(17)もしファンチーヌが何人もいたらどうなっていただろうか?

「ユゴーの原作『レ・ミゼラブル』を読む」(17)もしファンチーヌが何人もいたらどうなっていただろうか?
第一部 ファンチーヌ 第五章 堕落 ⑹
もしファンチーヌが何人もいたらどうなっていただろうか?
この問いは以前当連載でもジャン・ヴァルジャンに対しても考えてみた問題ですが、やはりファンチーヌにおいてもこの問題は重要なものであると私は考えます。
と言いますのも、当時のフランスではファンチーヌのような転落は極ありふれた悲劇として人々に知られていました。パリでグリゼット(お針子)として安い給料で働き、学生と恋に落ちるも遊ばれて放り出され転落する・・・。こうしたパターンは「よくあること」だったのです。
となればそこには名も無き無数のファンチーヌがいたはずです。
ファンチーヌが帰ることになったモントルイユ・シュル・メールの町にもきっと似たような境遇の女性がいたことでしょう。
ですがジャン・ヴァルジャンは彼女を救い、コゼットを守るという大きな使命を引き受けることになります。
なぜファンチーヌだけこれだけ特別扱いされねばならなかったのか。他にも苦しんでいた女性はいたはずなのに・・・。
少し意地悪なものの見方かもしれませんが、このことについて考えてみるのも原作の醍醐味と言えるのではないでしょうか。
というわけで、これから本文を見ていきながら考えていくのでありますが、結論から言いますとやはりファンチーヌは特別です。彼女はこの物語の主軸になる資格がある人物だからこそこの場にいると言えましょう。
まず、前回の記事で見ましたように、彼女は葛藤しながらも自らの歯を40フランで売ります。
これで何とかコゼットを救えると思ったのも束の間、テナルディエは次から次に金の催促を送って来たのでありました。彼女は知る由もないのですが、テナルディエも金に困っていたのです。今すぐ落とさなければならない手形がすでに目前に迫っており、取れるところから取っておけという切羽詰まった状況だったのでありました。
ただ、ここから先はファンチーヌの幸運?も続きません。前回はたまたま歯を40フランで買い取ってくれる売人がいましたがもう、売れるものも残っていません。そうなった彼女に残された道はただひとつ・・・。
こうして彼女は身体を売りながら何とか日々を過ごしていたのですが、どんどんやつれ、後戻りのできない状況になっていきます。
そして事件は起きました。軽薄な伊達男がファンチーヌに絡み、揚げ句の果てに彼女の背中に雪を突っ込んだのです。それまで無抵抗であった彼女でありましたが、さすがにこの暴挙に反撃します。こうして取っ組み合いになった揚げ句ジャヴェールに連行されてしまったのでありました。
このファンチーヌ連行事件でありますが、実はこれはユゴーが体験した実話を基にした物語となっています。詳しくは以前紹介した「ファンテーヌの連行、釈放事件はユゴーの実体験だった~ユゴー『私の見聞録』より」の記事で紹介していますのでここではこれ以上お話ししませんが、興味のある方はぜひご参照ください。
そして絶望に沈むファンチーヌを救うのが外でもない、ジャン・ヴァルジャンなのでありますが、私はこの釈放後の彼の言葉に注目せずにはいれませんでした。
「あなたはずいぶん苦しんだ。可哀そうな母親として!ああ、嘆いてはいけない。今では、あなたには神に選ばれた者の資格がある。人間はこういうふうにして天使になるのです。それは人間の罪ではありません。ほかにどうしようもないのです。いいですか、あなたが出てきた地獄は、天国の第一の姿なのです。そこからはじめなければならなかったのですよ」
新潮社、ユゴー、佐藤朔訳『レ・ミゼラブル㈠』P377
「あなたには神に選ばれた者の資格がある」
まさにこの言葉です。
ファンチーヌはたしかにありふれた悲劇の女性かもしれません。
ですが、彼女の持つ愛の大きさはやはり神に選ばれた者の資格があるのです。ここが重要なポイントです。
これまで見てきましたように、ファンチーヌは恋のあやまちによって転落してしまいましたが、常に誠実な愛を持ち続けた女性でした。以下の記事でお話ししましたように、老いた馬にも同情する彼女の描写は皆さんも覚えておいでかと思います。彼女には大きな慈愛の心があったのです。

そしてコゼットを思うその心を疑うことは誰にもできないことでしょう。
彼女はやはり無数の名も無きファンチーヌとは違うのです。『レ・ミゼラブル』という神話的物語の主要人物にふさわしい偉大なる女性がこのファンチーヌなのでしょう。それほど彼女の愛は際立っています。
これはジャン・ヴァルジャンに何か偉大なるものを感じ取ったミリエル司教を連想してしまいます。「(8)ジャン・ヴァルジャンはミリエル司教にとって特別な存在だったのだろうか」の記事でもお話ししましたが、ミリエル司教がジャン・ヴァルジャンにあそこまで親切にしたのも彼の中にある何かを感じ取ったからだと思えてなりません。そして同じように今度はそのジャン・ヴァルジャンが彼女の中に何かを感じ取ったのではないでしょうか。
もちろん、彼女の解雇に間接的に彼が関わっていたという外面的な理由もありますが、それにしてもジャン・ヴァルジャンの気持ちの入れようは尋常ではありません。
普通では考えられないことがここでは起きているのです。
ですが、それはやはり2人が神話的な存在のレベルであり、偉大なる「たまたま」が成せる業なのでしょう。
ジャン・ヴァルジャンの前にたまたま現れた女性がファンチーヌであり、そのファンチーヌがたまたまこれほど偉大な女性だったということです。こうして物語が動いていくのです。
続く
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