MENU

(15)なぜ『罪と罰』のラスコーリニコフは『ゴリオ爺さん』のラスティニャックにならなかったのだろうか~パリ滞在を終えてドストエフスキーに思う

目次

【パリ旅行記】(15)なぜラスコーリニコフはラスティニャックにならなかったのだろうか~パリ滞在を終えてドストエフスキーに思う

一週間ほど滞在したパリでの日程もいよいよ終わりを迎える。

『秋に記す夏の印象』ということでドストエフスキーに倣って私の印象を述べていこうという趣向であったが、なかなかドストエフスキー本人についてのことはここまで多くは語れなかった。

ドストエフスキー自身もパリの名所や芸術などについてはほとんど語らなかったが、パリ篇の最後はやはり彼について思ったことを書いていきたいと思う。

華の都パリ。世界の首都パリ。バルザックのパリ。

圧倒的な繁栄と物欲の世界。華やかな社交界と資本家の勃興、成り上がりの世界。

オシャレでエレガントなパリの雰囲気を、私もこの短い滞在の中で多少ながら感じることができた。

キラキラ輝くブティック街を優雅に闊歩するパリジャンパリジェンヌ。

そんな彼らを眺めていた時にふと私は思った。

「なぜラスコーリニコフはラスティニャックにならなかったのだろうか」と。

ラスコーリニコフは言わずと知れた『罪と罰』の主人公だ。彼は成功を目指して地方から出てきた貧乏学生で、そのどん詰まりの状況を打破するために彼は意地悪な金貸し老婆を殺し、金を得ようとした。

それに対しラスティニャックは『ゴリオ爺さん』の主人公で、彼も弁護士になるために華の都パリに上京してきた青年だった。そしてラスコーリニコフと同じように、地道に勉強してもどん詰まりであることを感じていた。

もっと手っ取り早く成功するにはどうしたらいいのか。そういう考えがやがて彼の頭を占めるようになる。

ここからはフランス文学者鹿島茂氏の『フランス文学は役に立つ!』の言葉を引用したい。

ラスティニャックは、社交界の有力夫人の後ろ盾がありさえすれば無一文の青年でも政界で出世できるという王政復古期特有の風潮に目をつけ、親戚のボーセアン子爵夫人のコネを頼りに社交界に入り込もうとしますが、しかし、ラスティニャックには見栄を張ろうにも軍資金がありません。そのため、泥で汚れた靴をレストー伯爵夫人の召使に馬鹿にされ屈辱を味わいます。

こうした欲望の水準が急上昇した時代に欲に駆られる人をうまく利用してやろうと待ち構えていたのが脱獄徒刑囚ヴォートランです。ヴォートランはラスティニャックが「いきなり」出世したい欲望に身を焦がしているのを見ると、巧みに言いよって、自分の仲間に引き入れようとします。そのときヴォートランがラスティニャックを説得するために使った論法は要約すればショート・カット人生の勧めですが、このショート・カット人生を狙う若者の大量出現こそが大革命の最大の産物なのです。

「もし、君がてっとりばやく出世したいんなら、すでに金持ちか、少なくともそう見えなくちゃいけない。金持ちになるんだったら、このパリじゃ、一か八かの大バクチを打ってみるに限る、さもなきゃ、せこい暮らしで一生終わりだ。はい、ご苦労さん」

ラスティニャックはこのヴォートランの誘惑に負けそうになり「ぼくに、何をしろというんです?」と尋ねるところまでいきますが、偶然が作用して、間一髪のところでヴォートランの魔手から逃れます。(中略)

大革命で既成の社会システムが崩壊し、「金がすべて」となった世の中で、自分だけしか恃むもののない青年が、悪魔に魂を売り渡すことなく、社会と闘うにはどうしたらいいかという近代的テーマをとりあげた記念碑的作品。ラスティニャックは「やりたいことをやり、いきなり有名になって大金持ちになりたいが、面倒くさい努力は嫌いだ」という現代的青年のプロトタイプで、以後、フロべールも、モーパッサンも、ゾラも、自分なりのラスティニャックを造形しようと腐心することとなります。

NHK出版、鹿島茂『フランス文学は役に立つ』P71-73
左がラスティニャック、右がヴォートラン Rastignac avec Vautrin dans la cour de la pension Vauquer (Le Père Goriot).Wikipediaより

