(21)ベルニーニ『バルダッキーノ』~サン・ピエトロ大聖堂で一際目を引く傑作ブロンズ像!パンテオンとの驚きのエピソードも

『ローマ旅行記』~劇場都市ローマの魅力とベルニーニ巡礼

【ローマ旅行記】(21)ベルニーニ『バルダッキーノ』~サン・ピエトロ大聖堂で一際目を引く傑作ブロンズ像!パンテオンとの驚きのエピソードも

ローマ・カトリックの総本山バチカンの象徴サン・ピエトロ大聖堂。その中央祭壇にどんと鎮座するのが何を隠そうベルニーニ作のバルダッキーノである。

ブロンズで作られたこの巨大なバルダッキーノ。ひねりが加わった柱に黒々としたその巨体。私も2019年に初めてこれを見た時には度肝を抜かれた。まさに言葉を失ってしまうほどの衝撃だった。(「ローマカトリック総本山サンピエトロ大聖堂~想像を超える美しさに圧倒される イタリア・バチカン編④」の記事参照)

今回の記事ではそんなバルダッキーノについてお話ししていきたい。

ウルバヌス八世からベルニーニに依頼されたバルダッキーノ制作

このサンタ・ビビアーナの改築と並行して(※ブログ筆者注、前回の記事「(20)建築家ベルニーニのデビュー作サンタ・ビビアーナ教会へ!最強のパトロン、ウルバヌス八世の存在」参照)、より重要な仕事が進められていた。サン・ピエトロの交差部にブロンズのバルダッキーノ(天蓋)を制作するという仕事である(バルダッキーノという言葉は、元来バルダッコ、つまりバグダッドから渡来する金襴をさす言葉だったが、次第に豪華な素材を用いて作られる、祭壇や玉座をおおう天蓋を意味するようになった)。

建物自体はおおむね完成し、一六二六年には献堂式が挙行されたサン・ピエトロでは、聖ペテロの墓と主祭壇をどのように配置し、どのように装飾するかが残された最大の問題であった。なかなか決定的な解決案が見出せないまま、仮の道具立てが幾度か作られたり壊されたりした。べルニーニ自身も、グレゴリウス十五世の時代に、仮のバルダッキーノのために四体の天使像をストゥッコで制作した経験がある。が結局、紆余曲折を経た後、聖ペテロの墓の上に主祭壇を設け、それをブロンズのバルダッキーノでおおうことになった。当然、それはドームの下の巨大な空間に見合うものでなければならない。そのように大きなバルダッキーノを制作するのは、技術的にも困難な仕事である。にもかかわらず、ウルバヌス八世はその仕事をサン・ピエトロの主任建築家だった老大家マデルノにではなく、二十五歳のべルニーニに任せることにしたのである。

コンスタンティヌス帝が建てた旧サン・ピエトロの主祭壇は、聖人の墓の上に設けられ、四本の斑岩の柱に支えられた天蓋を、一二本のねじれた柱が囲って内陣を形成していたことが知られている。これらのねじれた柱一二本のうち、六本はコンスタンティヌス帝時代(三〇六~三七年)のもので、残りの六本は大教皇グレゴリウス一世(五九〇~六〇四年)が改築した際に付け加えたものであった。

べル二ーニの時代には、これらのねじれた柱はイエルサレムのソロモンの神殿から運ばれたものだという伝承が信じられていた。時折、べルニーニのバルダッキーノのねじれた柱は彼の、そしてバロックの美意識の産物だとみなわるが、これは誤りである。それは旧サン・ピエトロの伝統に忠実たらんとして採用されたのであり、むしろ反宗教改革を経た人々がいかに初期教会の伝統を重んじたかを示しているのである。実際、このような柱を用いるというプランは、すでにパウルス五世時代に考えられており、それを採用したマデルノの設計図も残っている。ベルニーニはこのプランを受け継いだに過ぎないのだ。ただ、それを用いて彼はまったく新しい、真にバロック的な作品を生み出したのである。
※一部改行した

吉川弘文館、石鍋真澄『ベルニーニ バロック芸術の巨星』P51-52

25歳にしてこの超重要任務を任されることになったベルニーニ。教皇からいかに信頼されていたかがわかるエピソードである。

そしてこのバルダッキーノの形状が彼の独創ではなく、初期教会の伝統に沿ったものだというのにはとにかく驚いた。だが最後に述べられたように伝統に則りながらも革新的なものを生み出したのがベルニーニだったのである。

では、引き続き解説を見ていこう。

パンテオンから銅を調達するという荒業を決行して作り上げたバルダッキーノ。完成までの九年の歳月

ベルニーニはバルダッキーノの仕事を一六二四年の夏から始めた。まず小さな木のモデルを作り、それが教皇に認められると、原寸大の柱二つをやはり木で制作した。それからこの木の柱にロウで種々の装飾をつけながら柱の型を作り、最後にブロンズを注入したのである。この巨大なバルダッキーノ(高さ二八・五メートル)の柱を鋳造するためには、大量のブロンズが必要だった。当時は三十年戦争の影響でブロンズが常に欠乏ぎみだったので、必要な量を確保するには種々の方策を講じなければならなかった。

