作戦はナポレオンに極めて甚大な被害を与えたのです。

このモスクワ遠征でのロシアの勝利はロシア国民にとって忘れられない出来事になっています。「あのナポレオンを打ち破った」という誇りです。これはロシア史上における最も輝かしい瞬間だったかもしれません。

このモスクワ遠征においては以前私が紹介した以下の記事にて詳しくお話ししていますのでぜひご覧になってください。ナポレオンのモスクワ遠征は意外な出来事が満載でものすごく面白い歴史です。あの「冬将軍」という言葉もここから来ています。

専制君主ニコライ1世の恐怖政治時代とクリミア戦争

1825 ニコライ1世即位 デカブリストの乱

1828 レフ・トルストイ誕生

1830 プーシキンの代表作『オネーギン』完成

1840 アヘン戦争

1842 ゴーゴリの代表作『死せる魂』発表

1846 ドストエフスキーのデビュー作『貧しき人びと』発表

1848 フランスで二月革命勃発

1849 ペトラシェフスキー事件 ドストエフスキーシベリア流刑

1853 クリミア戦争始まる トルストイも志願兵として従軍

1853 ペリー、浦賀に来航

1855 ニコライ1世死去 アレクサンドル2世即位

『興亡の世界史 第14巻 ロシア・ロマノフ王朝の大地』を参考

1825年に即位したニコライ1世はアレクサンドル帝の弟にあたります。

ニコライ1世は恐怖政治を行った皇帝として恐れられた存在です。

「自由・平等・友愛」を語るフランス革命後の思想や社会主義思想など、外国からの思想を彼は嫌いました。

そのため彼は国内に厳しい検閲体制を敷き、秘密警察による摘発を行いました。

ですが、この時代こそロシア文学が花開く前段階を作ります。

プーシキンゴーゴリがこの時代に傑作を生みだし、後のロシア文学者の憧れとなります。ドストエフスキーもまさしくその一人です。彼らを崇拝した若い文学者が19世紀中頃から世界に誇る名作を次々と生み出していくのです。

そしてニコライ一世の治世で重要なのは1849年のペトラシェフスキー事件です。

禁止されていた社会主義サークルの摘発でドストエフスキーがシベリア流罪になってしまったのです。

これは前年のフランス二月革命の影響が強く働いていました。ニコライ一世はロシアでも同じような革命が起こることを恐れたのです。

二月革命とドストエフスキーについては、以前紹介した次の記事で紹介していますのでそちらもご覧ください。


そしてニコライ帝の最後はクリミア戦争です。トルコの支配を狙っての戦争でしたがイギリスフランスの強力な援軍にロシアは大敗を帰することになります。

この戦争にはあの文豪トルストイも従軍し、この時の悲惨な体験で彼は戦争反対の立場を明確にしたと言われています。

またクリミア戦争が始まった1853年は日本にペリーが来航した年になります。

その13年前の1840年にはアヘン戦争も起こり、ヨーロッパ列強がいよいよ極東まで本格参入してきたのがこの時代です。

ヨーロッパではクリミア戦争が起こり、日本にもアメリカが来航、そして和親条約を結んだ後には続々と西欧列強が日本にも入ってきます。

こうした世界規模の軍事的な地殻変動がまさにこの時代に始まってくるのです。ドストエフスキーが若い時期を過ごしたのもこうした日本の幕末と同時代だったというのも非常に興味深いです。

農奴解放を実現 解放皇帝アレクサンドル2世の治世

1855 ニコライ1世死去 アレクサンドル2世即位

1859 ドストエフスキー サンクトペテルブルクへ帰還

1861 農奴解放令

1861~1865 リンカーン大統領就任、アメリカ南北戦争

1865 カラコーゾフ事件

1865 トルストイ『戦争と平和』発表

1866 ドストエフスキー『罪と罰』発表

1867 アラスカをアメリカに売却

1881 ドストエフスキー死去

1881 アレクサンドル2世暗殺。アレクサンドル3世即位。

『興亡の世界史 第14巻 ロシア・ロマノフ王朝の大地』を参考

恐怖政治を行っていたニコライ帝の跡を継いだのはアレクサンドル2世。彼は解放皇帝と呼ばれていて、ニコライ帝のような厳しい弾圧は行いませんでした。

ドストエフスキーが1859年にシベリアから帰還できたのもアレクサンドル2世の治世になったからというのも大きな要因です。

そしてアレクサンドル2世の最も大きな業績は1861年の農奴解放令の宣言です。

これにより西欧列強からも批判され続けていた農奴制という社会システムを撤廃することになりました。

農奴制についてお話しすると長くなってしまいますのでここではお話しできませんが、ロシア社会において農奴制のシステムを変えるというのはアンタッチャブルな議題でした。そんな難題を実行に移したのは彼の業績であると評価されています。

