榎本武揚『シベリア日記』~幕末の函館ゆかりの偉人がロシア・シベリア横断をしていた!

ロシアの歴史・文化とドストエフスキー

榎本武揚『シベリア日記』概要と感想~函館ゆかりの偉人がロシア・シベリア横断をしていた!

私が読んだ榎本武揚著、諏訪部揚子・中村喜和編注『シベリア日記』は2010年に平凡社より出版されました。

早速この本について見ていきましょう。

幕末、五稜郭の戦いで敗れた榎本武揚は、のち明治政府に登用され、全権公使としてロシアへ。

任を終え帰国する彼は、シベリア回りを選択、日露両国の将来を展望し、この北の大地の風景、物産、産業、民俗、交通その他、万般を観察し、じつに興味深い日記を残した。

本書は、人名・地名をはじめ懇切な注を加え、現代語訳で、この稀代の人物の旅に同行する。

Amazon商品紹介ページより
榎本武揚(1836-1908)Wikipediaより

榎本武揚といえば函館市民にはとても馴染み深い存在です。五稜郭は今も函館の象徴ですし、そこで戦った幕末の志士を慕い、今でも多くの人がここを訪れています。

そんな志士の中でもこの榎本武揚がなんと、五稜郭の戦いの後に明治政府の外交官として活躍し、さらにロシアからシベリアを横断して帰って来たというのは函館市民の私としても驚きの発見でした。

この本のまえがきに彼がシベリア横断に至る経緯が簡潔にまとめられていましたのでそちらを引用します。

慶応四年(明治元年)から翌年にかけて、戊辰戦争が行なわれた。朝廷をいただく薩摩・長州主体の新政府軍と旧幕府軍のあいだの戦争である。その最後の戦闘の舞台となったのが箱館(まもなく函館と改名される)だった。旧幕府軍を指揮した榎本武揚は箱館の五稜郭での戦いの終結とともに歴史から姿を消したと思っている人が少なくない。

榎本はそのとき三四歳である。まだその生涯の中間点にさえ達していなかった。榎本をはじめ投降した旧幕府軍の幹部たちは箱館から東京に送られ、明治五年の正月まで二年半ほどを辰の口(現在の大手町)の牢獄で過ごした。反乱軍の首領たちはただちに処刑すべきであるという意見もつよかったが、箱館で榎本らと戦った薩摩出身の黒田清隆の懸命な助命運動が通ったのである。西郷隆盛らも黒田の主張を支持したといわれる。

放免された榎本はその年の春から翌年の明治六年にかけて、仲間たちとともに北海道の開発事業に従事した。黒田清隆がそのころ開拓使(北海道開発のための役所)の責任者だったからである。もともと榎本にとって北の大地は格別に縁のふかいところであった。

平凡社、榎本武揚著、諏訪部揚子・中村喜和編注『シベリア日記』P7-8

ここに述べられているように私も榎本武揚が戊辰戦争後も活躍していたことを知りませんでした。あの黒田清隆や西郷隆盛の助力で彼が生き延び後年活躍したというのは驚きでした。

明治七年、榎本にふたたび転機が訪れた。ロシア公使に任命されたのである。このポストには公卿の沢宣嘉が予定されていたが、急死したので榎本にお鉢がまわってきた。

平凡社、榎本武揚著、諏訪部揚子・中村喜和編注『シベリア日記』P8

ロシア公使に任命された榎本武揚。

彼の主要な任務はロシアとの条約交渉でした。この時交渉されるべき重要な問題は北方領土・サハリンの領土問題と、当時日露を騒がせていたマリア・ルス号事件の解決でした。彼はこの難題を解決するためにロシアに派遣されることになりました。

榎本がロシアに派遺されるのは明治七年のことである。特別全権公使にふさわしい官等として、彼は海軍中将の位をさずけられた。まだ東京には提督にふさわしい軍服を仕立てる職人がいなかったので、パリで海軍中将にふさわしい礼服をあつらえて、ロシア帝国の首都サンクト・ぺテルブルグに到着した。

ロシアでは、旧幕府海軍の副総裁で反乱軍の首領が派遣されてきたというので珍しがられ、大いに歓迎された。それでも、外交交渉にはつきものの駆け引きやこまごました折衝があったのは当然であるが、結局のところ、明治八年には樺太・千島交換条約が締結され、やがてマリア・ルス号事件も日本側が正しいという裁定が下された。

榎本は人柄と学識の点で、外交官の資質に恵まれていたらしい。青年時代オランダに長く留学して西洋人の慣習に通じていたことも、役に立ったことだろう。

平凡社、榎本武揚著、諏訪部揚子・中村喜和編注『シベリア日記』P9

歴史の授業でも習った樺太・千島交換条約は榎本武揚が交渉し締結したのですね!

