MENU

ツルゲーネフ『ファウスト』あらすじと感想~ゲーテの『ファウスト』に影響を受けた恋愛物語

ファウスト
目次

ツルゲーネフ『ファウスト』あらすじ解説―ゲーテの『ファウスト』に影響を受けた恋愛物語

ツルゲーネフ(1818-1883)Wikipediaより

『ファウスト』は1855年ツルゲーネフによって書かれた中編小説です。

私が読んだのは新潮文庫、米川正夫訳の『片恋・ファウスト』所収の『ファウスト』です。

少し長くなりますが巻末解説にわかりやすいあらすじがありましたのでそちらを引用します。

『ファウスト』は一八五五年に書かれた中篇であるが、形式の完備していること、人生観照の目の落ちついていること、性格解剖の深刻で精緻を極めていること、作者の洗練された芸術的エモーションが優れた音楽のごとく全篇に浸透していること、その他多くの点に於いて、ツルゲーネフの全作品中でも、最高水準を形づくるものの一つである。

女主人公のヴェーラは祖母から熱烈な伊太利の血を受けついで、量り知れぬ情慾の力を内部に蔵していると同時に、祖父からは神秘的、超自然的な心的傾向を遺伝している。

いわば異常型の女性であるが、それと同時に、彼女はすぐれた頭脳と洗練された感受性を賦与されたインテリゲントである。

母親の不自然な人工的教育法によって、烈しい南国的な熱情を内部へ深く埋没されてしまったため、単純で無邪気な少女のように明るい心を保ったまま、人の妻となり母となった。

こうして、二十七の年まで、完全な自我の本質を自分でも意識せず、まして他人にもかつて示すことなく、一個の中間的存在として過して来た。

こういう不自然な状態が悲劇を招かずに終るはずはない。

たまたま芸術に対する目を開かれ、人間の愛慾の赤裸々な姿と、その人生における深い意義と、甘美なまよわしを知った時、彼女の内部に深く蔵されていた情慾は、忽然として長い眠りからさめた。

そして、否応のない暴君のごとき猛威を揮って、彼女を恋人の胸へ投じたのである。

しかし、祖父の遺伝として彼女の内部に潜む神秘的傾向のために、彼女は幼い頃からしみ込んだ母の謬れる教育を、振り払うことが出来なかったのである。

温室の花のように、人工的な条件のもとに育てられたヴェーラには、この矛盾相剋に対する抵抗カが全くなかった。彼女は人生におけるこの最初の試煉のもとに、空しく斃れてしまったのである。
※一部改行しました

新潮文庫、ツルゲーネフ、米川正夫訳『片恋・ファウスト』P173-174

この物語は書簡形式で描かれています。手紙の書き手であるP・Bという男性が親友に宛てて直近の出来事について報告していくという流れで物語が進んで行きます。

P・Bが思いがけぬ形で再会したのが女主人公のヴェーラであり、かつて彼は彼女に結婚を申し込むほどの仲でした。しかし彼女の母に断られてしまった過去があります。

再会したヴェーラは夫を持ち母となっていました。

P・Bは複雑な気持ちを抱きながらもヴェーラ一家と交友を復活させることになります。

そこでP・Bが大好きなゲーテの『ファウスト』を朗読することになり、そしてその本をヴェーラに貸してしまうのです。

これが悲劇の始まりでした。

上の解説に述べられていたように、彼女の中に抑え込まれていた感性が爆発し、悲劇的な結末を迎えることになってしまったのです。

『ファウスト』を読んだだけでそんなことが起りうるのだろうか。私は最初読んだ時そんな疑問を持ってしまいましたが、ツルゲーネフにとってはそれほど彼の感性に大きな影響を与えるものとして存在していたのでしょう。

そして、ヴェーラのような抑圧された圧倒的感性を持つ人間が急に人類の最高傑作たる『ファウスト』を読んだらそうなってしまうのも無理はない。そうツルゲーネフは考えたのでしょうか。