ラスティニャックは手っ取り早く出世しようとした。しかしそれは人を騙し裏切る権謀術数の世界に入ることを意味する。そしてそれは恋すらも利用してのし上がろうというものだった。

ヴォートランの言葉はまさしく悪魔的だ。ここではこれ以上は紹介できないが、「善とは何か悪とは何か、この世の現実とは何か」とものすごい迫力で彼に迫る。「美徳なんて捨ててしまえ。人間を軽蔑しろ。法律の抜け穴を探せ。どうせ君はこれから人を騙し、罪を犯す。せいぜい血を流すか流さないかの違いだろう。それだって立派な殺人さ」とたたみかける。

そしてそれに必死に抗おうとするラスティニャック。

この悪を為すべきか為さないべきかという葛藤がこの『ゴリオ爺さん』では描かれている。

しかしラスティニャックはこの悪のカリスマヴォートランの誘惑をはねのけ、「まっとうな道」で社交界をのし上がっていく。(何がまっとうかはぜひこの作品を読んで頂きたい)

つまり、ラスティニャックは法に触れることをしなかった。そして社交界と言う華やかな世界で成り上がりを目指した。

だが『罪と罰』のラスコーリニコフはどうだろう。彼はラスティニャックのような道を選んだのだろうか。いやいや、彼にはそんな華やかな世界は到底考えることすらなかった。墓穴のようなみすぼらしい部屋で彼はずっと考えに考え続け、そして最後には金貸し老婆の殺害を決意する。

どうしてラスコーリニコフはそんな犯罪を犯さなければならなかったのか。なぜ逮捕される危険をわざわざ犯したのか。

なぜラスティニャックのように成り上がろうということを思いつかなかったのだろうか。

このことこそまさにドストエフスキーがパリ的な人間ではなく、ロシア人だったということを示しているのではないだろうか。

パリに来て華やかな世界を実際に目にしたことでふと私はそのことを感じてしまった。ラスコーリニコフがラスティニャックにならなかったということ。ここにドストエフスキー的なもの、ロシア的なものがあるのではないか、そんなことを思ったのだ。時代背景や社会システム、思想、文化の違いがこういう所に現われるのだなと改めて興味深く感じられたパリ滞在だった。

ドストエフスキーは若い頃バルザックを愛読していた。そしてそのバルザックの描いたパリをドストエフスキーも実際に見たのである。そしてその3年後に書かれたのが『罪と罰』なのだ。彼のパリ滞在がその作品に影響を与えていないはずがない。

ドストエフスキーはもしかしたら「サンクトペテルブルクのラスティニャック」を書こうとしたのかもしれない。「もしラスティニャックがペテルブルクの青年だったら・・・」そんなことを考えながらラスコーリニコフを描いていったのかもしれない。

もちろん、『罪と罰』は他にも様々なテーマを題材に生み出されている。ナポレオン思想然り、プーシキンの『スペードの女王』のゲルマンしかり、それこそどれかひとつで単純化することなど不可能だ。

だが、実際に私がパリに来て一番感じたのは、この「ラスコーリニコフはなぜラスティニャックにならなかったのか」という問題だったのである。

そして最後にもうひとつ、実はドストエフスキーはパリの拝金主義には批判的ではあったものの、彼にとってもやはり刺激的な街だったようで、「金輪際もう来ない!」とはどうもならなかったようである。

1867年にアンナ夫人と西欧旅行をした際も、お金がないからパリに行くことができなかったということが記録には残されている。また、1870年代にもドストエフスキーはドイツの保養地バード・エムスからパリを経由してロシアに帰ろうとしていたのだが、その時もお金が足りないために断念している。

やはりドストエフスキーにとってもパリは何かしらインスピレーションを刺激するものがあったのだろう。

批判はするけれども、やはり魅力的な街なのだ。

これは私も実に同感である。

私も全面的にパリが好きかと言われたらそうではない。理由はあえて書かないけれども、やはりそうなのだ。

でも、また来たくなる何かがある。物申したくなる気持ちはあるのだけれども、やはり惹きつけられてしまう魅力があるのだ。そういう吸引力がある不思議な街だと思う。

文豪、芸術家ドストエフスキーにとっても、この華の街、芸術の都パリは良くも悪くも無視できない気になる存在だったのだろう。

そういうことも感じた私のパリ滞在であった。

次の記事からはジョージアへの経由地であるベルギー、オランダについてお話ししていく。

続く

Amazon商品ページはこちら↓

ゴリオ爺さん(新潮文庫)