そして彼が青年時代にオランダに留学していたというのも驚きでした。

榎本のぺテルブルグ駐在は丸四年におよんだ。(中略)

露土戦争がロシア側の勝利に終わり、いよいよ帰国となって榎本が選んだのがシべリア横断の旅だった。船旅に比べてはるかに苦労の多い陸路のコースである。

その理由として、彼は妻の多津に宛てた手紙の中で、「日本人はむやみにロシアを恐れ、今にも北海道へ襲ってくるような心配をしている」から、その心配をはらすためであると説明している。

たしかに榎本は機会あるごとに軍需工場を視察したり、シべリアの各都市の軍隊の配備などを日記に記載したりしている。しかし彼の観察したのはそれだけではない。

北海道をはじめ日本全体の産業の発展に役立つこと、両国の交易の増進に資するものに目を配ることを忘れなかった。シべリアの各地の地質や農業を事こまかに記録し、ロシア人以外の諸民族の風俗や生活にも民族学者のような興味を示している。

このように広い視野をもった人物だったから、帰国以後二〇年にわたって藩閥体制のさ中にあって政府の中のさまざまな重責をにない、近代日本の発展の礎を築くことができたのである。

ロシア帝国の西の端のぺテルブルグから東の端のウラジヴォストークまで、距離は一万キロあまり、日数にして六六日。夜をどこで過ごしたか数えてみると、鉄道車輛二夜、ホテルや駅逓や個人の邸宅一九夜、汽船二〇夜、馬車二四夜である。つまり昼夜兼行で疾走する馬車で過ごすことが最も多かった。

日記は日毎の記録であるから、馬車でゆられながら書いたことも多かったはずである。その精神力には驚嘆せざるをえない。

平凡社、榎本武揚著、諏訪部揚子・中村喜和編注『シベリア日記』P9-10

榎本武揚は日本が今後世界に呑み込まれないよう見聞を広めるためあえて厳しいシベリアルートを選びました。普通なら船でヨーロッパへ帰るところを巨大な隣国ロシアをもっと知るために彼は過酷なシベリア横断を選んだのでした。並大抵の精神力でありません。

さて、この『シベリア日記』を読んでみますと、驚くほど素朴でまさしく日記というスタイルで進んで行きます。その日に何を見てどう思ったのかが率直に語られていきます。

言葉も現代語訳されていますので頗る読みやすいです。

そしてところどころに現れる彼のユーモアに思わずくすっとさせられてしまいます。特に印象的なのは夜寝る時に現れる南京虫との格闘です。南京虫はシベリア横断中の最も手ごわい敵だったようで何度も日記に登場します。

若い頃にオランダ留学を経験し、そこから戊辰戦争の戦いを経て再び外交官としてヨーロッパへ旅立った榎本武揚。

そんな彼が初めて目にするシベリアの風景や産業、人々の生活をこの本では知ることができます。

彼がペテルブルクを出発したのが1878年。この年はドストエフスキー最晩年で『カラマーゾフの兄弟』を執筆し始めた年になります。まさにドストエフスキーがいたロシアに彼はいたのです。

彼の『シベリア日記』はそんなドストエフスキーと同時代の人々の生活を知る格好の資料にもなります。そうした意味でもこの本はものすごく興味深く読むことができました。

現代語訳も素晴らしく、とにかくスラスラ読めます。

函館ゆかりの偉人である榎本武揚のことを知れてとてもありがたい機会となりました。この本と出会えてよかったです。

以上、「榎本武揚『シベリア日記』函館ゆかりの偉人がロシア・シベリア横断をしていた!」でした。

次の記事はこちら

関連記事

HOME