ウクライナの大飢饉とソ連の隠ぺい工作ー偽装された村とプロパガンダ『ブラッドランド ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実』を読む⑶

スターリンとヒトラーの虐殺・ホロコースト

ウクライナの大飢饉とソ連の隠ぺい工作ー偽装された村とプロパガンダ『ブラッドランド ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実』を読む⑶

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今回も引き続きティモシー・スナイダー著『ブラッドランド ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実』を読んでいきます。

この本を読めばスターリンとナチスの大量殺害がどのような世界情勢の中で行われたのかが明らかになります。

では早速始めていきましょう。

ウクライナの持つ意味

ヒトラーとスターリンは、ベルリンとモスクワでそれぞれ権力の座についたが、彼らの改革構想の重点は、何よりもまず、両国にはさまれた地域に置かれていた。どちらもウクライナを支配下に置こうともくろんでいたのだ。

ヒトラーは、短期に終わった一九一八年の東方入植地のことを思い出していた。そのときはウクライナのパン籠に手が届いたのだった。

それからまもなく、スターリンがこの土地を同じように見なしてウクライナに革命を広げ、近代的な工業国家建設のため、この地域の農地と農民を利用することにした。ヒトラーは集団化政策を致命的な失策と考え、それこそがソ連共産主義が破綻している証拠だと断じた。ドイツなら、ウクライナを乳と蜜の流れる地に変えられると堅く信じていた。

ヒトラーにとってもスターリンにとっても、ウクライナは食糧生産地以上の意味を持っていた。伝続的な経済原則を打ち壊し、自分の国を貧困と孤立から救い、ヨーロッパ大陸を思いどおりのイメージにつくり変えることのできる場所だったのだ。

ふたりの政策と権力は、ウクライナの肥沃な土壌と数百万人の農業労働者を支配できるか否かにかかっていた。一九三三年には、世界史上最大の人為的な飢饉によって、何百万人ものウクライナ人が死亡することとなった。それはウクライナの特異な歴史のはじまりであり、終わりではなかった。

一九四一年、ヒトラーは自分の植民地構想実現のため、スターリンからウクライナを奪い取ると、まず手はじめにユダヤ人を銃殺し、ソヴィエト人捕虜を餓死させた。スターリニストは自国内に植民地をつくり、ナチスはソヴィエト・ウクライナを占領して植民地とした。こうしてウクライナの住民は延々と苦しみ続けた。

スターリンとヒトラーの両方が政権を握っていた時代には、流血地帯の、そしてヨーロッパの、いや、全世界のどこよりも多くの人々がウクライナで殺されたのだった。
※適宜改行しました

筑摩書房、ティモシー・スナイダー著、布施由紀子訳『ブラッドランド ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実』P54-55

ウクライナはドイツとソ連に挟まれた肥沃な土地でした。

以前も紹介しましたブラッドランド(流血地帯)の地図を見て頂けるとよりイメージが付きやすいと思います。

ナチスとソ連にとってウクライナは武力的な緩衝地帯という重要性もありますが、やはり食料の生産という面でも非常に重要な場所だったのです。それ故ナチスとソ連という大国から植民地として狙われてしまうことになってしまったのです。

スターリンによるウクライナの大飢饉

ウクライナの各都市の飢餓は、西洋諸国のどの都市よりもはるかに深刻だった。現に一九三三年のウクライナでは、数万人の都市住民が餓死している。しかしソヴィエト・ウクライナ全体で見れば、死者や餓死寸前の人々の大半は、働いてありったけのパンを都市に供給していた当の農民たちだったのだ。

ウクライナの都市部はどうにか生きていたが、農村部は死に瀕していた。農民たちは畑を捨てて食べ物をさがしにいくという、常識では考えられない行動をとり、都市住民も彼らの貧窮ぶりに気づかざるをえなかった。(中略)

一九三二年に完了したスターリンの五カ年計画は、国民の苦悩と引き換えに工業の発達を実現した。鉄道のわきで死んでいった農民たちは、このような明暗を如実に示す恐るべき証人だった。(中略)

