木村元彦『オシム 終わりなき闘い』~紛争後も民族対立が続くボスニアで何が起きているのかを知るのにおすすめ

現代ロシアとロシア・ウクライナ戦争

木村元彦『オシム 終わりなき闘い』概要と感想~紛争後も民族対立が続くボスニアで何が起きているのかを知るのにおすすめ

今回ご紹介するのは2018年に小学館より発行された木村元彦著『オシム 終わりなき闘い』です。

早速この本について見ていきましょう。

祖国融和のため立ち上がった男の闘いの記録

《オシムについてはもう書籍にする気持ちはなかった。
しかし。彼が身を挺して守った祖国がワールドカップに出場しようとしている。(中略)オシムはベンチに入っての現場指揮こそ執っていないが、人生をまだ休んではいない。帰国後も現役として毅然とサッカーの敵と戦い、祖国をサポートしている。》(プロローグより)
ユーゴスラビア紛争終結後20年近く経つ今も、民族対立が続くボスニア・ヘルツェゴビナ。サッカー協会内ではその対立故にFIFAの原則に反し、加盟資格を取り消され、W杯出場が危ぶまれていた。かつて旧ユーゴの最後の代表監督として祖国崩壊に抵抗しようとしたイビツァ・オシムは、日本からの帰国後、脳梗塞の後遺症が残る体を引きずり、W杯出場と人々の融和のために闘っていたーー。
病に倒れ日本中から惜しまれながら代表監督を退いたオシム。その帰国後の知られざる闘いと、サッカーを通し憎しみを乗り越えようとする人々の姿を追った感動の記録、待望の文庫化。

Amazon商品紹介ページより

この作品はこれまで当ブログで紹介してきた木村元彦「ユーゴサッカー三部作」の続編に当たります。

本紹介にもありますように、オシム監督は2007年に脳梗塞で倒れられ、日本代表監督を退任しました。ですが彼はそこから驚異の回復を遂げ、後遺症を残しながらも精力的に祖国の融和のために活動しています。本書はそんなオシム監督の帰国後の活動を通して、紛争から20年経った今のボスニアについて知ることができる作品となっています。

巻末には「難民を助ける会(AAR Japan)」の長有紀枝会長による解説が掲載されています。

長有紀枝会長については以前当ブログでもボスニア紛争について学んだ際にその御著作を紹介しました。

これらはボスニア紛争を考える上で必読と言ってもよい作品です。

では、巻末の長有紀枝会長の言葉を見ていきましょう。

稀代のノンフィクション作家、木村元彦さんの手になるユーゴサッカー3部作『誇り ドラガン・ストイコビッチの軌跡』『悪者見参 ユーゴスラビアサッカー戦記』『オシムの言葉』。その完結編ともいえる本作『オシム 終わりなき闘い』。

サッカーファンや、木村ファン、その金言や生き方に魅せられたオシムファンは言うに及ばず、ボスニア紛争やバルカン地域を学ぶ学生、そして研究者にとっても、必読の書である。難民支援や平和構築に携わる実務者・研究者にとってさえ最良のテキストといえる。オシムや一家の体験を軸にたどるユーゴ紛争、離散した難民の生活と祖国への思い、オシムはじめ関係者がそれぞれの立場で語るボスニア紛争の原因と経緯は、歴史書や解説書を補完し、時に凌駕する、貴重な証言集でもある。「単行本あとがき」で木村さんは第2章と第4章を、「若い学究の方に参考にでもしていただければ書き手として望外の幸せ」と謙遜しておられるが、本書でオシムが、そしてそれに呼応した政治家や民族主義者が語り、行動したこと、さらに木村さんが独自の視点から切り取り、記録した出来事と証言の数々は、たぶん木村さんや私たち読者が考える以上に重要な記録だ。

私は、難民を助ける会(AAR Japan)という日本の国際協力NGOの職員として、1991年の旧ユーゴ紛争勃発時から1999年のNATOによるコソボ及びユーゴ空爆の時まで、現地駐在員として、あるいは出張者としてこの地にかかわってきた。NATOの空爆の折には、外国人がまとめて宿泊させられていたホテルの高層階から、まさに目の前をトマホークが閃光とともに横切り、発電施設を空爆するさまも目の当たりにした。その後、研究者として取り組んだ博士論文では、オシムの半身ともいえるアシマ夫人も当事者であったサラエボ包囲や、スレブレニッツァの虐殺の首謀者とされる人物やその家族と面識があったことから半ば逃れられない定めのようにスレブレニッツァの虐殺に取り組んだ。前半を実務家として、後半を研究者として触れたこの地は、まさに幾世代にもおよぶ憎悪の渦巻く土地であり、一連の木村作品に登場する、サッカーチームのホームや選手の故郷は、単なる地名ではなく、木村さんが絶妙のタイミングで解説をはさんでおられるように、虐殺の現場の地名であったりする。オシムの故郷、グルバヴィッツァもまたしかり。1995年春、視察中のグルバヴィッツァで「ヒュン」という空気を切り裂く音とともに、すぐ近くの廃墟に銃痕が刻まれたことを思い出す。セルビア側のスナイパーのいる方角からではない。犯罪の量に違いはあるが質においては三民族同様といわれる三つ巴の戦いの中で、民間人を狙うスナイパーはいずれの側にもいて、犠牲者もまたいずれの民族にもいたのである。

