(22)真に正しい人は狂人か?ドストエフスキーの『白痴』との関連性について

「ユゴーの原作『レ・ミゼラブル』を読む」(22)真に正しい人は狂人か?ドストエフスキーの『白痴』との関連性について
第一部 ファンチーヌ 第七章 シャンマチウ事件 ⑷
「わたしがジャン・ヴァルジャンです」
法廷で突如自白したジャン・ヴァルジャンに廷内の人々は呆気にとられます。
誰もが息をこらした。最初の驚きの衝動に、墓場のような沈黙がつづいた。広間の中に、何か大きなことが行われるときに群衆をとらえる、あの宗教的な恐怖のようなものが、感じられた。
新潮社、ユゴー、佐藤朔訳『レ・ミゼラブル㈠』P525
ただ、ここで語られるように、そこに嘲笑や不真面目なものはありません。むしろ、何かとてつもないことが起きたのだという宗教的恐怖を感じていたというのです。これは大きなポイントです。人々は何かしらジャン・ヴァルジャンの偉大さを感じていたということになるのではないでしょうか。
ただ、全ての人がそうだったわけではありません。このすぐ直後の裁判長と検事の言葉に注目です。
一方、裁判長の顔には、同情と悲しみの色がきざまれていた。彼は検事とすばやく合図をし、陪審判事たちと低い声で何やら話した。彼は傍聴人たちに向い、誰にも通じるような調子で尋ねた。
「どなたかお医者はいませんか?」
検事が言った。
「陪審員諸君、傍聴を混乱させるような、奇怪な、思いがけない事件によって、われわれも諸君と同様に、説明の必要のない、ある感情をよび起されています。諸君はみな、少なくともその名声によって、モントルイユ・シュル・メールの市長である尊敬すべきマドレーヌ氏をご存じでしょう。もし傍聴人の中に、医師がおられたら、マドレーヌ氏に付き添って、お住居まで送ってくださるよう、裁判長とともにわたしからもお願いします」
新潮社、ユゴー、佐藤朔訳『レ・ミゼラブル㈠』P525
「どなたかお医者はいませんか?」
これが「真に正しい人」に向けられた言葉です。
ジャン・ヴァルジャンの高潔な告白は、世の人には「狂人の振る舞い」に映るのです。
「真に正しい人」は世の人から嘲笑され石を投げられる。これはイエス・キリストの迫害を連想させます。
そして何より、私にはドストエフスキーの名作『白痴』の印象が強烈に呼び起こされることになりました。

と言いますのも、実はこの『白痴』という作品はまさにこのジャン・ヴァルジャンに多大なインスピレーションを受けて執筆された作品だったのです。
この作品の主人公はスイスでの療養からロシアに帰って来たムイシュキンという青年になります。ドストエフスキーはこのムイシュキンを通して「完全に美しい人間」を創造しようとしたのでありました。
では、「完全に美しい人間」とは何か、それはイエス・キリストに他なりません。
そしてドストエフスキーはこの『白痴』を書き上げるにあたって、「完全に美しい人間」の創作に成功した作品としてセルバンテスの『ドン・キホーテ』、ディケンズの『ピクヴィック・クラブ』、ユゴーの『レ・ミゼラブル』を挙げています。彼は次のように語っています。
「キリスト教文学にあらわれた美しい人びとのなかで、最も完成されたものはドン・キホーテです。しかし、彼が美しいのは、それと同時に彼が滑稽であるためにほかなりません。ディケンズのピクウィック(ドン・キホーテよりも、無限に力弱い意図ですが、やはり偉大なものです)も、やはり滑稽で、ただそのために人びとをひきつけるのです。他人から嘲笑されながら、自分の価値を知らない美しきものにたいする憐憫が表現されているので、読者の内部にも同情が生れるのです。この同情を喚起させる術のなかにユーモアの秘密があるのです。ジャン・ヴァルジャンも、おなじく力強い試みですが、彼が同情を喚起するのは、その恐るべき不幸と彼にたいする社会の不正によるのです。私の作品にはそのようなものがまったく欠けています。そのために私はそれが決定的な失敗になるのではないかとひどく恐れています。若干のデテールは、たぶん、そう悪いものではないでしょう……」
新潮社、ユゴー、木村浩訳『白痴』下巻P678
ドストエフスキーは明らかにこの三作品に強烈な影響を受けています。そして自分の作品の出来具合に不安を吐露しています。
実際、『白痴』は彼にとっては失敗作だったようで悔いが残る出来であったそうです。(とはいえ私はこの作品が大好きですが)
彼の描いたムイシュキンはとにかく善良な人間です。そして相手の心の底を見透かし、いつの間にか心を開かせてしまう不思議な力を持っています。
そんな不思議な魅力を持つ彼は作中人物からもキリスト侯爵と言われるほど、美しい人間です。
ですが彼は同時に「白痴」と馬鹿にされたりする癲癇病みの人間でもあります。また、長い間スイスの山奥で療養していたためロシアの人間社会のルールや細かい機微には驚くほど無知です。
つまりロシアにおいて彼は完全に異質な人間であり、月世界の住人のように思えてしまうほどなのです。
ムイシュキン自身もそのことに悩みますがどうしようもありません。
現実世界に馴染めない善良な主人公。それが『白痴』におけるムイシュキンなのでありました。
いかがでしょう。
これぞまさに「どなたかお医者はいませんか?」と言われたジャン・ヴァルジャンと重なって来ませんか?
ジャン・ヴァルジャンには常人では到達し得ぬ偉大な葛藤がありました。そして彼の背負った運命によって偉大なる決断をします。そしてその結果が「どなたかお医者はいませんか?」だったのです。
「真に正しい人」が狂人のごとく見られてしまうこの世界の現実を私達はここに見ることでしょう。
もちろん、この場においてはほぼすべての聴衆がジャン・ヴァルジャンの言葉に心打たれ、彼の言葉を信じます。そしてシャンマチウは釈放されることになります。
ここは『白痴』とは異なりますが、結局その後ジャン・ヴァルジャンも町の人からひどい言われようをすることになります。やはり「真に正しい人」は理解されず、石を投げられるのです。
「どなたかお医者はいませんか?」
たった一言、それもあまり物語の本筋とは関係のない些細な一言かもしれませんが、私はこの言葉に重大な意味を感じずにはいれません。
続く
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