親鸞聖人とはどんな人?悩み多き90年の生涯をたどる

はじめに

親鸞と聞いて、皆さんはどのような人物を思い浮かべるでしょうか。
浄土真宗を開いた偉いお坊さん。あるいは「悪人正機」という言葉を思い浮かべる方もおられるかもしれません。
ですが、その九十年の生涯をたどってみると、私たちが想像するような「偉いお坊さん」とは少し違った姿が見えてきます。
九歳で出家し、二十九歳で比叡山を下り、ようやく出会った師法然とも弾圧によって引き離され、自らは罪人として越後へ流されることになりました。そして晩年には、息子善鸞との悲しい別れまで経験することになります。
親鸞の人生は決して順風満帆なものではありませんでした。
むしろ挫折し、悩み、苦しみ続けた人生だったと言ってもよいでしょう。
それでも親鸞は歩みを止めませんでした。
私はこれまで当ブログで、そんな親鸞の九十年の生涯を『親鸞伝~悩み多き英雄の偉大なる生涯』という長編連載で詳しくお話ししてきました。
ですが、この連載はかなりの長編です。「親鸞について興味はあるけれど、まずはどんな人物だったのかを知りたい」という方には、少しハードルが高いかもしれません。
そこでこの記事では、初めて親鸞を知る方に向けて、その九十年の生涯をぎゅっと凝縮してご紹介します。
親鸞とは一体どのような人物だったのか。
まずはその波乱に満ちた人生を一緒にたどっていきましょう。
親鸞聖人の生涯
1173年、親鸞は京都の中下級貴族、日野有範の長男として誕生しました。
ですが、実は生まれた時からすでに挫折が始まっています。
祖父がなんらかの失態を犯したとのことで家が傾き、出世の道がすでに閉ざされてしまっていたのです。そのため九歳で出家し、仏門に入ることになったのでした。
そこから親鸞は比叡山でひたすら修学に励んだのですが、そこにも希望を見出せず挫折してしまいます。
そして1201年、29歳で彼は比叡山を下りて吉水の法然教団へと向かいました。なぜ彼が法然教団に入門したかはここでは長くなってしまうのでお話しできませんが、比叡山という全国から秀才の集まる修行道場を去ったというのは彼の人生において大きな転換点となったのは間違いありません。このあたりの事情は連載にて詳しくお話ししていますので興味のある方はぜひ連載にてお楽しみください。

さて、比叡山を下り法然教団に弟子入りした親鸞でしたが、生涯の師法然と学んだ吉水での日々は彼にとって幸せな日々であったことでしょう。
ですがそれもあっという間に崩れ去り、弾圧の憂き目に遭ってしまいます。一二〇七年、彼は師匠法然に連座して越後に流されることになってしまったのです。この弾圧事件の背景についても連載では詳しく見ていきます。

そして親鸞は流罪先の越後で罪人として四年を過ごしました。この間、親鸞は不気味なほど沈黙を続けています。親鸞は元々自らのことを語りたがらない人間でありましたが、輪をかけて沈黙しているのがこの越後流罪期間なのです。
親鸞は孤独でした。法然教団には尊敬する師も、議論できる仲間たちもいました。しかし今は誰も頼ることができません。全て自分で解決しなければならないのです。
ですが、だからこそ親鸞の信仰は深められたのではないでしょうか。
ここでは私の話など誰も聞いてくれない。私の信念はどこにあるのか。絶対に揺るがぬ信仰を法然上人から頂いたはずではなかったか。私は一体何者なのか。何をなすべきなのか……。
重くのしかかる日本海の雪雲、打ち寄せる荒波、雪で閉ざされた世界。
自らの内へ内へと潜っていく思索はこうした環境で研ぎ澄まされていくのでありましょう。燦燦と輝く南国の太陽の下ではこんな思索はできません。やはり暗い部屋にひとりこもり、黙々と問い続けなければならないのです。そして狂気と絶望の深淵を覗いた人間だけが偉大なる人生への一歩を踏み出すのです。親鸞はまさにその資格を持った人間でした。
後に彼の主著となる『教行信証』にはまさに彼の絶望的なまでの自己内省が記されています。私はその箇所を読むたびに親鸞の狂気を感じずにはいられません。絶望と狂気の深淵に触れた人間にしか見えない世界を親鸞は見ていたのではないでしょうか。
そして罪を許されてから数年後、親鸞は関東へと移住します。これが親鸞の東国布教の始まりでした。