ゴリオ爺さん(新潮文庫)

罪と罰(上)(新潮文庫)

罪と罰(上)(新潮文庫)

次の記事はこちら

あわせて読みたい
(16)ナポレオン敗北の地ワーテルローを訪ねて~ユゴーがレミゼ完成のためにわざわざ訪れた古戦場 パリを出発した私が向かったのはベルギー国内にある古戦場ワーテルローの地。 ここは1815年にナポレオンが最終決戦の末に敗れ、彼の栄光に終止符が打たれた場所として知られています。 そしてここは『レ・ミゼラブル』を書き上げたユゴーにとっても非常に重要な場所でした。 この記事ではそんなナポレオンとユゴーのゆかりの地ワーテルローについてお話ししていきます。

前の記事はこちら

あわせて読みたい
(14)パリ郊外メダンのゾラの家へ~フランスの偉大な文豪が愛したセーヌの穏やかな流れと共に この記事ではパリ郊外メダンにあるゾラの家をご紹介します。 『ナナ』などの大ヒットによって資産を蓄えたゾラが長い年月をかけて完成させたのがこの邸宅になります。 フランスの文豪が愛したセーヌ河畔の静かな住宅地。 小舟を浮かべて時を過ごしたとされる美しきパリ郊外の雰囲気もこの記事では紹介していきます。

