(28)ローマ・ナヴォーナ広場の『四大河の噴水』~ベルニーニ、失脚からの完全復活!敵対していた教皇も絶賛した傑作!

『ローマ旅行記』~劇場都市ローマの魅力とベルニーニ巡礼

【ローマ旅行記】(28)ローマ・ナヴォーナ広場の『四大河の噴水』~ベルニーニ、失脚からの完全復活!敵対していた教皇も絶賛した傑作!

前回の記事「(27)ベルニーニ『聖女テレサの法悦』~バロック美術の最高傑作!コルナーロ礼拝堂の驚異のイリュージョン!」ではベルニーニ不遇時代に生まれたコルナーロ礼拝堂の『聖女テレサの法悦』をご紹介した。

今回の記事ではそんな不遇のベルニーニが完全復活を果たすきっかけとなったナヴォーナの広場の『四大河の噴水』をご紹介していく。

ナヴォーナ広場 Wikipediaより

ベルニーニのドラマチックな前線復帰!

コルナーロ礼拝堂の仕事と前後して、べルニーニは先年没したウルバヌス八世の墓の完成を急いだ。一六四七年三月一日にそれが完成して除幕されると、さすがのイノケンティウス十世も、「彼らはべルニーニについて悪くいうが、彼は偉大で稀有な男だ」と述べたと伝えられる。バロック時代の君侯が、べルニーニのような才能を長い間用いずにいるのはおそらく困難なことであろう。実際、イノケンティウス十世も四年とたたないうちに彼を第一線に復帰させることになるのだが、その再起の経緯は、いつものようにどこか芝居じみている。

ドミティアヌス帝の円形競技場の跡をそっくり残したナヴォナ広場は、一五世紀後半にカピトリーノの丘から市場が移されて以来、ローマの市民生活の中心となっていた。すでに述べたとおり、パンフィーリ家のパラッツォはこの広場に面していたが、教皇はそれを改築し、同時に自分の教会を建てて、そこを「パンフィーリの島」にしようとした。このパラッツォとサン・タンニェーゼ教会の建設にはジロラモ・ライナルディが起用されたが、彼は七十代半ばの老人てあり、まもなくボㇽロミーニが代って工事の監督に当たるようになった。これらの工事に加えて、広場の装飾として噴水の建設が企画された。

噴水はすでにグレゴリウス十三世の時代に広場の両端に二基作られていたが、今度は中央により大きな噴水を作ろうというのである。しかしこの計画を実行に移すには、まず多量の水が必要であり、そのためにはトレヴィの泉から水を引いてこなければならなかった。この仕事は、本来ならば「ナヴォナ広場の水道・噴水監督官」および「アックワ・ヴェルジネの建築家」のニつの称号をもつべルニーニに任されるべきであった。だがここでもべルニーニに代ってボㇽロミーニが登用され、彼は一六四四年から三年かかってこの工事を完成させている。

一方ずっと以前から、アッピア旧街道のマクセンティウス帝の円形競技場跡にオべリスクの断片があるのが知られていた。そこで、このオべリスクを広場に運んで噴水の装飾に用いてはどうかということになり、その噴水装飾のプランを決めるコンクールが開かれたが、今度もやはりボㇽロミーニの案が選ばれた。べルニーニはこのコンクールに招待すらされなかったのである。

しかしべルニーニにも味方がいた。伝記作者の伝えるところによれば、ルドヴィーシ家の当主で、パンフィーリ家の女宰相オリンピアのむすめ婿であった旧友ニコロ・ルドヴィーシが、べルニーニにも噴水のモデルを作るよう勧め、オリンピアにとりなしたのである(ある資料によれば、べルニーニはオリンピアの気を惹くよう精巧な銀のモデルを作ったという)。オリンピアもこのモデルがいたく気に入ったので、ニコロ・ルドヴィーシはそれを教皇が食事の後に通る部屋に置いておいた。聖母の被昇天祭の日(八月一五日)に祝祭行列プロセションを終えて食事に寄った教皇は、食事の後でモデルを見つけ、半時間もうっとりと眺めて、「このデザインはべルニーニより他に考えられない。そしてこれはプリンチぺ・ルドヴィーシのたくらみにちがいない。こうなっては、それを望まない者もいるようだが、べルニーニを用いなければなるまい。彼のプランを役立てまいと望む者は、これを見てはならないからだ」と言った。そしてその日のうちにべルニーニを呼びにやり、これまでの処遇に遺憾の言葉を述べて、彼にこの噴水の制作を命じたのである。こうしてボㇽロミーニは再び苦杯をなめ、べルニーニはようやく第一線に復帰することとなった。
※一部改行した

