(16)ファンチーヌの惜しみない愛にも葛藤があった

「ユゴーの原作『レ・ミゼラブル』を読む」(16)ファンチーヌの惜しみない愛にも葛藤があった
第一部 ファンチーヌ 第五章 堕落 ⑸
噂好きの正義の番人ヴィクチュルニャン夫人のせいで工場を解雇されてしまったファンチーヌ。
彼女にはもう借金を返す当てがなくなってしまいました。
しかもちょうどこのタイミングでテナルディエがさらに金を催促し、払わなければコゼットを放り出すと脅す始末・・・。
こうして彼女は自慢の髪を売り、歯を売り、ついには売春婦にまで堕ちていく・・・というのは皆さんもご存じの通りだと思います。
ですが今回原作を読んでいて、ふと気づいたことがありました。
それがファンチーヌの葛藤の存在です。
ファンチーヌと言えば愛するコゼットのために迷いなくすべてをなげうつイメージがありましたが、実は彼女にも葛藤が存在していたのです。せっかくですのでその箇所を読んでいくことにしましょう。
ある日、テナルディエ夫婦から、次のように書いてある手紙を受取った。「コゼットはこちらで流行している病気にかかっている。粟粒疹熱だといわれているものだ。高価な薬が必要だ。破産するから、そんな薬は買ってやれない。一週間内に四十フラン送ってくれないと、あの子は死んでしまう」
彼女は笑いだして、隣の老婆に言った。
「まあ!あの人たちのご親切なこと!四十フランですって!なんなのよ!ナポレオン金貨二枚じゃないの?どっから持って来いっていうの?馬鹿だわ、あの田舎者は!」
しかし、彼女は階段の天窓のそばへ行って、手紙を読み直した。それから階段をおり、走ったり跳ねたり、笑いつづけて出て行った。彼女に出会った者が、こう言った。
「どうしたの、そんなに浮かれて?」
彼女は答えた。
「馬鹿なことを書いてきたのよ、田舎の人たちが、四十フラン送れですって。田舎者よ、ほんとに!」
広場を通りかかると、大勢の人が奇妙な格好の馬車を取囲んでいるのが見えた。馬の屋根の上には、赤い服を着た男が一人立っていて、口上を述べている。それは旅回りの香具師の歯医者で、総入れ歯だの、練歯磨、粉薬、不老不死薬などを、公衆に売りつけるのであった。
ファンチーヌはその人だかりにまじり、下層界の隠語と、紳士がたの術語のまじった長広舌を聞いて、他の連中と同じように笑いだした。その歯抜き屋は、笑っている美女を見つけて、急に叫んだ。「きれいな歯ですな、そこで笑っていなさる娘さん。あんたのパレットを二枚、売ってくださるなら、一枚につきナポレオン金貨一枚出しますぜ」
「なんのこと、あたしのパレットって?」とファンチーヌは尋ねた。
「パレットっていうのは」と歯医者先生がつづけた。「つまり前歯のことで、上の二枚です」
「まあ、いやあだ!」とファンチーヌが叫んだ。
「ナポレオン金貨二枚!」とそばにいた歯ぬけの老婆がつぶやいた。「まあ、なんて仕合せな人なんだろう!」
ファンチーヌは逃げ出した。そして次のように叫んでいる男のしゃがれ声を聞くまいとして、耳をふさいだ。
「とっくり考えてみなさいよ、別嬪さん!ナポレオン金貨二枚、役に立ちますぜ。気が向いたら、今晩、《銀の甲板》という旅館においで。わたしはそこにいるからね」
新潮社、ユゴー、佐藤朔訳『レ・ミゼラブル㈠』P345-347
テナルディエからの40フランの催促・・・。こんな大金を急に送れと言われてもファンチーヌにはどうすることもできません。もはや笑うしかありませんでした。
しかし、そんな彼女の前にたまたま人だかりができていました。そこに吸い寄せられた彼女に香具師は驚きの提案を持ちかけます。なんと彼女の歯にナポレオン金貨二枚、つまり40フランを払おうと言ってくるではありませんか。
40フラン!まさに宿命の40フランです!彼女が笑うしかなかった40フランの大金がたまたま彼女の前に現れたのです。
ですが、さすがに自分の歯を売ることには抵抗があったファンチーヌ。ここではその申し出を断ったのでありました。