ソヴィエト人作家のワシーリー・グロスマンは、生まれ故郷のべルディチウに家族を訪ねて戻る途上、列車のコンパートメントの窓にひとりの女性が寄ってきて、パンを恵んでもらおうとしたときのことを記録している。政治的理由からさまざまな国を転々としたアーサー・ケストラーも、ソ連の社会主義建設を支援しにきていたころ〔当時はドイツ共産党員だった〕似たような体験をしている。

彼が後年回想したところによると、ハルキウ駅の外で、農民の女性たちが「車両の窓に向かって、恐ろしい姿をした赤ん坊を掲げてみせた。どの子も、ぐらぐら揺れる大きな頭と、棒切れのような四肢を持ち、腹が膨れてとがっていた」。まるで「ホルマリン容器から取り出した胎児」のようだったという。今日、二十世紀のモラルの証人と言われるこのふたりの男性が、みずからの体験談を書いたのはそれから何年も先のことだった。

都市の住民は、農民が市場で収穫物を並べて売る姿を見慣れていた。しかし一九三三年には、彼らが作物を売るためではなく、物乞いをするためになじみの都市の市場へやってくるようになった。

市の立つ広場にはもはや商品も客の姿もなく、死の奏でる不協和音のみが響いていた。早朝には、元は衣服であったぼろをまとってうずくまる瀕死の人のかすかな息遣いしか聞こえなかった。

ある春の朝、ハルキウの市場に横たわったおびただしい数の農民たちの死体のあいだで、赤ん坊が母親の乳房を吸っていた。母親の顔はすでに生気が失せて鉛色になっていた。通りかかる人々は、そのようなものを以前にも見かけていた。折り重なった死体だけではない。息絶えた母親と生きている赤ん坊だけでもない。まさにその光景を。小さなロと、最後の乳のしずくと、冷たくなった乳首を。ウクライナの人々はそれを表現する言葉を考え出していた。彼らは通りすぎながら、静かにつぶやいた。「これが社会主義の春の芽生えだ」と。
※適宜改行しました

筑摩書房、ティモシー・スナイダー著、布施由紀子訳『ブラッドランド ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実』P59ー62

ウクライナの大飢饉は自然災害によるものではなく、スターリンの政策によるものでした。

スターリンは5か年計画を掲げ、ソ連の重工業化に舵を切りました。ソ連はその資金の確保のため無理なノルマを農民に課し、彼らが生きていくために必要な分まで全て輸出してしまったのです。ノルマは到底達成できるものではなく、翌年の植え付けに必要な種まで徴収されてしまうほどでした。そのため当年の食糧だけではなく、翌年の収穫も見込めない状況になってしまったのでした。

この本ではこの悲惨な大飢饉の地獄のような状況がかなり詳細に語られます。1930年代のウクライナで何が起きていたのか、ソ連は一体何をしようとしていたのかを一章丸々使って私たちは追っていくことになります。正直、50頁以上あるこの記述を全てご紹介したいくらいです。私はこの箇所を息を呑みながら読みました。あまりの悲惨さに絶句してしまいました。

スターリンによる飢餓政策については以前の記事でも紹介していますのでぜひそちらもご参照頂ければと思います。

飢饉の隠蔽と世界のジャーナリストの動き

大量飢餓や大量死にまつわる最低限の情報は、ヨーロッパやアメリカの新聞でも時折報じられたが、疑いの余地のない現実を伝えていることをうかがわせる明快な論調には欠けていた。

スターリンがウクライナ人を意図的に餓死させようとしたと言う者はほとんどおらず、アドルフ・ヒトラーでさえマルクス主義体制を非難するにとどめた。ただ飢餓が起きていると言及するだけでも物議をかもす恐れがあったのだ。

しかしガレス・ジョーンズはいくつかの新聞記事でこれを取りあげた。署名を入れて英語で伝えたのは彼ひとりだったようだ。ウィーンのテオドール・イニツァ枢機卿は、一九三三年の夏から秋にかけて、飢えた人々への食糧援助を訴えようとしたが、ソ連の当局は彼の支援を冷然と拒否し、わが国に人食いはいないと言い放った。だがそれは嘘だったのだ。