とはいえ、完全な形での解放ではなく、まだまだ問題は山積みで多くの農民から逆に不満を買うことになったという事実も見逃せません。

ついに農奴解放令が出たと歓喜した人々が、いざふたを開けてみればこれまでとたいして変わっていない現実に怒りを爆発させたとしても無理はありません。期待させといて拍子抜けさせられることほど怒りを煽るものはありません。

そういった意味でもアレクサンドル2世は難しい立場に立たされることになるのです。

そんな不穏な状況が先鋭化したのが1865年のカラコーゾフ事件です。

これはカラコーゾフという青年がアレクサンドル2世を暗殺しようとした事件で、ロシア中に衝撃が走りました。

それまでも皇帝の暗殺やクーデターは歴史上いくつもありました。しかしそれは宮中や政治の中の出来事でした。

そのため一般市民がロシア国民の父でもあるツァーリを暗殺しようとしたのはあまりに衝撃的なことだったのです。ドストエフスキーもこの事件には非常にショックを受けたとされています。

このカラコーゾフ事件より後、ロシアはテロの恐怖に恐れおののく不穏な時代となっていくのです。

そんな時代背景の下、1865年にはトルストイ最大の傑作『戦争と平和』が、1866年にはドストエフスキーの名を永遠にした名作『罪と罰』が発表されます。

ロシアの二大文豪が世界に羽ばたく瞬間でした。

おわりに

1881年1月末にドストエフスキーは60年の生涯を終え、その後まもなくアレクサンドル2世も暗殺され、ひとつの時代が終わりを迎えます。

その彼の暗殺現場に建てられたのが今やサンクトペテルブルクの顔となっている血の上の救世主教会です。

血の上の救世主教会

そしてその後即位したアレクサンドル3世を経て最後の皇帝ニコライ2世が1894年に即位。

1904年の日露戦争も経て1917年、レーニンの社会主義革命によってロシアロマノフ王朝は終焉を迎えます。

この時の社会主義政権はニコライ2世一家を皆殺しにするという念の入れようで、こうしてロシア帝政の歴史は幕を閉じるのでありました。

これ以降の歴史はドストエフスキーの範疇を越えてしまうので紹介できませんが、ソ連、そして現在のロシアの歴史も古くから連綿と続いてきた歴史の上に成り立っています。

ロシアの過去を学ぶことは「謎の国」ロシアを理解する上で非常に重要な手がかりとなります。

ここまでかなりざっくりとではありますがロシアの歴史を紹介してきました。

1000年以上の歴史をブログの記事ひとつで紹介するのはかなり無謀なことではあります。

たしかに、もし日本の歴史を年表で一からひとつのページで紹介すると考えるとめまいがしてきそうです。

ですので今回私がお話ししてきたことはかなりざっくりとした解説であり、厳密に話せば定義が難しい表現もあるかもしれません。

ですがそれでも、大まかにでも歴史の流れを掴むことはその国の国民性やドストエフスキーをはじめとした文学者の作品を読んでいく上で非常に役に立つということは否定できないことだと思います。

また、近いけれども謎に包まれた隣人ロシアを学ぶことは日常生活においても非常に意味のあることではないかとつくづく感じました。

皆様のお役に少しでも立てたならば嬉しく思います。

最後に今回記事を書いていくにあたって参考にした本を紹介します。

まず、土肥恒之氏の『興亡の世界史 第14巻 ロシア・ロマノフ王朝の大地』講談社。

こちらがこの記事の基礎文献になります。

そして参考として、

中野京子『名画で読み解く ロマノフ家12の物語』光文社新書
土肥恒之『図説 帝政ロシア 光と闇の200年』河出書房新社

を用いています。

また、次の記事で紹介しますが、モスクワのクレムリン(城塞)にスポットを当ててロシアの歴史に迫るキャサリン・メリデール『クレムリン』も重要な視点を与えてくれました。