親鸞は関東に二十年ほど滞在し、多くの門弟が親鸞の教えに帰すことになりました。この時期に主著『教行信証』が執筆されています。沈黙の越後生活を経て彼は何かを掴んだのでしょうか。明らかに以前の彼とは違います。ここ関東ではそんな親鸞に心打たれた者が多かったのかもしれません。このあたりの関東独特の事情も連載では詳しく見ていきます。ここは近年の歴史学研究で明らかになったことも多く、きっと皆さんも驚くと思います。この連載の柱と言っても過言ではありません。ぜひお楽しみに。
そして六十代になった親鸞は、生まれ故郷の京都へと帰還します。ですが、彼がなぜ京都に帰ったのかはわかっていません。関東にはすでに多くの門弟がおり、その地に留まるという道もあったはずです。ですが、彼はその関東を離れ、京都へと向かったのでありました。
京都に帰ってからの親鸞は、比較的穏やかな生活を送っていたと思われます。帰洛後数年間はその消息も定かではありませんが、やがて関東の弟子たちとの交流も再開しています。こうして親鸞は最晩年へと進んでいきます。
そして時は過ぎ、彼が関東を去ってから早二十年。親鸞もすでに八十歳になろうかという年齢でありました。もはや穏やかな老境といった年代です。やることはやった。あとはもう、静かに念仏生活を送りたいものだ……。
しかし、そんな親鸞に最後の嵐がやってきます。それが関東の弟子たちの混乱でした。親鸞はこの弟子たちの混乱に生涯の最後の最後まで悩み続けることになります。
では、その事の起こりについて見ていくことにしましょう。
まず、これまで述べてきましたように、親鸞は関東各地で布教を行ってきました。そして各地に初期真宗教団とも言える、親鸞の弟子を中心とした道場コミュニティができていきました。親鸞が関東にいる内は、それぞれの弟子たちが親鸞を師匠と慕い、その教えを聞いていたのです。
しかし親鸞が関東を去ってからは、もし教えの内容でわからないことや不安なことがあってもすぐに質問することができなくなってしまいました。また、弟子間で考え方のすれ違いがあっても、親鸞がいなければ自分たちで裁定しなければなりません。これらは大きな問題ではありましたが、親鸞が関東を去って間もなくはまだよかったのです。親鸞と共にいた記憶は鮮明であり、弟子たちにもその薫陶が強く残っていたからです。そのため全体としてもそれほど大きな混乱はなかったのでありました。
しかし、十年、十五年、二十年と経てばどうでしょう。時が経つにつれ、それぞれの道場では様々な問題が噴出してきます。それが弟子の暴走でした。一部の弟子、あるいはその信者が、念仏を称えさえすれば悪事を働いても構わないかのように振る舞い、治安を乱し始めたのです。
親鸞の教えに、後に「悪人正機」と呼ばれる思想があったのはたしかです。ですが、親鸞はその教えを説きはしましたが、好き勝手に悪いことをしてよいなどとは一言も言っていません。
しかしその心を理解しない弟子や信者たちがこうして暴れ始めたのです。こうした現状に、関東の高弟たちが危機意識を持ち、親鸞に続々と手紙を送って来るようになりました。親鸞はその手紙に丁寧に応え、多くの書簡を関東の弟子たちに送っています。
しかし、状況は一向に改善されず、関東の弟子たちではもはや収拾のつかないところまで混乱は進んでしまいます。「我こそは親鸞の弟子なり」と嘘をついて触れ回る者すら出てくる始末……。もはや統制は不可能。このままでは教団は崩壊してしまう……。
自分が行くべきなのか……いや、行ったところでこの老体で何ができよう……しかしなんとかせねば……。
悩む親鸞でしたが、妙案が浮かびました。それが長男の善鸞を親鸞の代理人として関東に送り込むという計画でありました。善鸞ならば教えも理解しているし、関東の混乱を収束させられるだろうと考えたのです。こうして、親鸞の命を受けた善鸞は急ぎ関東へと向かったのでした。
関東は大変なことになっているだろうが、善鸞ならばやってくれるだろう。こうしてほっと一息ついた親鸞でありましたが、これが地獄の始まりになるとは夢にも思っていなかったことでありましょう。
しばらくして親鸞は信じられない手紙を受け取ることになります。
それは関東の弟子たちからの手紙でした。
「善鸞殿は何のために来られたのですか?あの方は私たちのことを非難するばかりで、関東は余計混乱しています。どうにかしてください。」
善鸞が弟子たちを非難?一体どういうことだ?親鸞は困惑しました。善鸞が関東に向かってからすでに数年が経っていました。善鸞からは関東からの懇志金や手紙も届いていましたし、親鸞はある程度善鸞が関東でうまく立ち回っていると思っていたのです。
しかし、どうだろう。この手紙はいったい何なのだ?……いや、善鸞に限ってそんなことは……。
親鸞は疑問に思いつつも、善鸞や弟子たちとその後もやりとりを続けていました。これはきっと何かの間違いに過ぎまい。すぐに誤解も解けるであろう……。
ですが、現実は無情でした。やはり善鸞は関東で混乱を招いていたのです。善鸞は門弟たちの混乱を収めようとするあまり、親鸞の教えを歪めてまで弟子たちを統制しようとしていたのです。しかも「私は父親鸞から秘密の教えを授かった。実は関東の門弟にはその教えは伝えられていない。だから彼らではなく私につくべきなのだ」とまで言って布教をしていたのです。さらに善鸞の暴走はこれにとどまらず、関東教団の主導権を奪うために幕府や六波羅探題に訴訟まで起こしてしまいます。幕府や朝廷から弾圧されないために善鸞は送り込まれたわけですが、その善鸞が幕府や朝廷と結んで弟子たちを訴えてしまったのです。これでは本末転倒です。
親鸞がこうした状況を知ったのはかなり後のことでした。弟子と善鸞、双方から手紙が寄せられたのですが両者の言い分があまりにかけ離れていたため親鸞にはどちらを信じてよいかわからなかったのです。
しかし、次第に善鸞の行いに疑問を持ち始め、それを本人に問いただすようになります。窮地に追い込まれた善鸞は釈明するも、ついに親鸞はすべてを悟りました。この時の親鸞の悲痛は耐えがたいものがあったことでしょう。
信頼していた息子に裏切られた……。
念仏の教えに生きていても、家族一人にすら伝わっていなかった……。
あれだけ共にいた関東の弟子たちも、結局善鸞に惑わされるほどの信心でしかなかった……。
どれほどの無力感、絶望であったことでしょう。これまでやってきたことは一体何だったのか……。
親鸞は断腸の思いで善鸞を義絶し、この事件は終結します。これが親鸞最晩年に起こった悲劇、善鸞事件です。
歴史学者今井雅晴はこの善鸞事件の前後の時期に親鸞の著作が一気に増えている点を指摘しています。

