目次
はじめに
エミール・ゾラ(1840-1902) Wikipediaより
前回の記事「ゾラから見るフランス人と日本人の道徳観の違いと時代背景」ではフランスと日本の道徳観の違いから、なぜゾラが日本でマイナーなのか、そして同時にドストエフスキーがなぜ日本で圧倒的な人気を誇るのかということも考えてみました。
今回の記事ではゾラとドストエフスキーの人間観の違いからゾラとドストエフスキーについて考えていきたいと思います。
なぜゾラは日本でマイナーなのか―ゾラとドストエフスキーの人間観の違い・空白の有無
ゾラは小説家は科学的であれという信念を持っていた作家でした。
ゾラの特徴は当時急速に発展しつつあった科学の知見を小説に用いるところにあります。
つまり、人間は単独で存在するのではなく時代、環境、遺伝に強い影響を受けているため、これらを精密に分析すれば自ずとその人間の心理的背景も見えてくるとゾラは考えるのです。
科学はあいまいさ、空白を嫌います。
つまり、2+2は4であり、2×2は4でなければならないのです。
小説の登場人物で言うならば、
「この人がこういう行動をするのは、環境がこうで、遺伝的にもこうだし、こういう理由が考えられる。
彼は〇〇だからこのような行動をし、その心理状態はしたがって~~である。」
とゾラは明確に捉えようとします。
ゾラはとにかく合理的に人間を分析しようとするのです。
『居酒屋』の主人公ジェルヴェーズがどんどん悲惨な状況に落ち込んでいく過程を描く時も、そのひとつひとつを観察し、原因を詰めていきます。
『獣人』でも、主人公ジャックが殺人を犯した理由をゾラは合理的に分析していきます。
すなわち、ゾラは「こうだからこうなのだ」という極めて合理的な人間観察をする傾向があるのです。
それに対してドストエフスキーは、「人間とは不合理な存在である」という人間観を持った作家です。彼は二二が四の論理をひたすら嫌うのです。(※以前紹介した「ドストエフスキー思想の古典 シェストフ『悲劇の哲学 ドストイェフスキーとニーチェ』」の記事を参照)
人間は複雑怪奇で何をしでかすかわからない。「こうだからこうなる」という合理的なものなど通用しないのだとドストエフスキーは考えるのです。
彼の小説では興味深いことに、「突然」という言葉や、「ふと」、「いきなり」、「不意に」などの言葉がものすごい頻度で出てきます。
登場人物がいきなり奇妙なことをしだしたり、歪んだ謎の表情を見せたり、予想もつかないような感情の変化を見せたりするのです。
なぜその人間がそんなことをするのか、その人が何を考えているのかがはっきりと明示されないのがドストエフスキー小説なのです。
「こういうことがあったからこうこうこうなり、その結果ドストエフスキーはこう思い、こうこうこうなっていくのだ」という推論がドストエフスキーには通用しないことが多々あります。
これがドストエフスキーの大きな特徴であると思います。
ドストエフスキー作品は私たちが推論しなければならない空白があまりに多い作家なのです。(ドストエフスキーの空白についてはこちらの「ドストエフスキー資料の何を読むべき?―ドストエフスキーは結局何者なのか」の記事を参照)
ドストエフスキー小説には、ゾラのように合理的に「こうだからこうなのだ」という明確な道筋がありません。
ですが、この空白があるからこそ、読者である私たちはドストエフスキーが実際に何を考えてその物語を書いたのか、その登場人物の心はどうなっているのかを推論することができるのです。
空白があるからこそ、それぞれがああでもないこうでもないと頭をひねり、「私はこう考えたんだけれどもあなたはどう思う?」という議論が生まれてきます。
「私は、ドストエフスキーがここで述べているのは神の問題だと思う」
「いやいや、そこは神ではなく、人間の道徳の問題でね・・・」
「でもですよ。あなたたちはそう言うが私が思うのはね・・・」
などなど。
そうして議論が議論を呼び、ドストエフスキー論争がどんどん盛り上がっていくことになるのです。
こうしてドストエフスキー理解の様々な意見が提出され、それらはどんどん体系化され、学問として成立していきます。