吉川弘文館、石鍋真澄『ベルニーニ バロック芸術の巨星』P114-116

ベルニーニが演劇的才能を持ち、劇作家、演出家、役者の顔を持っていたことは「(24)ベルニーニのライモンディ礼拝堂~見事な光のスペクタル!劇作家・演出家としてのベルニーニ」の記事でもお話しした。

現実は小説より奇なりとはよく言ったもので、こうしてベルニーニはまさにドラマのようなカムバックを果たしたのである。

ナヴォーナ広場の『四大河の噴水』

『四大河の噴水』Wikipediaより

べルニーニがナヴォナ広場に制作した《四つの河の泉》は、二つの構想から成っている。一つは、オべリスクの台座を中が空洞になった岩山にするというアイディアであり、もう一つは、それを四大河川の寓意像で飾るという「着想コンチエット」である。マクセンティウス帝の円形競技場跡で見つかったオべリスクは、六つの断片に分かれていたので、つないで修復する必要があったが、そのかわりそれを立てるのには他のオべリスクほどの困難はなかったと思われる。それでもこの噴水の制作が大へんな作業だったことは、当時の資料が「その非常な困難と苦労とは、実際の作業を見た者でなければ分からないと思う」と伝えていることからも想像できる。

しかし不思議なことに、現実にこの噴水を前にしてこうした困難を感じることはほとんどないといってよい。我々はむしろベルニーニがやすやすとこれを成したように思うであろう。それは、実際には非常に重いにもかかわらず、オベリスクの重さがほとんど感じられないことに起因している。そしてこれは、オべリスクという幾何学的で無機的な物体の台座に自然のままの岩山を導入し、しかもその岩山の中を空洞にするという、いかにもべルニーニらしい卓抜なアイディアの賜物である。「魔術師」べルニーニならではのすばらしい「舞台装置マッキナ」だといえよう。
※一部改行した

吉川弘文館、石鍋真澄『ベルニーニ バロック芸術の巨星』P116-117

たしかにこの解説で述べられているように、パッと見ただけでは制作の困難さは伝わってこない。やすやすとやってのけたかのように見せるのも天才演出家ベルニーニの腕の見せ所だったのかもしれない。

オベリスクの台座となる彫刻部分。岩が空洞になっているのがよくわかる。

では引き続き解説を見ていこう。

これに対して、四大河川の寓意像を噴水の装飾に用いるというアイディアは、ボㇽロミーニがすでに考えていたともいわれる。けれども一つだけ現存するボㇽロミーニのデッサンを見ると、彼が実際に立てたプランは、オべリスクの台座に簡単な浮彫の装飾を施して流出口から水を流出させるだけという、全く簡素なものだったことがわかる。

そもそもこうした舞台美術的シェノグラフィックな感覚を必要とする仕事で、べルニーニに太刀打ちできる者はない。べルニーニはまずオベリスクの台座を岩山にし、噴水の四隅に四つの大陸を象徴する四大河川の寓意像を、ミケランジェロを思わせるダイナミックな肉体をもって表わした。このうちドナウはオべリスクを見上げ、ナイルは目をおおってその水源が神秘なことを示し、ガンジスは水の豊かさを表わすオールをもち、モール人のラプラタはかたわらにコインを散らしてその金銀の豊かさを示している。これらの主役に加えて、ベルニーニはシュロ(ナイル)やサボテン(ラプラタ)などの植物と、四大河川を表わす動物として馬(ドナウ)、ライオン(ナイル)、蛇(ガンジス)、アルマディロ(ラプラタ)を添えている。馬は洞窟グロッタから顔をのぞかせ、ライオンは水を飲もうとかがみ込み、蛇は岩をはい、アルマディロは岩陰からひょうきんな顔をのぞかせて、見る者を楽しませてくれる。

