E・H・カー『歴史とは何か』要約と感想~歴史はいかにして紡がれるのかを問う名著

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E・H・カー『歴史とは何か』要約と感想~歴史はいかにして紡がれるのかを問う名著

今回ご紹介するのは1962年に岩波書店より発行されたE・H・カー著、清水幾太郎訳の『歴史とは何か』です。

歴史とは現在と過去との対話である。現在に生きる私たちは、過去を主体的にとらえることなしに未来への展望をたてることはできない。複雑な諸要素がからみ合って動いていく現代では、過去を見る新しい眼が切実に求められている。歴史的事実とは、法則とは、個人の役割は、など歴史における主要な問題について明快に論じる。

Amazon商品紹介ページより

E・H・カーは1892年生まれで、ケンブリッジ大学で学んだ後、外交官の道を歩んでいます。外務省のロシア課に勤務した経験からロシアの歴史や文化に関心を持つようになっていったそうです。

1936年に職を辞してからはウェイルズ大学の国際政治学の教授として活躍していました。

そしてE・H・カーといえばドストエフスキーマルクスの伝記でも有名です。

これらの伝記を手掛けたE・H・カーによる歴史論が本書『歴史とは何か』となります。

この本が名著として長年大切にされてきたのにはやはり理由があります。

何と言っても、タイトルの通り「歴史とは何か」という大問題をカー流の鋭い分析で私たちにわかりやすく展開してくれます。

カーは「歴史とは何か」という本題に入るにあたり、第一章で次のように述べています。

十九世紀は、大変な事実尊重の時代でありました。『辛い世の中』〔ディケンズの小説〕の主人公グラドグラインド氏は次のように申しました。「私が欲しいのは事実です。……人生で必要なのは事実だけです。」十九世紀の歴史家たちは概して彼と同じ意見だったのです。

一八三〇年代、ランケは道徳主義的歴史に対して正当な抗議を試み、歴史家の仕事は「ただ本当の事実を示すだけである」と申しましたが、この必ずしも深くないアフォリズムは目覚ましい成功を収めたものであります。

約一世紀の間、ドイツ、イギリス、いや、フランスの歴史家たちさえ、「本当の事実」という魔法の言葉を呪文のように唱えながら進軍して参りました。そして、この呪文も、大部分の呪文と同じように、自分で考えるという面倒な義務から歴史家たちを免かれさせるように作られたものでありました。

科学としての歴史ということを熱心に主張する実証主義者たちは、その強大な影響力に物を言わせて、この事実崇拝を助長しました。先ず、事実を確かめよ、然る後に、事実から汝の結論を引き出すべし、と実証主義者たちは申しました。

イギリスでは、こういう歴史観は、ロックから、バートランド・ラッセルに至るイギリス哲学の支配的潮流である経験論の伝統と完全に調和しました。経験主義の知識論では主観と客観との完全な分離を前提いたします。感覚的印象と同様に、事実は外部から観察者にぶつかって来るもので、観察者の意識から独立なものだというのです。これを受け取る過程はパッシブなもので、つまり、所与を受け取った後に、観察者がこれに働きかけるというのです。

オックスフォード中辞典は、便利な代りに経験主義学派の宣伝を勤めている書物ですが、これによりますと、事実とは「推論とは全く違う経験の所与」であると定義され、ニつの過程が別々のものであることを明らかにしております。これは、常識的歴史観と呼ぶべきものです。歴史は、確かめられた事実の集成から成るということになります。
※一部改行しました

岩波書店、E・H・カー著、清水幾太郎訳『歴史とは何か』2019年第90刷版P4-5

「歴史とは科学的に実証された客観的なもの、つまり『本当の事実』であり、それを歴史家が受け取り歴史を紡いでいく」というのが19世紀の歴史の受け取られ方だったとカーはここで述べます。