ジャーナリストは外交官ほどには情報を持っていなかったが、数百万人の餓死者が出ていることはほとんどが察していた。ニューヨークタイムズ紙のモスクワ特派員であったウォルター・デュランテイは、ジョーンズの正確な報道の信憑性を損なおうとした。

一九三二年にピュリツァー賞を受賞したデュランティは、ジョーンズの報告を「いたずらに恐怖心をあおろうとしてでっちあげた話だ」とこきおろし、「現実には飢饉などはなく」、ただ「栄養不良のために病気にかかって死ぬ人が増えている」だけだと断言した。だがこれはソ連当局の主張をなぞり、婉曲表現から嘘を紡ぎ出したにすぎない。

オーウェル風の区別でしかないのだが、当のジョージ・オーウェルは、一九三三年のウクライナ飢饉を、ロのうまい者が黒い真実を明るい色に染めた典型例と見なしていた。

デュランティは何百万人もの人々が餓死したことを知りながら、ジャーナリストとしては、飢饉が高次元の目標に貢献したという立場を貫こうとした。彼は「卵を割らずにオムレツを作ることはできない」と考えていた。ジョーンズのほかに英語で真摯な報告をしたのは、マルコム・マガリッジただひとりだった。彼はマンチェスター・ガーディアン紙に匿名で寄稿し、この飢饉は「史上最悪の犯罪だ。あまりの残忍さに、後世の人々は現実に起きたこととは思えないにちがいない」と書いた。(中略)

だがどんな行動も状況を変えられはしなかった。国際市場ではすでにソヴィエト・ウクライナから取りあげた穀物を他国の食糧にすることが決まっていたのだ。

ルーズヴェルトは大恐慌のさなかにある自国の労働者対策を最優先事項とし、ソ連との外交関係樹立をめざしていた。ウクライナ人活動家たちの電報が大統領のもとに届いた一九三三年秋には、折しも彼の主導で進められていた米ソ間の調整が実を結ぼうとしていたところだった。一九三三年十一月、アメリカはソ連を正式に承認した。
※適宜改行しました

筑摩書房、ティモシー・スナイダー著、布施由紀子訳『ブラッドランド ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実』P108-110

ジャーナリストたちはウクライナの飢饉の情報を掴んでいました。

しかし自由に調査をすることもできないソ連圏の実態は明確には把握できませんでした。

それでもジャーナリズム精神から報道を試みるも、国際情勢はそれに耳を傾けることはありませんでした。

「今ソ連と関係を悪化させるのは不都合だ」と各国は考えたのです。

ソ連の隠ぺい工作。偽装された村とプロパガンダ

その夏、ポーランド在住のウクライナ人が起こした運動は、結果的に、ソ連側の巧妙なプロパガンダによる反撃を招いただけに終わった。一九三三年八月二十七日、フランスの政治家エドゥアール・エリオが公式の招待を受けてキエフを訪れた。彼は急進社会党の党首として、フランスの首相を三度務めた。最後に政権を担当したのは一九三二年だった〔六月から十二月〕。

食欲旺盛なことで知られ、よく太っていた彼は、自分の体形を、双子を妊娠している女性になぞらえていた。ソ連側の歓迎晩餐会では、エリオの席はドイツ、ポーランドの外交官から離れたところに用意された。彼らが飢饉について不適切な発言をして座がしらけないようにするためだった。

エリオが訪問する前の日、キエフの街は閉鎖され、住民は掃除をして家を飾り立てるように命じられた。食料品店では突如、年がら年中空っぽのショーウィンドウが食品でいっぱいになった。売り物ではなく、たったひとりの外国人の目をあざむくための展示品だったのだ。

ぽかんとロをあけて見ていた野次馬たちは、真新しい制服を着た警官に追い払われた。エリオの視察ルートにあたる通りで暮らす人、働く人は、本番に備えてリハーサルをさせられ、各自どんな服装でどこに立つかがちゃんとわかっていることを示してみせなければならなかった。