さらにべルニーニは、水を岩の間から噴き出させることによって、その戯れに変化をつけている。こうして出来上がった噴水は、全体がまるで生き物のようであり、自然とファンタジーとの絶妙の融合体だということがてきる。その意味でこの噴水は、べルニーニの作品の中でも最も催物的スペッタコローゾな作品であり、彫刻作品というよりむしろ木や紙やストゥッコで作られる祝祭フェスタ装飾装置マッキナに近いといえよう。祝祭の装飾はその時限りのものだったが、彫刻よりも一層自由なファンタジーの表現が可能であるため、美術家にとってまたとない実験の場となった。べルニーニの《四つの河の泉》はそうした実験から生まれたものであり、失われた祝祭の都市まちローマをしのばせる最高の遺品だといってよいであろう。
※一部改行した

吉川弘文館、石鍋真澄『ベルニーニ バロック芸術の巨星』P118-119

「そもそもこうした舞台美術的シェノグラフィックな感覚を必要とする仕事で、べルニーニに太刀打ちできる者はない」

ああ!ベルニーニ!たしかにこの噴水の圧倒的なファンタジー感、エンタメ感を見ればこの言葉に頷くしかない。

ベルニーニのもう一つの才能~宮廷人としての人柄と発注者の期待に完璧に応えるプロパガンダ能力

ところでこの噴水のプランにおいて、ボㇽロミーニがべルニーニに太刀打ちできなかったことがもう一つある。それは一七世紀の権力者や宗教者の心を捉える「着想コンチェット」でもって作品を意味づけるという才能である。この点でもべルニーニに並ぶ者はない。

そもそもプロパガンダの具としての美術というバロック的概念は、ハスケルが指摘するとおり、ウルバヌス八世とべルニーニによって打ち立てられたといってよいからだ。その意味でべルニーニは優れた宮廷人コルティジャーノだったわけである。だから最初のうち彼を冷遇していたイノケンティウス十世も、胸襟を開いてからは、「騎士べルニーニは偉大な君侯と交わるべく生まれた男だ」と常々ロにしたと伝えられる。このように宮廷人としての感覚にたけていたべルニーニにとって、教皇やパンフィーリ家の人々が何を求めているかは自明のことだったはずである。

その彼らを捉えたべルニーニの「着想コンチェット」とは、四つの河、つまり四つの大陸に君臨する教会とパンフィーリ家を称賛するために、オべリスクの頂にオリーヴの小枝をロにした鳩をすえるというものであった。周知のとおり鳩は聖霊の象徴シンボルだが、同時にそれはパンフィーリ家の紋章でもあったからである。シクストゥス五世以来、オべリスクはしばしば広場の装飾に用いられてきたが、その頃にはいつも十字架がすえられ、オべリスク、すなわち異教に対する教会の勝利が表わされた。その伝統をべルニーニは破ったのである。
※一部改行した

吉川弘文館、石鍋真澄『ベルニーニ バロック芸術の巨星』P119

依頼主の期待以上のものを造る才能。依頼主が潜在的に何を求めているのかを察知する能力。こうしたものまでベルニーニは持っていたのである。そこには神経質で孤独なボッロミーニと違い、社交的で機知に富んだベルニーニの人柄も大いに関係していたことだろう。これもベルニーニを知るための実に興味深いエピソードだと私は思う。

演出家ベルニーニの粋な計らい~教皇イノケンティウス十世を喜ばせた一幕

そしてこの『四大河の噴水』においてぜひ紹介したいエピソードがある。

演劇人たるベルニーニらしい、ものすごく粋な演出だ。

この噴水は着工から三年ほどで完成されたが、実際の制作は四体の寓意像をはじめとして、ほとんどすべて弟子たちの手で行われた。けれどもバルディヌッチによれば、馬とライオンとシュロの木はべルニーニ自身が制作したという。それを裏づける資料はないが、それらは確かに生き生きとした作品である。