いずれにせよ、ツルゲーネフの思想を知る上でこの作品は非常に重要なものとして捉えられているようです。

感想―ドストエフスキー的見地から

この作品が出来上がる背景に非常に興味深い出来事があります。

実はこの作品を書いていた頃、ツルゲーネフはあのトルストイの妹に恋をしていたのです。しかもその妹も人妻だったのです。

ツルゲーネフは『ファウスト』の主人公P・Bの口を借りて次のように述べています。

「私は自分が四十近いことも知っているし、彼女がほかの男の妻であることも、彼女が夫を愛していることも知っている。私は自分をとらえている不幸な感情から、隠された心の傷みと、結局は生きる力の消耗以外には何も残されないことをたいへんよく知っている―私は何もかも知っているのだ。私は何も期待していないし、何も待ち受けてはいない。でも、だからといって私は楽にはならない。」

「私は、いま、やっと女性を愛するとはどういう意味なのかを知った。そのことを語るのは恥かしいことだ、しかし、実際そうなのだ。私は恥かしい……恋とはやはりエゴイズムだ、私の年齢でエゴイストになるのは許さるべきじゃない。三十七歳にもなれば自分のために生きるべきじゃないのだ。何かに役立つことをして、地上に目的を持って生き、自分の義務を、自分の仕事をなしとげるべきなのだ。」

ここには作品の重要テーマが集約的に述べられているばかりでなく、この時期の作者自身の自戒の響きさえある。

筑摩書房、佐藤清郎『ツルゲーネフの生涯』P90

トルストイの妹マリーヤ・トルスターヤとの恋が『ファウスト』の執筆に大きな影響を与えたというのは驚きでした。

そしてこの作品に込められたメッセージがまた何とも物悲しいのです。小椋公人の『ツルゲーネフ 生涯と作品』では次のように解説されていました。

死を前にして、人間の欲求が空しいものであること、青春と共に消え去った幸福への期待が空虚であること、それを求めようとすることが無駄で利己的であることを、作者はこの作品で語っている。(中略)

彼は幸福に対する無益な熱望を捨て去ることが必要であることを主張している。

『ファウスト』のフィナーレには次のように書かれている。

「最近の数年間の経験から、僕は一つの確信を得たのだ。生活は冗談でもなければ慰みでもない。またそれは享楽でさえもない……。生活は苦しい労働なのだ。欲望の拒否、不断の拒否―これこそ人生の秘められた意味であり、その謎を解く鍵である。

たとえいかに崇高なものであろうとも、好きな想念や空想の実行ではなく、義務を履行すること、―これこそ人間が心がけなければならないことである。自分の体に鎖をかけなかったら、義務という鎖をかけなかったら、人間は人生行程を最後まで倒れることなしに行きつくことはできない……。」

この最後の言葉は、作品全体の芸術的構成から見れば決して理性的なひびきをもって伝わってはこないで、作品は美しい、詩的な、挽歌的な調子で書かれており、この意味で説話者は神秘的な力の前に淋しく諦めの境地に入っていく。

「お前はあきらめねばならぬ、あきらめねば」という題詞がそれを物語っている

法政大学出版局、小椋公人『ツルゲーネフ 生涯と作品』P105-106

ツルゲーネフの後半生の作品は憂鬱な気分にさせるものが多いです。そのきっかけとなった時期がまさにこの頃であると言われています。

上の解説にもありましたように「あきらめなければ」という諦念がツルゲーネフを強く覆っていくことになります。

この辺りでも激情家ドストエフスキーとの大きな違いを感じさせられます。ドストエフスキーは最後の最後まで諦めずに人生と戦い続けた男のように私は感じています。

それに対しツルゲーネフは時代を俯瞰し、達観した賢者のごとく静かな憂鬱に身を任せます。

こうした違いが文学の上にも明らかに出てくるのだなと思いながら私はこの作品を読んだのでありました。

以上、「ツルゲーネフ『ファウスト』あらすじ解説―ゲーテの『ファウスト』に影響を受けた恋愛物語」でした。

Amazon商品ページはこちら↓

片恋,ファウスト (新潮文庫 ツ 1-4)

片恋,ファウスト (新潮文庫 ツ 1-4)

次の記事はこちら

あわせて読みたい
ツルゲーネフ『アーシャ(片恋)』あらすじと感想~二葉亭四迷の翻訳で有名な恋物語 この小説はアーシャとN・Nの恋物語が主軸ですが、『猟人日記』時代からのツルゲーネフの最大の魅力である美しい情景描写がこれでもかと出てきます。 次に何が起こるかわからない混沌とした心理ドラマを描くドストエフスキー。 ため息を誘うほど美しい世界の中、甘くも苦しい恋に身を焦がす二人のドラマを描くツルゲーネフ。その違いがとてもくっきりするような作品でした。