関連記事

あわせて読みたい
『ドストエフスキー、妻と歩んだ運命の旅~狂気と愛の西欧旅行』~文豪の運命を変えた妻との一世一代の... この旅行記は2022年に私が「親鸞とドストエフスキー」をテーマにヨーロッパを旅した際の記録になります。 ドイツ、スイス、イタリア、チェコとドストエフスキー夫妻は旅をしました。その旅路を私も追体験し、彼の人生を変えることになった運命の旅に思いを馳せることになりました。私の渾身の旅行記です。ぜひご一読ください。
あわせて読みたい
【ローマ旅行記】『劇場都市ローマの美~ドストエフスキーとベルニーニ巡礼』~古代ローマと美の殿堂ロ... 私もローマの魅力にすっかりとりつかれた一人です。この旅行記ではローマの素晴らしき芸術たちの魅力を余すことなくご紹介していきます。 「ドストエフスキーとローマ」と言うと固く感じられるかもしれませんが全くそんなことはないのでご安心ください。これはローマの美しさに惚れ込んでしまった私のローマへの愛を込めた旅行記です。気軽に読んで頂ければ幸いです。
あわせて読みたい
上田隆弘『秋に記す夏の印象~パリ・ジョージアの旅』記事一覧~トルストイとドストエフスキーに学ぶ旅 2022年8月中旬から九月の中旬までおよそ1か月、私はジョージアを中心にヨーロッパを旅してきました。 フランス、ベルギー、オランダ、ジョージア・アルメニアを訪れた今回の旅。 その最大の目的はトルストイとドストエフスキーを学ぶためにジョージア北部のコーカサス山脈を見に行くことでした。 この記事では全31記事を一覧にして紹介していきます。『秋に記す夏の印象』の目次として使って頂けましたら幸いです。
あわせて読みたい
【パリ旅行記】(1)ドストエフスキーとトルストイの眼で眺めるパリ~彼らはパリに対してどんな思いを持... ドストエフスキーは1862年、トルストイは1857年にそれぞれパリを訪れています。 彼らはそこで目にした出来事やそれらに対する思いを書き残し、後の作家活動の糧としていました。 この記事ではそんな二人を通して今回の私の旅についての思いをお話ししていきます。
あわせて読みたい
ドストエフスキーの代表作『罪と罰』あらすじと感想~ドストエフスキーの黒魔術を体感するならこの作品 ドストエフスキーがこの小説を書き上げた時「まるで熱病のようなものに焼かれながら」精神的にも肉体的にも極限状態で朝から晩まで部屋に閉じこもって執筆していたそうです。 もはや狂気の領域。 そんな怪物ドストエフスキーが一気に書き上げたこの作品は黒魔術的な魔力を持っています。 百聞は一見に如かずです。騙されたと思ってまずは読んでみてください。それだけの価値があります。黒魔術の意味もきっとわかると思います。これはなかなかない読書体験になると思います。
あわせて読みたい
バルザック『ゴリオ爺さん』あらすじと感想―フランス青年の成り上がり物語~ドストエフスキー『罪と罰』... この小説を読んで、私は驚きました。 というのも、主人公の青年ラスティニャックの置かれた状況が『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフとそっくりだったのです。 『ゴリオ爺さん』を読むことで、ドストエフスキーがなぜラスティニャックと似ながらもその進む道が全く異なるラスコーリニコフを生み出したのかということも考えることが出来ました。
あわせて読みたい
やはり『罪と罰』は面白い…!ナポレオンという切り口からその魅力を考える 私がドストエフスキーにおいて「面白い」という言葉を使う時は、アハハと笑うような「面白い」でもなく、あ~楽しかったいう「面白い」とも、スカッとするエンタメを見るような「面白い」とも違います。 時間を忘れてのめり込んでしまうような、それでいてなおかつ、読んだ後もずっと心にこびりつくような、そういう読後感があるような面白さを言います。 『罪と罰』にはそのような面白さをもたらしてくれる思想的な奥行きがこれでもかと描かれています。 そのひとつがラスコーリニコフの言うナポレオン思想です。
あわせて読みたい
鹿島茂『馬車が買いたい!』あらすじと感想~青年たちのフレンチ・ドリームと19世紀パリの生活を知るな... この本ではフランスにおける移動手段の説明から始まり、パリへの入場の手続き、宿探し、毎日の食事をどうするかを物語風に解説していきます。 そしてそこからダンディーになるためにどう青年たちが動いていくのか、またタイトルのようになぜ「馬車が買いたい!」と彼らが心の底から思うようになるのかという話に繋がっていきます。
あわせて読みたい
なぜフランス人男性はモテるのか~パリの伊達男「ダンディー」の存在から考えてみた フランス人男性といえばなんかもうそれだけでモテそうなイメージがありますよね。(勝手な偏見ですが笑) でも、なぜ彼らはあんなに口が達者で恋愛上手なのか。 それもやはり、そうなっていくような時代背景があったからこそなのです。この記事ではそうした歴史的背景を見ていきたいと思います。。
あわせて読みたい
プーシキン『スペードの女王』あらすじと感想~ドストエフスキーの『罪と罰』にも大きな影響! ドストエフスキーがこの作品に大変な感銘を受け、絶賛したということで読み始めた『スペードの女王』でしたが、これは面白い作品です。 ストーリー展開もスピーディーで文庫本で50ページ少々というコンパクトな分量の中に特濃な世界観が描かれています。 シンプルに面白い!王道中の王道の面白さがこの作品にはあります。
あわせて読みたい
(5)ナポレオンの墓があるアンヴァリッドへ~知れば知るほど存在感が増すナポレオンというカリスマにつ... パンテオンでルソーやヴォルテール、ゾラ、ユゴーのお墓参りをした後に私が向かったのはアンヴァリッド。ここにはあのナポレオンが葬られています。 それにしても、アンヴァリッドの堂々たる立ち姿にはため息が出るほどです。これほどの建築物がある意味ナポレオンの墓石なわけです。そう考えるとナポレオンという人物がいかに巨大な人物だったかを思い知らされます。 この記事ではそんなナポレオンについてお話ししていきます。
あわせて読みたい
フランス革命やナポレオンを学ぶのにおすすめの参考書一覧~レミゼの時代背景やフランス史を知るためにも 『レ・ミゼラブル』の世界は1789年のフランス革命やその後のナポレオン時代と直結しています。これらの歴史を知った上でレミゼを観ると、もっともっと物語を楽しめること間違いなしです。

この記事が気に入ったら
いいね または フォローしてね!

  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

真宗木辺派函館錦識寺/上田隆弘/2019年「宗教とは何か」をテーマに80日をかけ13カ国を巡る。その後世界一周記を執筆し全国9社の新聞で『いのちと平和を考える―お坊さんが歩いた世界の国』を連載/読書と珈琲が大好き/

コメント

コメントする

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

目次