(17)ベルニーニ『プロセルピナの略奪』~驚異の肉感!信じられない超絶技巧に驚愕!ボルゲーゼ美術館所蔵の初期の傑作!

『ローマ旅行記』~劇場都市ローマの魅力とベルニーニ巡礼

【ローマ旅行記】(17)ベルニーニ『プロセルピナの略奪』~驚異の肉感!信じられない超絶技巧に驚愕!ボルゲーゼ美術館所蔵の初期の傑作!

ベルニーニ初期の作品を観るならローマのボルゲーゼ美術館は絶対に外せない。

前回の記事「(16)ローマ・ボルゲーゼ美術館でベルニーニの初期作品やカラヴァッジョの名画を堪能!」ではその最初期の作品をいくつか紹介したが、今回の記事では20代になったベルニーニの最初の傑作『プロセルピナの略奪』を見ていくことにしよう。

オウィディウスの『変身物語』をモチーフにした『プロセルピナの略奪』

シピオーネ・ボルケーゼによる本格的彫刻作品の第一作は《アエネアス》だったが、べルニーニはこれに続けて三つの作品を制作した。ボルゲーゼ美術館の至宝《プロセルピナの略奪》、《ダヴィデ》、そして《アポロとダフネ》がそれである。

三作の最初は《プロセルピナの略奪》で、《ネプテューンとトリトン》に続いて一六二一年から二二年にかけて制作されたと考えられる。キューピットに愛の矢を射られたプルトがプロセルピナを誘拐するという主題は、オヴィディウスの『転身物語』に基づいている。

吉川弘文館、石鍋真澄『ベルニーニ バロック芸術の巨星』P23

オウィディウスは『アエネーイス』を書いたウェルギリウスより一世代後のローマ詩人だ。ベルニーニの《アエネアス》のモチーフになった『アエネーイス』はローマの建国神話だった。オウィディウスもそんな彼に倣いローマの精神、文化を『変身物語』でまとめ上げている。ウェルギリウスとオウィディウスという二人のローマ詩人の存在は後のヨーロッパ文化に凄まじい影響を与えることになった。まさにヨーロッパ芸術の源泉たる二人だ。ベルニーニもまさにこの詩人たちの影響を受けた一人なのである。

当時流行していたマニエリスム(多元的視点)ではなく単一的視点を追求したベルニーニの独創性

マニエリスムの彫刻家は、この「プロセルピナの略奪」や「サビ二女の略奪」といった略奪の主題や、「サムソンとペリシテ人」といった闘争の主題を好んてとりあげた。それは一つには、この種の主題が彼らが得意とした複雑な運動の表現に適していたからである。べルニーニもこの彫刻を構想するに当って、初めマニエリスト風に二人の人物が互いにねじり合う螺旋状のポーズを考えた。このことは、初期の彫刻に関しては唯一現存する貴重な準備デッサンが教えてくれる。

しかし実際に制作された彫刻では、このからみ合う螺旋運動というマニエリスム的構想は放棄されている。これは同時に、マニエリスム彫刻の大きな特徴である視点の多元性、つまり周り中どこから見てもよいような彫刻をよしとする美学が放棄されたことを意味する(マニエリスム彫刻を代表するチェㇽリーニは、彫刻は絵画よりも八倍も優れている、なぜなら絵画は一つの視点しかもたないのに比べ、彫刻は八つのそれを有するからだと述べている!)。

確かに、この《プロセルピナの略奪》は正面から見るように作られている。マニエリスム彫刻の典型ともいうべきジャンボローニャの《サビ二女の略奪》と比較すれば、このことはすぐに納得がゆく。ジャンボローニャの作品はとめどなく回転する視点を有しており、我々はどうしてもその周りを回らざるをえない。

一方、ベルニーニの方は、誰もが正面からカメラを向ける作品、つまり絵を見るように一つの視点から鑑賞することができる作品なのである。べルニーニは明らかにマニエリスム彫刻の視点の多元性をきらったのであり、その結果ルネッサンスの単一的視点の彫刻に戻ることになったのである。

しかしもはや一ブロックの大理石の中で、いわば求心的に造形を探求するルネッサンスの彫刻法に満足できるはずがない。そこでべルニーニは、マニエリスムの彫刻家が達成した造形の多様性と構想の自由を、ルネッサンスの単一的視点をもった彫刻の中で達成しようとしたと見ることができよう。このように「ルネッサンスの単一的視点とマニエリストか達成した自由を結びつけることによって、ベルニーニは新しいバロックの彫刻概念の礎を築いた」(ウィットコウアー)のである。

噴水やサン・タンジェロ橋を飾る彫刻のように、いろいろな方向から見られるべく作られた作品を除いて、この後のべルニーニの彫刻作品はすべて単一的視点を設定して制作されている。この《プロセルピナの略奪》は現在美術館では室の中央に、いわゆる「独立したフリースタンディング」彫刻として展示されているが、元来は壁につけて飾られていたことが知られている。そのことからも、この彫刻に単一的視点が設定されていたことは明らかであろう(ただしこの彫刻は、一六二三年七月にシピオーネ・ボルゲーゼからルドヴィーコ・ルドヴィーシに贈られ、一九〇九年に国家が買い上げるまでルドヴィーシ家の別荘にあった)。
※一部改行した