そして記事中にもお話ししましたが、雷帝イヴァンやピョートル大帝などの伝記もこの後の記事で紹介していきます。以下に書名を記します。

アンリ・トロワイヤ『イヴァン雷帝』工藤庸子訳 中公文庫
R・G・スクルィンニコフ『イヴァン雷帝』栗生沢猛夫訳 成文社
川又一栄『イヴァン雷帝―ロシアという謎―』新潮選書
アンリ・トロワイヤ『大帝ピョートル』工藤庸子訳 中央公論社
アンリ・トロワイヤ『女帝エカテリーナ』工藤庸子訳 中央公論社
ロバート・K・マッシー『エカチェリーナ大帝 ある女の肖像』 北代美和子訳 白水社
アンリ・トロワイヤ『アレクサンドル一世』工藤庸子訳 中公文庫

最後に、意外とおすすめなのが『地球の歩き方』です。

きれいな写真が豊富で、観光スポットでもある王宮や教会などの解説もわかりやすく書いてあるのでとてもイメージしやすいです。旅をせずとも現地の様子を知れるのはありがたいです。

これまでお話ししてきた歴史に登場する場所や建物がどのように残っているのかが一目瞭然で、とても現地に行きたくなります。

見る資料集としてもとてもいい相棒になってくれるのではないかと私は思います。

※2022年3月1日追加
この記事を書いた段階では参考にはしていませんが、2021年に発売された以下の書籍もロシアの歴史を知る上で非常におすすめな作品です。

ドストエフスキーをより知るために学んだロシアの歴史は想像をはるかに超えて興味深いものでした。

特にイヴァン雷帝の存在が私の中で大きなものとなりました。

どの参考書にも「ロシア的な人物」として解説されています。この人物をより深く知ることでロシア的な精神に少しでも触れることができるのではないかと感じています。

冒頭にもお話ししましたが、ドストエフスキー作品に登場するキャラクターは一筋縄ではいかない曲者ぞろいです。極端から極端へと渡り歩く不合理な人間ドラマが繰り広げられます。

ドストエフスキーがわざわざそんなキャラクター達を好んで描いていたのは、それこそ彼が描きたかった「ロシア的な精神」だったからなのかもしれません。

ロシアの歴史を学んだ後はいよいよロシア文学に突入します。

ロシア文学を切り開いた国民詩人プーシキン、ロシアリアリズムの巨人ゴーゴリ。

ドストエフスキーの永遠のライバル、ツルゲーネフ。

そしてもう一人の偉大な文豪トルストイ。

読んでいく私自身も非常に楽しみであります。

以上、「謎の国ロシアの歴史を年表を用いてざっくり解説!」でした。

次の記事はこちら

※2022年2月24日追加 ソ連史、独ソ戦、冷戦について

この記事を書いた2020年9月段階では、ソ連史や第二次世界大戦後の歴史を学ぶことになるとは全く想像もしていませんでしたが、その後私はソ連の歴史も学んでいくことになりました。

そして緊迫したウクライナ情勢を見ていると以前アップしたこの記事の内容が頭をよぎります。

この記事では1930年代にスターリン体制下のソ連によって実際に行われたウクライナへの飢餓政策(ホロドモール)についてお話ししています。この時ソ連は意図的にウクライナ人を餓死させ、少なくとも400万人以上の方が亡くなったと言われています。(研究によってはさらに多い数もありますが、正確なところはわかりません)

ソ連ウクライナ問題の根深さには私も絶句するばかりでした・・・

他にもソ連の歴史に関する記事を当ブログでは更新し続けてきました。

これらはソ連の歴史ではあるものの、ソ連だけの問題ではなく「人間そのものの問題」だと思います。悲惨な歴史をくり返さないためにも私たちは歴史を学ばねばならないのではないかと心から感じています。

ただ、今回の出来事がソ連時代の繰り返しであるのか全く別のメカニズムなのかは専門家ではない私にはわかりません。ソ連はかつてこういうことをしたから今回も同じだと簡単に言い切ってしまうのはそれはそれで問題を見誤ることになります。得られる情報が限られている以上、即断を避け慎重に考えていく必要があります。こうしたことを考えていく上で、以下の本は非常に参考になるのでぜひおすすめしたいです。

また、以下はソ連に関する記事の一部です。

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