まずサン・ピエトロのリブがはずされ、それからパンテオンのポルティコのブロンズ製の梁が木で代用されたが、それでも足りず、ヴェネツィアに特別注文が出された。このヴェネツィアからの大量の供給によって、結局ブロンズはカステル・サンタンジェロの大砲が八〇も作れるほど余ったといわれる。しかし、べルニーニの発案でパンテオンからブロンズが運ばれたことには風刺好きのローマ人が黙っているはずがなく、次にあげる有名な落首パスクイーノが生まれた。「蛮族バルバリもしなかったことを、バルベリーニがやった」(Quod non fecerunt barbari, fecerunt Barberini. ただし、この落首パスクイーノの作者は教皇その人の侍医ジュリオ・マンチーニで、この落首パスクイーノは教皇の御前で最初に披露されたともいわれている)。

柱はそれぞれ五つの部分、つまり柱頭と台輪と三つに分けた柱身を別々に鋳造し、後に重ね合わせる方式がとられた。この鋳造作業は特別に設けられた二つの炉で行われたが、二年の間べルニーニは晴れの日も雨の日も、夜遅くまで作業の監督に当ったと記録は伝えている。こうしてようやく完成した柱は、一六二七年夏にボㇽロミーニとべルニーニの義兄アゴスティーノ・ラーディが刻んだ大理石の台座の上に立てられた。

次に、この柱の上にどのような天蓋をのせるかがまた重要な問題だった。べルニーニは一六二八年にこの仕事の契約をしているが、完成にこぎつけたのはようやく一六三三年になってからであった。このように時間がかかったのは、途中で設計の変更を余儀なくされたからである。

当初べルニーニは、旧サン・ピエトロの天蓋を模してニつのアーチをつけ、最上部にキリストの像をのせる案を立てていた。しかし、このプランは力学的に無理があると批判され、結局再考を余儀なくされたのだ。そこでべルニーニはいろいろな案をねった末、今日見るようにアーチの部分を木にブロンズをはった渦巻のリブヴオルータに替え、さらにキリストの像は断念して十字架をすえることて軽量化を計ったのである。これに四人の天使とプットーたち、そしてその他のさまざまな装飾が加えられてバルダッキーノは完成する。完成までに九年の歳月と二〇万ドゥカーティの費用を要し、べルニーニはこれに対し都合一万ドゥカーティの報酬を受けている。
※一部改行した

吉川弘文館、石鍋真澄『ベルニーニ バロック芸術の巨星』P52-53

この巨大なバルダッキーノの作成にパンテオンの銅が使われているというのは非常に興味深い。「(8)ミケランジェロ・ベルニーニも絶賛したパンテオン!ローマ建築最高峰の美がここに!」の記事の中でも少し触れたが、パンテオンの入り口の天井部(ポルティコ)の梁から拝借した銅がバルダッキーノになったのだ。

そしてローマの誇りとして市民から愛されていたパンテオンから銅を奪ったウルバヌス八世は当然市民から非難轟々だったことだろう。だがそれでもこの方策を実行できたということ自体が教皇の力の強さを物語っているとも言える。とは言えベルニーニが造るものへの絶大な信頼がなければここまで大胆なこともできなかったはず。やはりベルニーニとパトロンウルバヌス八世という最強のタッグあってこそのバルダッキーノであると言えるのではないだろうか。

抜群の統率力とリーダーシップを発揮するベルニーニ

このバルダッキーノは、べルニーニが大勢の美術家を率いて制作に当った最初の作品てあった。バルディヌッチが伝えるところによれば、彼は情熱的で生き生きした眼をしており、「命令する時には、ただ一暼を与えるだけで相手を恐れさせた」という。この言葉からも推測できるように、彼は並外れた統率力と、そればかりでなく他の美術家を用いて思うとおりの作品を創造する能力に恵まれていた。この点で彼は、何でも自分でやらなければ気がすまず、弟子を養成することのなかった孤高の天才ミケランジェロとは全く対照的であった。我々は、むしろ我々は、大工房の偉大なリーダーであったジョットと北方のルーべンスを想い起こすであろう。次第に多忙になるに従って、ちょうどジョットがそうであったように、べルニーニ自らが仕事に手を下すことは少なくなる。そのためべルニーニ研究では、それぞれの作品にどこまで巨匠が関与したかが常に問題となるのである。このバルダッキーノの場合には、後の作品とは比較にならないほどべルニーニ自身が直接関与したと考えられるが、それでも学者たちは最初のアイディアがどのようにして生まれ、またライヴァルの天才ボㇽロミーニがどのような貢献をしたかを熱心に議論している。