吉川弘文館、石鍋真澄『ベルニーニ バロック芸術の巨星』P24-25

たしかにこう並べてみると、ジャン・ボローニャの作品にはマニエリスムの回転性、螺旋的なフォルムが見えてくる。二つの像は明らかに違う理念に基づいて作られたことがこのことからもわかる。

そしてベルニーニが当時流行していたスタイルを単に嫌ったからこうしたのではないというのが肝だ。彼はここにミケランジェロの時代に完成されたスタイルを組み合わせ、さらに高みを目指したのだ。「ルネッサンスの単一的視点とマニエリストか達成した自由を結びつけることによって、ベルニーニは新しいバロックの彫刻概念の礎を築いた」という言葉はそうしたベルニーニの独創性、偉業を実に的確に表していると思う。

独創性は無から生まれるのではない。異なるものを掛け合わし、再創造することで新しいものが生まれるのだということを感じさせるエピソードである。

絵画的表現を彫刻に取り入れたベルニーニ~物語のクライマックスを巧みに表現!

この単一的視点と並んで次に注目されるのは、べルニーニがこの作品において、物語のクライマックスの瞬間を捉えようとしていることである。その意味で、この彫刻には絵画を、さらにいえば写真を連想させるところがある。つまり、この作品に認められる運動感は、ジャンボローニャの《サビ二女の略奪》のようなフォルム自体がもっている運動感とは全く異なり、いわばスナップ・ショットのように瞬間を固定したことによって生じたものだといえるのである。

ベルニーニ自身気づいていたように、こうした絵画的表現を彫刻によって達成しようというのは、まったくもって大胆な試みである。だがそれによって彼は、先に述べたような大理石彫刻の新しいタイプ、バロックのタイプを創造しえたのである。それにしても、彫刻において瞬間を捉えるというこうした大胆な目論見を非常なレアリティをもって実現した、彼の彫刻技術は信じ難いほどだ。大理石を刻む技の冴えは、この作品のあらゆる細部に現われている。

たとえば、プルトの指がくい込む辺りのプロセルピナの肌の表現を見られたい。そこには見る者を恍惚とさせる「技巧ヴィルトウオジタ」がある。石でありなからとても石とは思われない、この真に迫る肉体表現は、ミケランジェロの人物は解剖学的にすばらしいだけで肉体を感じさせない、という後年のベルニーニの言葉を思い起こさせる。彼はパリでシャントルーに次のように語っている。「彼(ミケランジェロ)は偉大な彫刻家であり、また偉大な画家だが、それ以上に神のごとき建築家である。というのは、建築はすべて素描ディセーニョから成るからだ。だか彫刻や絵画においては、彼は肉体を表現する才能をもっておらず、彼の人物は解剖学的に美しく、りっぱなだけだ」。

これもずっと後、べルニーニ晩年のことであるが、彼の《ルイ十四世の騎馬像》を見たある人が、王の衣や馬のたてがみに動きがありすぎて古代の先例から離れてしまっているのではないか、と批判したことがあった。これに対して、べルニーニは次のように答えたとドメニコは伝えている。

「あなたが欠点だとおっしゃったことは、実は私の芸術の最高の業績なのです。このためにこそ、私は大理石をあたかもロウであるかのように扱うという困難を克服してきたのであり、それによってある程度絵画と彫刻とを結びつけてきたのです。古代人たちがこれを成しとげなかった理由は、多分大理石を自分の意志に従わせるという勇気が彼らに欠けていたからでしょう」。

この《プロセルピナの略奪》には、絵画と彫刻とを結びつけようとする発想と、そのために大理石をロウのように意のままに刻もうとする意志とがすでにはっきりと認められる。このことと、べルニーニにとってこの作品が本格的スケールの彫刻としては第三作目であることを考え合わせると、我々は最初期の彼の作品を見た時と同じような驚きに襲われる。新しい発想、それを試みる果敢さ、そしてそれを実現する技術、べルニーニはこれらを生来の特質として備えていたように見えるからである。
※一部改行した

吉川弘文館、石鍋真澄『ベルニーニ バロック芸術の巨星』P26-28

私はこの解説を読んで唸らざるをえなかった。ベルニーニは決定的な瞬間をスナップショットのようにそこに表現した!絵画的に彫刻を生み出そうという驚異の発想!彫刻らしさを追求するなら普通はもっと彫刻ならではのものを作ろうとするのが普通の発想だろう。だがベルニーニは一味違う。この発想力には驚くしかない。

そして上の解説でも絶賛されていたベルニーニの超絶技巧を私も間近で体感してきた。この距離でもそのリアルさ、いやリアルを超えた質感に驚かされるがあえてさらに寄ってみよう。

いかがだろうか。著者が「そこには見る者を恍惚とさせる「技巧ヴィルトウオジタ」がある」と言うように、恍惚とせずにはいられない。「嘘でしょ!?」と思うほどの質感だった。指が食い込む肌の柔らかさに注目してほしい。これが本当に石なのかと目を疑った。

ベルニーニは単に独創的なだけではない。それを実現する超絶技巧があったからこそその独創性が生かされたのだ。発想だけでは足りないのだ。それだけでは単なる空想で終わってしまう。確かな技術、いや圧倒的な技術という裏付けがあるからこその独創性なのだ。

これがベルニーニ23歳の年の作品なのである。もはやなんと表現していいかわからない。この年にして技術的にはすでにトップ中のトップの域に達してしまっていたのだ。恐るべき男である。

続く

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