エリオは車に乗せられ、キエフ市内のみごとな大通り、フレシャーチク通りを案内された。そこではたくさんの車がせわしなく行き交っていた。いずれも街のにぎわいと繁栄を演出するためにほかの都市から集めてきたもので、共産党の活動家たちがハンドルを握っていた。

通りにいたひとりの女性が「たぶん、あのブルジョワがここで何が起きているかを世界中に伝えてくれるわ」とつぶやいた。だが彼女は失望することになる。エリオは逆に、ソ連では「社会主義精神」と「ウクライナ人の民族感情」の両方がきちんと尊重されていることに驚いたと言ったのだ。

一九三三年八月三〇日、エリオはハルキウに行き、ソ連の秘密警察創設者にちなんでフェリクス・ジェルジンスキー児童コミューンと名づけられた学校を訪問した。

ハルキウとその周辺地域ではいまだに餓死する子供があとを絶たなかった。エリオが対面したのは、もっとも健康で元気のよい者の中から選ばれた子供たちだった。おそらく、その子たちは朝に貸し与えられた服を着ていたのだろう。

もちろん、何もかもが嘘だったわけではない。ソ連はウクライナの子供たちのために学校を作り、読み書きのできない子をなくそうとしていた。一九三三年の末に生きていた子供は、字の読めるおとなに育った可能性が高い。ソ連当局はエリオにそう思わせようとしたのだ。

エリオは、まったく皮肉ではなく、子供たちは昼食に何を食べたのかときいた。この何気ない質問に、ソ連のイメージがかかっていた。のちにワシーリー・グロスマンは、彼の二冊のすぐれた小説にこのシーンを書くことになった。グロスマンの回想によれば、子供たちはこの質問が出た場合に備えていて、適切な答えをロにしたという。エリオは自分の見聞きしたものを信じ、そこからモスクワへと移動して、政府高官の公邸でキャビアをごちそうになった。

エリオは帰国すると、フランスの人々にこう伝えた。ソヴィエト・ウクライナの集団農場は秩序正しく管理された庭園だったと。ソ連の共産党機関紙ブラウダは、喜んでエリオのコメントを報じた。物語は幕を閉じた。いや、おそらくどこかよそにあつたのだ。
※適宜改行しました

筑摩書房、ティモシー・スナイダー著、布施由紀子訳『ブラッドランド ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実』P110-112

外国の要人を招き、国内の繁栄を見せ味方にし、プロパガンダに利用するという手法をソ連はここで用いました。

街そのものを完全に偽装して、政治がうまくいっているように見せるというのは実はロシアのお家芸でもあります。これで有名なのはポチョムキン村です。

ポチョムキン村はエカテリナーナ二世時代(1762-1796在位)に側近ポチョムキンによって作られた架空の村で、エカテリーナ二世に「こんなにあなたの政治はうまくいっていますよ」ということを見せるために用意されました。

エカチェリーナ女帝のクリミア行幸 wikipediaより

くしくもこのポチョムキン村もウクライナのクリミア行幸の際に用意された村で、上の引用においてもその舞台が同じウクライナというのも意味深いです。

ロシアにおいては要人に偽装した町や村を見せることは多々行われ、特にソ連時代にはよく見られた事例だったようです。

以前当ブログで紹介したアンドレ・ジイドのソ連旅行もまさにその典型です。

彼も国賓級の待遇でもてなされ、様々な場所を案内され、その繁栄ぶりを見せられることになりました。

しかし彼のすごいところは、そこからそうした完全護送スタイルのおもてなしから離れ、自分の足でソ連を歩き始めたところにありました。そこでジイドはソ連側から見せられた世界とはまるで違う世界と出会ってしまうことになるのです。

この時の体験がきっかけでジイドはそれまで憧れていたソ連に幻滅することになります。

上に紹介した本はその体験とジイドの思う所が率直に書かれていて非常に興味深い本となっています。この本はものすごく面白いのでぜひ多くの方に手に取って頂きたい一冊です。ソ連のプロパガンダについて考えるには最適です。

それにしても、ウクライナの飢饉をこれほどまでに完璧に偽装するソ連には驚くしかありません。

続く

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