そして帰宅後、運命は動き出します。
ファンチーヌはうちへ帰った。彼女はぷりぷりして、隣の親切な女マルグリットにわけを話した。
「どう、そう思わない?ひどい男じゃない?あんな人をどうしてこの土地に入れるんでしょう?あたしの前歯を二本抜くなんて!まあ、いやらしい!髪なら、また生えるけれど、歯じゃ、ねえ!ああ!気味の悪い男!あたし、六階から敷石の上に、真っ逆さまに飛びおりる方が、まだましだわ!今晩《銀の甲板》旅館にいるからなんて、言うのよ」
「それでいくら出すっていうんだね?」とマルグリットが訊いた。
「ナポレオン金貨二枚」
「四十フランってわけだね」
「そうよ」とファンチーヌが言った。「四十フランになるわ」
彼女は考えこんだ、そして仕事に取りかかった。十五分ばかりすると、裁縫をやめて、階段のところへ行って、テナルディエ夫婦の手紙を読み直した。
戻ってきて、そばで仕事をしているマルグリットに言った。
「いったい、どんなの、粟粒疹熱って?知っている?」
「知ってるさ」とオールド・ミスが答えた。「病気だよ」
「じゃ、薬がたくさんいるのね?」
「ああ、とってもたくさん」
「どうしてかかるの?」
「すぐうつるんだよ」
「子供にうつるのね?」
「おもに子供さ」
「死ぬ?」
「よく死ぬよ」とマルグリットが言った。
ファンチーヌは部屋から出て、もう一度階段のところへ手紙を読みに行った。
その晩、彼女は外出した。そして旅館の多いパリ通りの方へ歩いて行くのが見られた。
新潮社、ユゴー、佐藤朔訳『レ・ミゼラブル㈠』P347ー348
「あたし、六階から敷石の上に、真っ逆さまに飛びおりる方が、まだましだわ!」
この時点ではファンチーヌは歯を売ることを決心していません。「コゼットのために40フラン必要なのはわかっている、でもこれはさすがに無理だ」と彼女は考えていたのです。
ですがマルグリッドがお金のことを聞いたきた時にやはりぐらついてしまう。
他人の口から語られるナポレオン金貨2枚、40フラン。
そして極めつきが彼女の「よく死ぬよ」の一言でした。
ここで完全にファンチーヌは覚悟を決めることになります。
ミュージカルではなし崩し的に髪や歯、純潔を売ることになっていましたが、原作のファンチーヌにはこうした葛藤があったのでした。
ただ、「(14)フォーシュルヴァン事件と「葛藤の人」ジャン・ヴァルジャン~レミゼにおける最重要ポイントのひとつがここに」の記事でもお話ししましたが、葛藤そのものはこの物語ではむしろ非常に重要なポイントとして描かれています。ジャン・ヴァルジャンの偉大さが葛藤そのものにあるように、ファンチーヌの大いなる愛もこの葛藤が大きな意味を持っています。
皆さんも道で困った人を見かけた時、そのまま素通りしてしまったことはありませんでしょうか。そして通り過ぎてから少しして、やはり助けなきゃと戻ったことはありませんでしょうか。この良心の痛みとそこからの行動。これぞ人間に備わった根源的な利他の精神ではないかと私はこの物語を読んで思うのです。
ジャン・ヴァルジャンもファンチーヌも一度は通り過ぎるのです、ですがそこから良心のうずきを感じ偉大なる行動を取るのです。通り過ぎてしまおうとする心と助けるべきではないかという良心の葛藤、そして最終的にどちらの行動を取るのか、これが彼らとそれ以外の人を分ける大きな分水嶺となっているのではないでしょうか。
こうした良心のうずきに関しては、あのトルストイも1881年に発表した短編『人はなんで生きるのか』で言及しています。やはりこの良心のうずき、葛藤というのは人間の根本問題であることを私は感じずにはいられません。
「よく死ぬよ」の一言が彼女にとってどれだけの決定打となったかに思いを馳せずにはいれない箇所でありました。
続く
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