小学館、木村元彦『オシム 終わりなき闘い』P318-320

本書ではこの後も詳細な解説が語られます。続きはぜひこの本で読んで頂けたらなと思います。

ここで長有紀枝会長が述べられていたように、この紛争は誰もが被害者となり、加害者にもなりうる悲惨なものでした。

木村元彦氏も本文で次のように述べています。

「ボスニア紛争を語る上で重要なのは3つのどの民族も自分たちこそが被害者だと考えているということだ。それぞれが他の民族に行なった加害性については微塵も意識をしていない」

もはや信頼ができず、3民族で共生しようという思考よりも、政治的な案件が持ち上がる度にそれぞれの権力者は、排除したい民族を孤立させるために都合のよい歴史的解釈で、残る1民族に同盟を呼びかけて出し抜こうとしているという。

セルビアがクロアチアと組もうとするときは、「9世紀に東方正教とカトリックに分かれてしまったが、自分たちは同じキリスト教徒である」と正統性を主張する。

クロアチアがムスリムと提携しようとするときは、第二次大戦でクロアチア独立国(NDH)を建国したアンテ・パヴェリッチがムスリムを味方につけようとした言葉を引用し、「NDHはボスニア領土も含んでいてムスリムもクロアチアの一部だった。『ムスリムは美しいクロアチアの花』である」と大クロアチア主義の視点から仲間とする。

そしてムスリムがセルビアと同盟を結ぼうとするときは、「我々は15世紀にオスマン帝国の支配下でイスラム教に改宗したが元は同じ南スラブ人で同じ根を持つ同胞だ」と。

これらのご都合主義の根拠から見ても、ボスニアの民族がいかに政治的な理由で誕生した新しい概念であるかがわかる。換言すれば、そのようなフィクショナルなもので民族の「内」と「外」を作られて互いに排除し、殺し合いをさせられてしまった市民にとってこれ以上の悲劇はない。

小学館、木村元彦『オシム 終わりなき闘い』P103-104

「これらのご都合主義の根拠から見ても、ボスニアの民族がいかに政治的な理由で誕生した新しい概念であるかがわかる。換言すれば、そのようなフィクショナルなもので民族の「内」と「外」を作られて互いに排除し、殺し合いをさせられてしまった市民にとってこれ以上の悲劇はない。」

ソ連が崩壊し、民主主義によって政治を行おうとすると、当然選挙に勝たなければなりません。そして選挙に勝つために何が一番効果的で手っ取り早いか。

その答えが民族の対立を煽ることなのです。

私たちは「民主主義=絶対善」のようなイメージを持ってしまいがちです。

ですが、これまでそのような概念がなかった地域にいきなり民主主義を持ち込むとどんなことになるのか。それはボスニア紛争を含め、世界中で悲惨な結果を招いています。イラクやアフガニスタンもまさしく機能不全に陥り、復興の兆しすら見えません。

もちろん、「だから独裁政治のほうがいいのだ」と言うつもりはありません。ですが「民主主義」が万能の解決策であるかのように無条件に考えてしまうのはさらなる混乱を招く危険性があることは忘れてはいけないと思います。

最後に、この本の中でも非常に印象に残った箇所を紹介します。これは文庫版の著者あとがきの言葉です。

2018年は朝鮮半島情勢が劇的に動いた。卓球においてはITTFの提案によって南北統一チームも作られた。

一方、バルカン半島情勢はコソボがアルバニアとの合併を強く希求したことであらたなアルバニアナショナリズムが台頭してきている。

オシムは来日こそしていないものの、これらの世界情勢を踏まえた上での日本サッカー界への提言をあくことなく続けている。これはオシムだけではなく、かつてJリーグで指揮を執った外国人監督たちはほぼ例外無く、日本のサッカーを気にかけてくれている。

だからこそ、田嶋会長がハリルホジッチを解任して西野朗を代表監督の後釜に据えた際に発した発言を私は看過できない。

「この危機をしっかりいい方向に持っていきたい。オールジャパンで。日本が団結していくいいチャンスにしたい」(4月9日記者会見)

あたかも指揮官が外国人であったことが、団結を妨げていたかのような物言いである。ロシア大会から逆算してチームを作っていたハリルホジッチの本番での采配を取り上げ、その理由や責任を追及してくるサポーターやメディアをナショナリズムで慰撫しようという意図が透けてみえる。それは外国人を悪者にして逃げている姑息な態度である。

日本サッカーの父、テッドマール・クラマー以降、今まで代表強化、クラブ強化に尽くしてくれた多くの外国人指導者に対する冒とくとも言えよう。

サッカーこそ民族の壁を越えられるすばらしいスポーツではないのか。今一度、オシムの仕事を伝えたいと強烈に思って文庫化の仕事を成し遂げた。

小学館、木村元彦『オシム 終わりなき闘い』P316-317

これまで「サッカーはその土地その土地の歴史や文化を反映する」ということを当ブログで見てきました。特にオシム監督の目指すサッカーは、サッカーだけにとどまらず人生哲学そのものでもありました。

では、今の日本のサッカー文化とは何なのでしょうか。

木村元彦氏のあとがきの言葉は非常に大きなものがあると思います。

皆さんはどう思いますか?

以上、「木村元彦『オシム 終わりなき闘い』紛争後も民族対立が続くボスニアで何が起きているのかを知るのにおすすめ」でした。

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