こうして研究は深まり、膨大な参考書が生まれ、よりドストエフスキー研究が広まっていくのです。
それに対しゾラはといえば、肝心の空白がない以上、「あなたはどう思う?」「いやいや私は・・・」という議論がなかなか進みません。
なぜなら、「私」も「あなた」も同じ意見しか持ちようがないからです。
ゾラは「こうだからこう」とはっきり言ってしまっているのですから、それしか答えがないのです。推論しようがありません。
ゾラに関して言えば、小説を読めばそれでわかるのです。
もちろん、「ゾラのすべてがわかる」とかそういう極端なことではなく、ゾラの主張したいことや登場人物たちの心理やその背景などが小説そのものに明確に書かれているということです。
ゾラの小説は謎が少ないのです。
「え?これはどういうこと?なぜこの人はそんなことをするの?何考えてるの?」という疑問が浮かんでこないのです。
だからこそ、「私はこう思ったんだけどあなたはどう思う?」と聞きたくなるような衝動も生まれてこないのです。
これはゾラのいいところでもありますし弱いところなのかもしれません。
謎の多いドストエフスキー作品と違って、ゾラ作品は読んでいてわかりやすく、すらすら読んでいくことができます。
これは言い換えれば、ゾラはいい意味ではわかりやすく、悪い意味では謎がないということなのです。
こうした面からもドストエフスキーには膨大な参考書があるのに対し、ゾラには数えるほどの参考書しかないという事実が浮かび上がってくるのではないでしょうか。
喧々諤々とした議論、思想のぶつかり合いがゾラにはなかなか起こりにくいというのがゾラが日本でメジャーになれなかった要因のひとつではないかと私は感じています。
もちろん、突き詰めて考えていけばゾラにだって謎はたくさんありますし、ドストエフスキーと比べて明らかに思想的に弱いとかそういうことではありません。
あくまでそれはゾラとドストエフスキーの人間観の違いであり、小説の書き方の違いであります。
そうした違いによって日本での受け取られ方がずいぶんと異なることになったのです。
今回はゾラとドストエフスキーの人間観、そして空白の有無という切り口から2人の作家を考えてみました。
空白の有無が謎を呼び、その謎が議論を生み、議論が議論を拡大する。
ゾラとドストエフスキーの違いがこうした面からも見れたのは私にとっても非常に興味深いものでありました。
まとめ
以上、3回にわたって「日本ではなぜゾラはマイナーで、ドストエフスキーは人気なのか」というテーマを考えてきました。
その3つは、
⑴ゾラに対する誤解
⑵フランス人と日本人の道徳観の違いと時代背景
⑶ゾラとドストエフスキーの人間観の違い・空白の有無
というものでありました。
もちろん、ゾラとドストエフスキーの人気の差は他にも様々な要因があるでしょうが、私が感じた3つの大きな点をここまで紹介させて頂いた次第であります。
そしてもしもうひとつ挙げるとするなら、私はゾラ作品のタイトルの地味さを挙げたいです。
「ルーゴン・マッカール叢書」のタイトルは総じて地味で無骨です。
例えば、『居酒屋』、『獣人』、『大地』などなど・・・18巻においては『金』というなんともシンプルすぎるタイトルであります。
それに比べてドストエフスキーの代表作である『罪と罰』、トルストイの『戦争と平和』、ディケンズの『クリスマス・キャロル』などなど、日本でも有名な作品はタイトルもやはり魅力的です。
ゾラ作品も、読んでしまえば無骨ながらもそのタイトルの絶妙さを納得できるのですが、初見の人にはどうしてもインパクトが足りません。
やはり『罪と罰』というタイトルそのものが醸し出す魅力というのも否定できないのではないかと思うのです。
他にもゾラとドストエフスキーを比べていくときりがないので今回はここまでで一応、締めとさせて頂きます。
最後までお付き合い頂きありがとうございました。
以上、「ゾラとドストエフスキーの人間観の違い・空白の有無」でした。
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