歴史とはあくまで科学的に実証された客観的事実だと。これが何よりも重要だと信じられていました。

しかしカーはそうした考え方に異議を呈します。

歴史的事実とは何か。これは、少し綿密に研究せねばならぬ重大な問題であります。

常識的な見方によりますと、すべての歴史家にとって共通な基礎的事実というものがあって、これが謂わば歴史のバックボーンになる、へスティングス〔ウィリアム征服王が上陸して北方イギリス人と戦った土地〕の戦闘が行なわれたのは一〇六六年だという事実などがその例だというのです。

けれども、この見方については次の二つの考察が必要になります。

第一に、歴史家が特別に関心を持つのは、こうした事実ではありません。大戦闘が行なわれたのが一〇六六年であって、一〇六五年や一〇六七年でないこと、それが行なわれたのがへスティングスであって、イーストボーンやブライトンではないこと、こういうことを知るのは確かに大切でしょう。歴史家はこういう点で間違いがあってはなりません。

しかし、こういう点が強調されるたびに、私は、「正確は義務であって、美徳ではない」というハウスマン〔Alfred Edward Housman,1859-1936 イギリスの古典学者〕を思い出します。

正確であるといって歴史家を賞讃するのは、よく乾燥した木材を工事に用いたとか、うまく交ぜたコンクリートを用いたとかいって建築家を賞讃するようなものであります。こういうことは彼の仕事の必要条件であって、彼の本質的な機能ではありません。(中略)

すべての歴史家にとって共通な、謂わゆる基礎的事実なるものは、通常、歴史家が用いる材料に属するもので、歴史そのものに属すものではありません。

第ニの考察というのは、こういう基礎的事実を明らかにする必要といっても、それは事実そのものの何らかの性質によるものではなく、歴史家のアプリオリの決定によるものだということであります。

C・P・スコットのモットーにも拘らず、現代のジャーナリストなら誰でも知っている通り、輿論を動かす最も効果的な方法は、都合のよい事実を選択し配列することにあるのです。

事実はみずから語る、と言い慣わしがあります。もちろん、それは嘘です。事実というのは、歴史家が事実に呼びかけた時にだけ語るものなのです。いかなる事実に、また、いかなる順序、いかなる文脈で発言を許すかを決めるのは歴史家なのです。(中略)

一〇六六年にへスティングスで戦闘が行なわれたことを知りたいと私たちが思う理由は、ただ一つ、歴史家たちがそれを大きな歴史的事件と見ているからにほかなりません。

シーザーがルビコンという小さな河を渡ったのが歴史上の事実であるというのは、歴史家が勝手に決定したことであって、これに反して、その以前にも以後にも何百万という人間がルビコンを渡ったのは一向に誰の関心も惹かないのです。

みなさんが徒歩か自転車か自動車で三十分前にこの建物にお着きになったという事実も、過去に関する事実という点では、シーザーがルビコン河を渡ったという事実と全く同じことであります。しかし、それは恐らく歴史家が無視するでしょう。(中略)

歴史家は必然的に選択的なものであります。歴史家の解釈から独立に客観的に存在する歴史的事実という堅い芯を信じるのは、前後顛倒の誤謬であります。しかし、この誤謬はなかなか除き去ることが出来ないものです。
※一部改行しました

岩波書店、E・H・カー著、清水幾太郎訳『歴史とは何か』2019年第90刷版P7-9

少し長くなりましたが、この作品の核心たる言葉がここで語られることになりました。

「事実はみずから語る、と言い慣わしがあります。もちろん、それは嘘です。事実というのは、歴史家が事実に呼びかけた時にだけ語るものなのです。いかなる事実に、また、いかなる順序、いかなる文脈で発言を許すかを決めるのは歴史家なのです。」

