「戦争反対声明」~ロシア・ウクライナ危機へ思うこと

現代ロシアとロシア・ウクライナ戦争

相手が何者かわからない時、恐怖は何倍にもなる。今こそ歴史・文化を学び、相手を知ることが必要ではないだろうか~ロシア・ウクライナ危機へ思うこと

2月末にロシア軍がウクライナに侵攻してから、もうかなりの月日が経ちました。

私はこれまでロシアの文豪ドストエフスキー(1821-1881)のことを知るためにロシアの歴史、文化を学び続けてきました。そんな私にとって身近な国、ロシア・ウクライナがこうした状況になってしまった・・・

戦争や紛争はこれまでにも世界中で消えたことはありません。ロシア・ウクライナにだけなぜこれほど声を大きく上げるのか、そう言われてしまえばたしかにその通りな面もあります。ですがドストエフスキーの文学に惚れ込み、ロシア文化に大きな影響を受けた私にとって、そんなドストエフスキーの国が有無を言わさぬ武力侵攻を現代において断行したことに大きなショックを受けたのでありました・・・

私は以前、この記事の中で、

ドストエフスキーは『悪霊』や『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官の章」で来るべき全体主義の悲惨な世界を予言していました。

そして驚くべきことに、『悪霊』や『カラマーゾフの兄弟』で説かれていたことが彼亡き後のロシアで現実になったのです。ドストエフスキーがいかに世界を見通していたかがわかります。

ドストエフスキーが彼の作品の中で警告していた事態が現実になってしまった。

トルストイも作品を通して「非暴力」を訴えていましたが結局ロシアは暴力の時代へと突き進んでいくことになります。

文学は圧倒的な権力の前では無力なのか。思想は銃の前では無意味なのか。

私はやはりソ連の歴史も学ばねばならない。ここを素通りすることはできないと感じました。

ソ連とドストエフスキー~なぜ私がソ連を学ぶのかー今後のブログ更新についてより

と述べました。

「文学は圧倒的な権力の前では無力なのか。思想は銃の前では無意味なのか。」

私たちが今立たされているのはまさにこうした現実なのかもしれません。

全体主義が確立し、反抗する者はすべて逮捕され処罰される体制。そして武力で他国を侵略する国家。

こうした攻撃を前に文学や歴史を研究している私に何ができるというのでしょうか。

正直、私は先月からずっと落ち込んでいます。

ですが、ずっと落ち込んでいるわけにもいきません。

私は私なりにできることを考え続けました。

私はこうした時だからこそ、あえてロシアのことを学び続け、できるだけ発信しようと心に決めました。

ロシアによる軍事侵攻は言語道断です。私も絶対に容認できません。

ですが、ウクライナが支援されるべき被害者側であるのは当然のことなのですが、あまりに一方的にロシアを悪魔のように報道しすぎるのも現実を見誤ることになるのではないかと私は危惧しています。

私は2019年にボスニアを訪れ、紛争のことを学びました。そしてその過程で上の本で語られていることも知ることになりました。

それはつまり、戦争は単に武器の撃ち合いだけで決まるのではなく、メディアによる情報戦でもあるということです。

メディアが語る内容がいかに世界の世論を動かすか、これが戦争の行く末に大きな影響を与えるとこの本では述べられています。巻末の解説ではそのことについて次のようにまとめられていました。

ボスニア紛争では、伝わってくる一つ一つの事象の情報からだけでは、どちらの勢力に責があるとも判断し難かった。それにもかかわらず、事実を解釈する報道や論評は「モスレム人=被害者」「セルビア人=加害者」という分りやすい善玉・悪玉論で塗り込められていった。それがユーゴスラビア連邦への経済制裁や国連追放、NATO軍によるセルビア空爆にまで結びつき、活況を呈するサラエボと停滞しどん底に沈むベオグラードというその後の生活となって、長期にわたる影響を及ぼすことになる。

なぜ国際世論はボスニア支援に雪崩を打って傾いたのか。いかにして国際紛争の「善玉」と「悪玉」がニュース報道の中で決まっていったのか。情報戦争の「勝者」と「敗者」はどこで分かれたのか。

講談社、高木徹『ドキュメント 戦争広告代理店 情報操作とボスニア紛争』 P395-396

ボスニア紛争には非常に複雑な背景があります。たしかにムスリム人側の被害は甚大でしたが、セルビア人側にも多くの犠牲者も出ています。紛争中、互いに村々を奪い合い、悲惨な争いが続いていました。しかもそこに世界規模の国際情勢や国連平和維持軍の介入なども絡み、めまいがするほど複雑な背景がありました。

