(23)ジャヴェールがファンチーヌを殺した?彼女の死は幸福なものだったのだろうか

「ユゴーの原作『レ・ミゼラブル』を読む」(23)ジャヴェールがファンチーヌを殺した?彼女の死は幸福なものだったのだろうか
法廷での自白の後、ジャン・ヴァルジャンは馬車でモントルイユ・シュル・メールの町へと急ぎ帰ります。
彼が真っ先に向ったのはもちろん、ファンチーヌのもとです。「私がジャン・ヴァルジャンだ」と名乗り出た以上、彼女やコゼットのことを今すぐ何とかしなければなりません。
一方、ファンチーヌはと言いますと、コゼットの幻を見、娘との幸福な時間を思いながら病と闘っています。
ただ、原作ではこの時点で「マドレーヌ氏がコゼットを連れてきてくれている」と彼女は信じています。つまり、「マドレーヌ氏が帰って来る=コゼットと会える」と信じているのです。
そんなファンチーヌを目の前にしてジャン・ヴァルジャンは言葉を詰まらせてしまいます。彼女に真実は言えない・・・。結局彼は何も口にすることができず、ただただファンチーヌの言葉を聞くのみでありました。
そしてそんな時、想像もしていなかったことが起こります。
マドレーヌ氏はファンチーヌの手を放していた。彼は、目を下に落し、深い考えに沈んで、風の音を聞くかのように、それらの言葉に耳を傾けていた。突然、彼女は話をやめた。彼はそこで機械的に頭をあげた。ファンチーヌは恐ろしい表情になっていた。
彼女はもう口をきかず、息もつこうとしなかった。半ばベッドの上に起き上がり、痩せ細った肩がシュミーズからあらわれ、一瞬前まで輝いていた顔が蒼白になり、目の前の、部屋の反対側にある、何か恐ろしいものを見つめているように、彼女の目は恐怖で大きく開かれていた。
「おや!」と彼は叫んだ。「どうしたの、ファンチーヌ?」
彼女は答えなかった。見つめているらしい何ものかから目を放さず、彼女は片方の手で彼の腕を取り、他方の手で彼のうしろを見るように合図をした。
彼は振向いた、そしてジャヴェールを見た。
新潮社、ユゴー、佐藤朔訳『レ・ミゼラブル㈠』P543-544
なんと、ここでジャヴェールが現われるのです!これはミュージカル版とは決定的に違います。
ミュージカルではファンチーヌの穏やかな死の後にジャヴェールが登場します。
ですが原作では、その前に彼がやって来てしまうのです!
さあ、これはどうなってしまうのでしょう!これは修羅場です。
ミュージカルでは互いに武器を持っての戦いになりましたが、さすがにファンチーヌの前でそんな乱暴なことはしません。
ただ「観念しろ!」とジャン・ヴァルジャンを脅し彼の襟首を掴むだけでした。
そんなジャヴェールに「ひとつだけあなたにお願いがあるのだが・・・」と小さな声で懇願するジャン・ヴァルジャン。なぜ小さな声なのか。それはファンチーヌに聞かれては困るからです。
ですがそんなことはお構いなしのジャヴェールです。「大きな声で言え」と取り合いません。
そこで仕方なくジャン・ヴァルジャンは「彼女の子を呼びに行くための3日の猶予を与えてほしい!」と告げます。
その言葉に激高するジャヴェール。彼はジャン・ヴァルジャンを掴みながらファンチーヌをにらみつけ、こう続けたのありました。
「いいか、もうマドレーヌさまも、市長さまもいないんだぞ。泥棒がいるんだ。強盗だ。ジャン・ヴァルジャンという囚人だ!そいつを俺は捕まえたんだ!わかったか!」
ファンチーヌは、こわばった腕と両手で身を支えてはね起き、ジャン・ヴァルジャンを見た。ジャヴェールを見た。修道女を見た。何か言いたそうに口をひらいた。喉の奥からあえぐ声がもれた。歯ぎしりをし、苦悶のあまり両腕をさしのべ、痙攣させながら手をひらき、水に溺れる人のように、まわりを探り、それから枕の上にどっと倒れた。頭がベッドの枕もとにぶつかり、胸の上にがっくりと垂れ、口はぽかんとひらいて、目はひらいたまま、光が消えていた。
彼女は死んでいた。
新潮社、ユゴー、佐藤朔訳『レ・ミゼラブル㈠』P554
なんと、原作ではファンチーヌはこうして死んでしまうのです!