また伝記作者は、この噴水に関して次のようなエピソードを伝えている。この噴水は一六五一年六月一四日に除幕されたが、その少し前に教皇が五〇人ほどの供をつれて見に寄ったことがあった。教皇は半時間ほど噴水を見て楽しんだが、やはり水がないのをもの足りなく思い、水はいつ出るのか、とべルニーニに尋ねる。するとべルニーニは、出来るだけ早くしたいと思います、と答えた。やむなく教皇は祝福を与えて立ち去るが、建物一つも進まないうちに水音が聞こえた。ベルニーニが合図して水門を開かせたのである。振り返る一行の目に映ったのは、「皆をうっとりとさせるスペクタクルだった」。教皇は「予期せぬ喜びで寿命が一〇年延びた」と手を打って喜び、すぐさまオリンピアに使いをやって一〇〇ドブレとり寄せ、それを噴水工事に当たった下級の職人たちに与えた、というのである。演劇テアトロとスぺクタクルの一七世紀に生き、芸術と現実との境を取り除こうとした、べルニーニの面目躍如たるエピソードではないか!
※一部改行した

吉川弘文館、石鍋真澄『ベルニーニ バロック芸術の巨星』P120

私はこのエピソードが大好きだ。人を喜ばせるのが好きなベルニーニが伝わってくるようだ。演劇人らしい茶目っ気のあるこの演出がたまらない。真面目一辺倒よりもこうした明るいユーモアを差し込むことでベルニーニは様々な人との交流の輪を広げていったのだろう。教皇の喜びようが目に浮かぶようだ。かつては敵だったこの教皇ですらすっかりベルニーニに夢中になってしまった。実に天晴れなエピソードである。

大絶賛の『四大河の噴水』ではあったがその一方で・・・

教皇にも絶賛され、ローマ市民からも感嘆されたこの噴水ではあったが、市民には複雑な感情も実は生じていた。これもベルニーニの生きたローマを考える上で非常に重要なポイントになる。

さて、こうして完成した《四つの河の泉》は非常な称賛を集め、たちまちローマの名所の一つになった。フランチェスコ・アルビッツィは当時アーへンにいたファビオ・キジ(後のアレクサンデル七世)に、「まったくそれは世の奇跡だ……べルニーニは一つは宗教的、他は世俗的な記憶さるべき二つの作品を作った。前者はサン・ピエトロの聖者の墓コンフェシオーネをおおうバルダッキーノを支える柱であり、世俗の作品とはこの噴水である。それは古代の最も美しい建造物をも凌駕している」と書き送っている。また今日では信じ難いことだが、一年ほどの間に、この噴水を称讃する書物がつづけて八冊も出版された。(中略)

しかし、この噴水を見物するためにナヴォナ広場に集まったローマの市民たちは、その出来映えに感嘆するとともに、それをうらめしく眺めたことであろう。なぜなら、この噴水建設のために教皇は新たな税金を課したからである。「こうしたことを人々は嘆いた。小麦の価格は日に日に上がっているからだ……」とジㇽリは記し、「ナヴォナ広場に運ばれたオべリスクの石片には次のような落首が貼られていたと伝えている。「我々はオべリスクは欲しない。我々はパンが欲しい。パン、パン、パン」。こうしたことからも推察できるように、ローマの社会・経済状況は諸要因が重なってますます悪化していたのである。

吉川弘文館、石鍋真澄『ベルニーニ バロック芸術の巨星』P120-121

芸術が花開く一方でローマは少しずつ衰退の途を辿っていた・・・

1650年頃にはすでにフランスは大国と化し、宗教改革の影響でドイツ全体に対するローマの影響も明らかに低下している。イギリス、オランダも海洋国家として独自路線を取り始める。オスマン帝国も大きな脅威だ。

こうした世界情勢においてローマはヨーロッパの中心という立場から凋落していくことになる。その繁栄の最後に現われたのがベルニーニでもあったのだ。

現にベルニーニの晩年頃にはさらにローマは貧しくなり、ベルニーニの芸術は金がかかりすぎると大批判され失脚することになってしまうのだ。

こうしたローマの政治状況を考えながら見ていくローマも味わいぶかい。ローマ帝国の興亡もそうだが、バチカンの興亡というドラマもここには存在しているのである。

続く

※以下の写真は私のベルニーニメモです。参考にして頂ければ幸いです。

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