「歴史家は必然的に選択的なものであります。」

歴史家が語る歴史というのは、客観たる事実ではなく、選択的なものでありそこに必然的に歴史家自身の解釈や物語が現れてくるというのがカーの説になります。

だからこそ、

「現代のジャーナリストなら誰でも知っている通り、輿論を動かす最も効果的な方法は、都合のよい事実を選択し配列することにあるのです」

と、カーらしいチクリとした皮肉をこうして述べているのです。

「歴史とは何か」を学ばなければ、メディアが語る歴史をそのまま鵜呑みにすることになり、結果的にいいように利用されてしまいますよとカーはここで述べているのです。歴史は客観的事実そのものでなく、歴史家によって選択的に物語られるものなのだということをこの本では読者に対し警告しています。

この本ではこの後もそうしたカーの鋭い指摘がどんどん続いていきます。すべてを紹介することは分量上厳しいので、私の中で特に印象に残った言葉をいくつか紹介したいと思います。

事実と文書とは歴史家にとって大切なものです。けれども、事実や文書を祭り上げてはいけません。事実や文書が自分で歴史を形作るのではないのです。

岩波書店、E・H・カー著、清水幾太郎訳『歴史とは何か』2019年第90刷版P21-22

「事実や文書を祭り上げてはいけません」という言葉の迫力たるや・・・!世界的な歴史家E・H・カーが言うと重みが全然違います。

現在の眼を通してでなければ、私たちは過去を眺めることも出来ず、過去の理解に成功することも出来ない(中略)

歴史家は彼自身の時代の人間なのであって、人間存在というものの条件によってその時代に縛りつけられているのです。

岩波書店、E・H・カー著、清水幾太郎訳『歴史とは何か』2019年第90刷版P31

これも非常に重要な指摘です。私たちは過去の出来事を見る際に、無意識に現代の私たちの視点で物事を見てしまいます。当時の時代背景、思想は現代とは全く違いますし、場所の違いもあります。そうであるのにそうした違いを忘れてしまい、今の基準で過去を判断しようとする。難しいことに、こうしたことをどれだけ意識しようと、過去の同時代人とはどうしても同じようには見ることはできません。

つまり、過去の歴史は常に「今の私たちの歴史観・世界観」の問題になってしまうのです。

過去の歴史は無限に「今」を問うてくる問題だというのはこうしたことに根があります。

そして次の言葉がこの本で私が一番インパクトを受けたものになります。

前回の講演で私は次のように申しました。「歴史を研究する前に、歴史家を研究して下さい。」今は、これに附け加えて、次のように申さねばなりません。「歴史家を研究する前に、歴史家の歴史的および社会的環境を研究して下さい。」歴史家は個人であると同時に歴史および社会の産物なのです。歴史を勉強するものは、こういう二重の意味で歴史家を重く見る道を知らねばならないのです。

岩波書店、E・H・カー著、清水幾太郎訳『歴史とは何か』2019年第90刷版P61

・・・すごい言葉ですよね。

「歴史を勉強する前に歴史家を研究してください。いや、歴史家を研究する前にその歴史家の歴史と社会環境を研究してください」という、とてつもなくスケールの大きい勉強法をカーはここで述べてくれています。

ですが、これはある意味私がこれまでずっと大切にしてきた視点でもあります。

私はこれまでも宗教を学ぶ際には「宗教は宗教だけにあらず」という視点を大切にしてきました。宗教という次元だけで語られたものを鵜呑みにすると、どうしても見逃してしまうものが出てきてしまいます。

だからこそ、歴史や文化、地理、民族、時代、政治経済などなど様々な観点から宗教や思想を見ていく必要があるのではないかと私は感じています。

E・H・カーの『歴史とは何か』は私たちが当たり前のように受け取っている「歴史」というものについて新鮮な見方を与えてくれます。歴史を学ぶことは「今現在を生きる私たちそのものを知ることである」ということを教えてくれる貴重な一冊です。この本が名著として受け継がれているにはやはりそれだけの理由があります。

ロシア・ウクライナ問題で揺れる現在においても、ぜひぜひおすすめしたい作品です。

以上、「E・H・カー『歴史とは何か』要約と感想~歴史はいかにして紡がれるのかを問う名著」でした。

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