ジャヴェールの言葉によって真実を知ったファンチーヌがショックで死んでしまうという何とも衝撃的な最期なのでありました。
そしてこれに対しジャン・ヴァルジャンが言った言葉が印象的です。
「あなたがこの女を殺したんだ」
新潮社、ユゴー、佐藤朔訳『レ・ミゼラブル㈠』P555
たしかにファンチーヌは病気で死ぬ間際でありました。ですが、コゼットに会えるという希望でわずかながらも体力が回復していた兆しがあったのです。しかし、真実を知り、もう娘に会えないというショックは彼女の生命力を断ち切るのに十分な衝撃でした。こうして彼女は亡くなってしまいます。
もし本当に3日の猶予が与えられていたとしたら最後に彼女はコゼットと再会できたかもしれません。そして安らかに死ぬこともできたことでしょう。
だからこそジャン・ヴァルジャンはジャヴェールに「あなたがこの女を殺したんだ」と言ったのです。
それにしても、このファンチーヌの死はあまりに残酷すぎます。
ミュージカル版では死ぬ間際のファンチーヌに「あなたの娘は私が守る」と誓い、最後の安息を与えることができました。彼女はその言葉を聞き安らかに死ぬことができたのです。それが原作では全く違ったものとなっていました。
『ノートル=ダム・ド・パリ』でもそうでしたがユゴーはヒロインに無残で残酷な死を与える作家でもあります。今回もまさにそうした残酷な死をファンチーヌに与えたのでしょうか。
いやいや、それが違うのです。私もこの先を読んで安心しました。ユゴーはちゃんとファンチーヌに救済を与えています。
せっかくですのでここから先の展開を一緒に見ていくことにしましょう。ミュージカル版とは異なる展開にぜひ注目して頂きたいです。
「あなたがこの女を殺したんだ」
「いいかげんにしろ!」とジャヴェールは怒って叫んだ。「俺は理屈を聞きに来たんじゃない。そんなことはやめておけ。護衛が下にいる。すぐに歩け、さもなければ手錠だ!」
部屋の隅に、かなりいたんだ鉄の古いベッドがあり、修道女たちが夜中に病人をを看護するとき、寝台に使われていた。ジャン・ヴァルジャンはそのベッドのところへ行き、彼のように握力の強い人には造作もないことだったが、すでにがたがたになっていた枕枠をまたたくまに取りはずし、その鉄棒をしっかりとつかんで、ジャヴェールをにらんだ。ジャヴェールはドアの方へ退いた。
ジャン・ヴァルジャンは、鉄棒をつかんだまま、ゆっくりとファンチーヌのベッドの方へ歩いて行った。そこまで行くと、振向いて、聞き取れないような声でジャヴェールに言った。
「しばらく邪魔しないでくれ」
たしかにジャヴェールはふるえていた。
彼は護衛を呼びにいこうかと思ったが、ジャン・ヴァルジャンがそのひまを利用して、逃亡するかもしれなかった。そこで彼は、そのままそこに残って、ステッキの先を握り、ジャン・ヴァルジャンから目を放さずに、ドアの框を背にして立っていた。
ジャン・ヴァルジャンはべッドの枕もとに肱をつき、額に手をあてて、横たわって動かないファンチーヌをじっとながめはじめた。彼は、このように物思いにふけって、一言も口をきかなかった。もう世の中のことは、明らかに何も考えていなかった。彼の顔にも態度にも、なんとも言えない憐憫の情しかなかった。こうしてしばらく瞑想にふけった後、彼はファンチーヌの方にかがみこんで、低い声で話しかけた。
彼はなんと言ったのか?世の中から見放された男が、死んだ女に何を言うことができよう?その言葉はなんであったか?地上の誰もそれを聞かなかった。死んだ女はそれを聞いただろうか?世の中には悲痛な幻影がある。その幻影こそ崇高な現実なのかもしれない。疑いえない事実は、その場の唯一の目撃者であるサンプリス修道女がしばしば語ったことであって、ジャン・ヴァルジャンが、ファンチーヌの耳もとで、何かささやいた瞬間に、墓穴の驚きにみちた青ざめた唇と、うつろな瞳のうちに、なんとも言えない微笑が浮かび上がるのを、修道女がはっきりと見たということだった。
ジャン・ヴァルジャンは両手でファンチーヌの頭を抱き、母親が自分の子供にするように、それを枕の上にのせ、彼女のシュミーズの紐を結んでやり、髪の毛を帽子の下に入れてやった。それから彼女の目を閉ざしてやった。
ファンチーヌの顔は、その瞬間、異様に明るくなったように思えた。死、それは偉大なる光明への入口である。
ファンチーヌの片手はべッドの外に垂れていた。ジャン・ヴァルジャンはその手の前にひざまずき、それを優しく持ち上げて、接吻した。
それから彼は立ち上がった。そしてジャヴェールの方へ向きながら、
「さあ」と彼は言った。「どうにでもご随意に」
新潮社、ユゴー、佐藤朔訳『レ・ミゼラブル㈠』P555ー557
いかがでしょうか。こうしてユゴーはファンチーヌに救済を与えたのです。死した後にでも、彼の言葉は響いたのです。
そして、死んだはずのファンチーヌが微笑し、その顔が異様に明るくなったという表現。これはもしかするとイエス・キリストによる死者の復活をモチーフにしているのかもしれません。これまでお話ししてきましたように、ユゴーはジャン・ヴァルジャンにイエス・キリスト的な特徴を背負わせています。それがこのファンチーヌの救済にも現れているのでありましょう。
また、この奇跡のようなファンチーヌの微笑を証言したのがサンプリス修道女だったというのも重要です。この連載ではまだ取り上げていませんでしたが、原作ではすでに「最も敬虔で、一生に一度も嘘をついたことのない女性」として登場しています。それほど信頼できる人物がこう証言したのですからファンチーヌの微笑は本当だったのでしょう。
こういうわけで、ファンチーヌは最後の最後で救済を得たものと私は考えたいと思います。
ジャン・ヴァルジャンのささやきは彼女の魂に届いたのです。会えなくとも、愛する子の無事を託すことができた。それだけでも彼女にとっては究極の救いだったのです。大いなる愛を持った彼女だからこその救いと言えるのではないでしょうか。
続く
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