前の記事はこちら

あわせて読みたい
ツルゲーネフ『ルーヂン』あらすじと感想~ロシアのハムレット「余計者」を生み出した名作! この作品の主人公ルーヂンは洗練された立ち振る舞いや圧倒的な弁舌の才によって田舎の人々をあっという間に魅了してしまう魅力的な好男子です。 しかしその正体はなんと悲しきかなや、単なる空っぽな人間だったのです。彼には確固たる意志もなく、社会のどこにいてもうまくやっていけない社会不適合者だったのです。

ツルゲーネフのおすすめ作品一覧はこちら

あわせて読みたい
ロシアの文豪ツルゲーネフのおすすめ作品8選~言葉の芸術を堪能できる名作揃いです 芸術家ツルゲーネフのすごさを感じることができたのはとてもいい経験になりました。 これからトルストイを読んでいく時にもこの経験はきっと生きてくるのではないかと思います。 ツルゲーネフはドストエフスキーとはまた違った魅力を持つ作家です。ぜひ皆さんも手に取ってみてはいかがでしょうか。

関連記事

あわせて読みたい
ゲーテ『ファウスト』あらすじと感想~ゲーテの代表作の面白さを味わうために必要なものとは かつて、『ファウスト』は私の中で苦手作品の筆頭にある存在でした。 しかし今となっては私の大好きな作品のひとつになりました。この本を「面白い!」と感じられた瞬間の喜びは生涯忘れないと思います。 この記事では私がいかにして『ファウスト』を楽しく読めるようになったかをお話していきます。いわば『ファウスト』を読むコツです。ぜひおすすめしたい記事です。
あわせて読みたい
ロシアの文豪ツルゲーネフの生涯と代表作を紹介―『あいびき』や『初恋』『父と子』の作者ツルゲーネフの... ドストエフスキーのライバル、ツルゲーネフ。彼を知ることでドストエフスキーが何に対して批判していたのか、彼がどのようなことに怒り、ロシアについてどのように考えていたかがよりはっきりしてくると思われます。 また、ツルゲーネフの文学は芸術作品として世界中で非常に高い評価を得ています。 文学としての芸術とは何か、そしてそれを補ってやまないドストエフスキーの思想力とは何かというのもツルゲーネフを読むことで見えてくるのではないかと感じています。 芸術家ツルゲーネフの凄みをこれから見ていくことになりそうです。
あわせて読みたい
ツルゲーネフの代表作『猟人日記』あらすじと解説~ツルゲーネフの名を一躍文壇に知らしめた傑作 『猟人日記』ではツルゲーネフの芸術性がいかんなく発揮されています。彼の自然に対する美的センスは並外れたものがあるようです。 また、この作品は彼の幼少期、虐げられた農奴の姿を目の当たりにしていたことも執筆の大きな要因となっています。
あわせて読みたい
二葉亭四迷で有名『あいびき』あらすじと感想~ツルゲーネフの『猟人日記』に収録された名作 『あいびき』は二葉亭四迷によって日本に紹介され、日本文学界に大きな影響を与えました。当時はドストエフスキーやトルストイよりも、ツルゲーネフがまずロシア第一の作家として日本では流行していました。 おそらく日本において最も知られているツルゲーネフ作品のひとつがこの『あいびき』であるのではないでしょうか。
あわせて読みたい
ツルゲーネフ『ムムー』あらすじ解説―農奴と子犬の切ない物語 この作品はツルゲーネフ作品の中でもトップクラスにドラマチックな作品なように私は感じます。 ゲラーシムの素朴な善良さ、そしてそれに対置される女地主や執事。 そして何より子犬ムムーとの心温まる日々。 ですが、そんな幸せな日々が女地主の横暴で不意に終わりを迎えます。
よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

真宗木辺派函館錦識寺/上田隆弘/2019年「宗教とは何か」をテーマに80日をかけ13カ国を巡る。その後世界一周記を執筆し全国9社の新聞で『いのちと平和を考える―お坊さんが歩いた世界の国』を連載/読書と珈琲が大好き/

コメント

コメントする

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

目次