ですので上の解説にもありますように簡単に善玉悪玉を分けることは本来非常に慎重にならねばならない問題でした。

ですが現実にはセルビア側が民族浄化を繰り返す悪玉として一方的に報道されることになります。それによってセルビア側への厳しい措置につながり、紛争後もそれは尾を引いています。

もちろん、セルビア側の犯した人道上の犯罪は許されるものではありませんし、ボスニア側にも悪い面があったから仕方がないという話でもありません。そのことについては当ブログでもこれまでお話ししてきました。

そしてそうしたことを学んだ上で改めて今の状況を考えてみると、私は今回のロシア・ウクライナ戦争においてもこうした構図が繰り返されるのではないかという危惧を抱いてしまったのでした。

もちろん、ロシア軍による武力侵攻は断じて認められるものではありませんし、ボスニア紛争と今回の侵攻は全く別の出来事です。世界が協力してこの侵攻を止めるために動かなければならないのも完全に同意します。

ただ、ウクライナを完全に善とし、ロシアを悪魔的なものとして単純化して考えすぎるのはかえって戦争を長引かせたり、激化させかねないと私は感じてしまうのです。

記事タイトルにも書きましたように、私たち人間は相手が何者かわからない時、何倍もの恐怖を感じてしまいます。

「薄明かりの下でとっさに見えた綱が蛇に見えてしまった」というお話が仏教の教えにもあります。

薄明かりで視界が乏しい中では本来恐がる必要もない綱が恐ろしい蛇に見えてしまう。

私たちは相手が何者かわからない時には、それが何か普通の何倍も恐ろしい存在に見えてしまうのです。だからこそ目を反らさず、光を灯して相手が何者かを知らねばなりません。

歴史や文化を学ぶというのはそういうことなのではないかと私は思うのです。

それに、そもそも私たちはロシアのことをどれだけ知っているのでしょうか。報道で流れてくる情報以上に私たちはどれほどロシアのことを知っているのでしょうか。

そして意外と盲点なのは、そもそもウクライナのことを私たちはどれだけ知っているのかという点です。

ロシアの非道さ、恐ろしさが報道される中で、そもそもウクライナがどんな国なのかというのは私たちにはほとんどわかりません。

報道では恐怖に震える子どもたちや恋人と離れ離れになった女性など、見る者の感情を揺さぶるようなセンセーショナルな映像がどんどん流れてきます。

ですが、この戦争が始まってからロシアとウクライナに関する本を集めて気付いたのですが、ウクライナの本がほとんどないのです。ロシアに比べて圧倒的に本が少ないのです、ウクライナは。

つまり、ウクライナが何者なのかということがほとんどわからないのです。ウクライナがどんな歴史を経た、どのような国なのかというのがどうしてもわからないのです。

私はこれまで2年以上、ロシアについての様々な本を読んできました。ですが、正直それでもロシアのことをわかったなんてとてもじゃありませんが言えません。今でも謎の国ロシアのままです。

ですが、私にとってさらに悩ましいことに、ウクライナはもっとわからないのです。

どんな歴史を経たどのような国なのかもわからずにウクライナを全面的に善と捉え、ロシアを完全なる悪魔と決めつけるのははたして本当に事態の解決に役立つのだろうかと私は自問自答してしまいました。

ソ連から独立後どんな経緯で今に至ったのか、そもそもロシア帝政時代、ソ連時代にウクライナはロシアをどう思っていたのか、クリミア侵攻の経緯やその後の展開を本当に私はわかっているのだろうか。

そうであるのにウクライナ・ロシアを善玉悪玉と単純化して物事を捉えるのは、今後の展開を考えると逆に危険ではないかと私は恐れているのです。

もちろん、何事も100%完全にわかるということはありえません。ですが、何も知らないのと、少しでもその経緯を知っているのでは全くその意味は変わってきます。

軍事侵攻をしたロシアはたしかに悪いです。ですがなぜそれが起きてしまったのか、それが起きるまでの伏線は何だったのか、ロシアは何を求めているのか。

さらに言えば今回のロシアによるウクライナ侵攻はこの二国間だけの問題ではありません。そこには欧米諸国の思惑も絡んでいます。ウクライナは欧米の経済や軍事にとっても非常に重要なものとなっています。単にロシアが悪で済ませられる問題ではありません。