こちらは親鸞の著作、書写、直筆ノート類の制作点数の表になりますが、見ての通り、82歳から86歳までの間にそれが集中しています。なんと全生涯で書いた六十三点の内四十五点、つまり七割強の著作がこの最晩年の数年で書かれているのです。これは驚異的です。
この時期の親鸞の絶望や苦悩は凄まじいものがあったことでしょう。普通ならば心が折れてもおかしくない状況です。これまでやってきたことは一体何だったのだと。自分の足元が全て崩れ落ちてしまうようなそんな虚無感にも襲われていたのではないでしょうか。
ですがそれにも関わらず親鸞は書き続けた。ここに親鸞の偉大さがあります。八十代半ば、もはや人生の黄昏と言ってもよい年齢です。できることなら静かに余生を過ごしたかったことでしょう。しかし運命は親鸞にそのような安穏な生活を許しませんでした。ですが、ここにこそ親鸞が真の英雄たる理由があります。
英雄とは巨大な敵を倒したり、圧倒的な業績を残した人間を指すと考えられがちですが、英雄とはそれだけではありません。たとえ大きな敵を倒さずとも、偉大な業績を残さなくとも、英雄たる人生はありうるのです。たとえ挫折しても、失敗しても、苦しみ続けても歩み続ける。そのような英雄もいるのです。そう考えると、善鸞事件というのは、まさに親鸞が背負うことになった宿命だったのかもしれません。私がこの連載のタイトルを『悩み多き英雄の偉大なる生涯』とした理由はまさにここにあります。
こうして親鸞最晩年の嵐は過ぎました。驚異的な精神力で執筆を続けていた親鸞でありましたが、八十七歳以降はその執筆もほとんどなくなり、八十九歳でついにその筆は完全に止まります。ここまで猛烈な勢いで書き続けていたこと自体驚異的ですが、いよいよ親鸞の体は弱ってきていたのです。
そしてその死は、驚くほど呆気なく訪れました。体調を崩して病床に伏した親鸞は、そのまま静かに息を引き取っていったのです……。
こういう英雄もいるのです。
親鸞は、静かにこの世から去っていきました。まるで「やるべきことはやった、すべての力をそこに注いできた」と言わんばかりに力衰え命を終えていったのです。そこに劇的な幕切れなど必要ありません。彼の生き様そのものがあれほど偉大なものだったのですから……。
親鸞、九十年の生涯でありました。
おわりに
ここまで親鸞聖人の九十年の生涯を駆け足で見てきましたが、いかがでしたでしょうか。
親鸞というと、どうしても「浄土真宗を開いた偉いお坊さん」「難しい仏教思想を説いた人」というイメージが先に立ってしまうかもしれません。
ですが、その生涯をたどってみると、そこに見えてくるのは決して何事にも動じない超人的な聖人の姿ではありません。
挫折し、悩み、苦しみ、それでも歩み続けた一人の人間の姿です。
そして今回ご紹介したのは、そんな親鸞の90年のほんの概略にすぎません。
なぜ親鸞は比叡山を下りたのか。法然との出会いは彼に何をもたらしたのか。なぜ関東へ向かい、そこでどのような人々と出会ったのか。そして晩年の親鸞は何を思い、何を書き残したのか。
当ブログの長編連載『親鸞伝~悩み多き英雄の偉大なる生涯』では、当時の歴史や社会状況、最新の研究成果なども交えながら、親鸞の誕生からその最期までをじっくりとたどっていきます。
今回の概略版はそんな連載の空気感を感じて頂けるような内容にしてみました。
興味のある方はぜひ本編にお進みください。驚くこと間違いなしです。