後年ベルニーニはこのバルダッキーノを回顧して、「仕事は幸運のお陰でうまくいった」と述べているが、幾多の困難を克服したこの作品は、非常な成功を収めた。バルダッキーノは広大なドームの空間に完璧に調和しながら、独自の存在を主張している。それは途方もない空間を意義づけ、同時に観る者と巨大な建築とを仲介する役割を果しているのである。さらにブロンズを素材としたこともよい結果をもたらした。鈍い光をふくんだブロンズの暗い色彩は、ブラマンテの巨大な大理石の柱に映え、同時にそれを生かしているからだ。カトリック世界の中心であるサン・ピエトロ、そのまた中心である聖ぺテロの墓と教皇の祭壇は、こうして見事に装飾されたのである。

吉川弘文館、石鍋真澄『ベルニーニ バロック芸術の巨星』P53-54
システィーナ礼拝堂 Wikipediaより

孤高の天才ミケランジェロとの対比は非常に興味深い。システィーナ礼拝堂のあの天井画や『最後の審判』はほとんど彼一人の手によって描かれた。あの巨大な絵をたった一人でである。私はシスティーナ礼拝堂に行く度にミケランジェロに驚愕してしまう。

それとは対照的にミケランジェロはチームで作品を作り上げることに非常に長けていた。しかも社交的で、王侯貴族だろうが職人だろうがどんな人とも関係性を作れてしまう。機知に富んだ会話もなんのその。リーダーとしての資質も持ち合わせていた人物だった。

孤高の天才ミケランジェロと偉大な指導者ベルニーニ。どちらがすごいかという話ではないがこの二人の比較は私にとっても実に刺激的だった。

バルダッキーノに込められた意味~バロック全盛期の開幕を告げる最初の傑作

最後に、このバルダッキーノに込められた意味について一言しておくべきであろう。ここに用いられているねじれた柱が、ソロモンの神殿と初期教会の伝統に対する敬意を表わすものであることはすでに述べた。この他にも、この作品にはいろいろな意味が込められている。そのうち最も我々の目を惹くのは、教皇自身の宣伝プロパガンダである。柱の台座に、三匹のハチをあしらった教皇の紋章が刻まれている。それだけでなく、バルダッキーノのあらゆるところに金のハチがとまり、柱にぶどうがからみつくという古代のモティーフは、文学好きの教皇が紋章のようにしていた月桂樹に置き換えられ、さらに柱頭の上にはやはりバルべリーニ家を示す「輝く太陽」が刻まれている。このバルダッキーノは、一義的には反宗教改革の勝利を誇示する意図をもつと思われるが、同時にそれは地上の鍵をあずかる教皇ウルバヌス八世の宣伝プロパガンダでもあったのだ。こうした宣伝プロパガンダといい、初期教会の伝統などを巧みに加味するレトリックといい、その表現の壮麗さといい、建築とも彫刻ともつかぬ総合的芸術である点といい、このバルダッキーノには我々が「バロック的」と呼ぶ性格が明瞭である。それはヨーロッパの豊饒なバロック世界の開幕を告げるモニュメントであり、その精神を最もよく具現した最初の傑作である。

吉川弘文館、石鍋真澄『ベルニーニ バロック芸術の巨星』P

私はサン・ピエトロ大聖堂が大好きだ。この教会は何から何まで驚異的なスケールで私を圧倒する。

だがそれはやはりベルニーニの傑出した才能があってこそだ。バルダッキーノがなければこの聖堂の見栄えは全く違ったものになっていたことだろう。この光り輝く大理石の世界の中で黒々としたバルダッキーノがあることでどれだけの調和が生まれていることか。

そして上の解説にあるように、単に芸術的な面だけでなく宣伝(プロパガンダ)の側面まで有している。

石鍋真澄が「こうした宣伝プロパガンダといい、初期教会の伝統などを巧みに加味するレトリックといい、その表現の壮麗さといい、建築とも彫刻ともつかぬ総合的芸術である点といい、このバルダッキーノには我々が「バロック的」と呼ぶ性格が明瞭である。それはヨーロッパの豊饒なバロック世界の開幕を告げるモニュメントであり、その精神を最もよく具現した最初の傑作である。」とまとめるようにベルニーニのバルダッキーノこそローマバロックの開幕を告げる最高傑作なのだ。

続く

※【ローマ旅行記】の記事一覧はこちらのカテゴリーページ

※ローマやイタリアを知るためのおすすめ書籍はこちらのカテゴリーページへどうぞ
「ローマ帝国の興亡とバチカン、ローマカトリック」
「イタリアルネサンスと知の革命」

※以下の写真は私のベルニーニメモです。参考にして頂ければ幸いです。

次の記事はこちら

前の記事はこちら

関連記事

HOME