こうした複雑な国際情勢の中でウクライナ侵攻は起こっています。単にウクライナ・ロシアを善玉悪玉で単純化してしまうのはこうした複雑さを覆い隠すことになってしまいます。それこそ最も恐ろしい事態です。

私たちは恐怖や怒り、不安など感情を揺さぶるような報道に囲まれています。

私はメディアそのものを全て信用してはいけないと言いたいわけでは決してありません。

ですが、メディアは意図を持ってニュースを報道します。私たちが見るニュースは事実そのものではありません。それはニュースを作った側の解釈が紛れ込んだものです。

このことは歴史家E・H・カーが警告していた事実です。私たちはメディアが流すセンセーショナルなニュースについ煽られてしまいます。ですが、「そのニュースは本当に信じていいのだろうか」という一歩引いた冷静な視点は絶対に失ってはならないと思います。

怒りや不安、恐怖に流されてはいけません。

一歩引き、大きな視点で考えてみること。それが大切です。

もちろん、逆張りしすぎて陰謀論にはまってしまったらそれはそれでまた問題ですが、まずは怒りや不安、恐怖に流されて即断即決をしないことです。多くの人がそうした感情的な行動に走った時、戦争は起こります。戦争をしたい人、世の中を混乱させて利益を得ようとする人は人間のそうした傾向を必ず利用します。

これは歴史が証明しています。

だからこそ歴史を学ぶのです。

もう一度言います。

相手が何者かわからない時、恐怖は何倍にもなります。恐怖は私たちから判断力を奪います。

私たちはロシアのこと、ウクライナのことをどれだけ知っているでしょうか。

少なくとも、私はこの2つの国のことがわかりません。だからこそこれらの国がどんな国かを決めつけることもできません。

戦争は断固反対です。国際法を破りウクライナを武力侵攻したロシアの行動にも断固抗議します。

ですが、私は善玉悪玉という単純化を恐れます。

単純化は問題の解決にはなりえません。たとえ一時解決したかのように見えても必ずどちらかに禍根を残します。そしてそれが将来の争いの種になります。

だからこそ相手の歴史や文化を学び、その背景や実態も学ばなければなりません。もちろん、私は「ウクライナ側にも原因があるのだから侵攻は仕方がない」などと言うつもりは決してありません。ですがなぜこうなったのかという背景を学ぶことは長期的な平和のためにも欠かせないことなのではないかと私は思うのです。

私はこれまでこのブログを通してソ連時代の歴史や、独ソ戦、冷戦のことを学んできました。かつてソ連やロシアが行っていたことは擁護できるものではありませんし、今回の侵攻もそうです。

ですがそれでもなお戦争・紛争は善玉悪玉と単純化できるものではありません。信じられないほど複雑な国際情勢の中で世界は動いています。なぜロシアが今このような行動を取っているのかを考えるためにも、歴史や文化を学ぶことは大切なのではないかと思います。

そしてロシアやウクライナの歴史を学ぶことは日本の未来や平和を考えることにも繋がります。戦争はなぜ起こるのか、平和とは何なのか。世界の歴史を学ぶことは私たちの生きる日本の歴史を振り返ることにも繋がります。歴史は形を変えて繰り返すとよく言われます。今こそ私たちも大きな視点で歴史を学ぶ時なのではないでしょうか。

長くなってしまいましたが私の個人的な「戦争反対声明」は以上になります。

一人の僧侶として、一人の人間として、この声明を書かせて頂きました。ニュースで流れてくる悲惨な映像が本当に辛いです・・・

一刻も早くこの悲劇が終わることを心から祈っています。

合掌 南無阿弥陀仏

※以下、ロシア・ウクライナ情勢を知るための参考書をまとめたカテゴリーページです。参考にして頂けましたら幸いです。特に「現代ロシアとロシア・ウクライナ戦争」のペ―ジではこの戦争に直結する本をまとめていますのでぜひ見て頂けたらと思います。

ロマノフ王朝ロシアの歴史・文化

レーニン・スターリン時代のソ連の歴史

独ソ戦~ソ連とナチスの絶滅戦争

スターリンとヒトラーの虐殺・ホロコースト

冷戦世界の歴史・思想・文学に学ぶ

ボスニア紛争とルワンダ虐殺の悲劇に学ぶ~冷戦後の国際紛争

ディストピア・SF小説から考える現代社会

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