(26)アジャンター石窟から見る仏教教団の繁栄~インドの経済的活況と密接に結びついた仏教教団

【シン日本仏教史】(26)アジャンター石窟から見る仏教教団の繁栄~インドの経済的活況と密接に結びついた仏教教団
前回の記事の最後にもお話ししましたが、ヒンドゥー教王朝のグプタ朝の下で仏教はさらなる発展を遂げていくことになります。
そしてその発展の原動力となったのがローマをはじめとする西方諸国との交易になります。
ローマとの交易は1世紀頃からインドで活況を見せていましたが、このグプタ朝時代においてもそれは健在でありました。
特にこの地図で示しましたバールカッチャのように、西方貿易は西インドの海岸が拠点でした。そして西インドの港に到着した品々はそこからさらに海路や陸路を通じてインド中に運ばれていきます。当時のインドはこうした西方貿易の活況によって商工業が急速に発展した時代だったのです。こうしてインド西部から中央部にかけて莫大な富を蓄積した王侯貴族や大商人が次々と現れることになります。
そして皆さん、覚えておりますでしょうか。
仏教教団のパトロンがどのような人が多かったかということです。
そうです。仏教教団はその成立当時から王侯貴族や大商人の帰依を受けてきた歴史があります。まさにこのグプタ朝期においても、こうした各地の王侯貴族や大商人の支援を受けて発展を続けたのです。
そしてその典型例として挙げられるのが、仏教壁画で有名なアジャンター石窟寺院になります。

アジャンター石窟群が開窟されたのは主に2つの時期に分けられます。第1期が紀元前1世紀~紀元後1世紀頃、第2期が5世紀後半から600年頃と考えられています。
第1期に作られたのはほんの5つほどの僧院窟で、残りは第2期に集中的に作られています。アジャンターで有名な壁画や彫刻などは皆この第2期に制作されたものになります。まさにグプタ朝の時期がこれに当たります。

では、この石窟寺院がなぜ西方交易と関係がありますかと言いますと、まずはこの遺跡の位置を知って頂く必要があります。
この地図を見てわかりますように、アジャンターは西インドの海岸から内陸へと入った場所に位置します。そしてこれの何が重要かと言いますと、実はこのアジャンターが作られた場所こそまさに西方交易の隊商達の交易ルートだったのです。つまり、アジャンターは商人たちの宗教施設でもあり、休憩所でもあったのです。
このことについて奈良康明『仏教史』では次のように解説されています。
仏教窟院が都市の近くか都市を結ぶ交易路のルート上にあることは偶然ではない。外護者の商人たちや王侯、貴族、各地に定住する商工業者たちが、こうした窟院や付属設備、比丘の生活資具を寄進した人たちだったのであり、それにはそれなりの宗教的必要性があったのである。
窟院はまず交易商人たちの休憩所の役目を果たしていたと思われる。炎熱の旅行に疲れた彼らは、涼風が吹き抜けひんやりとした空気の中に疲れをいやした。同時に説法を聞き、正しく生きることへの意味を教えられ、励まされ、心を浄化したことももちろんあったに違いない。すなわち財施に対して「法施」を受けた。さらに、より重要なことは、窟院は彼らの功徳を積む場でもあって、この点はストゥーパ崇拝と同様である。前一世紀から後三世紀ごろの同地方の窟院に対する寄進銘文をみると、寄進の目的はほぼきまり文句で、「功徳のため」「両親の供養のため」「過去・現在・未来の家族の利益のため」「一切衆生の利益と安楽のため」などであり、さらに「仏への供養」「涅槃を得るため」という表現もある。両親、家族のためということは、功徳の回向という観念とかかわっている。前にも述べた通り、功徳を積むことは死後の生天を意味するものであり、仏教本来の悟りとは次元が違う。しかし一般仏教徒の信仰生活を支えたのは実際にはこの功徳の観念であった。
山川出版社、奈良康明『仏教史Ⅰ』P219-220
なぜ石窟寺院が休憩所になるかというのは、実際に現地に行ってみるとものすごく実感できます。
西インドは熱帯気候でとにかく蒸して暑いのです。私もムンバイでその暑さを体験しました。

そしてこちらはムンバイ沖のエレファンタ島石窟の写真なのですが、私の初めての石窟体験となった遺跡です。

岩山を彫って作られたこの石窟寺院でありますが、入った瞬間私も驚きました。外の気温と全く違うのです。うんざりするほどの暑さだったのが嘘のような涼しさです。この涼しさを仏教学者の中村元先生は「天然のクーラー」と表現しておられましたがまさにその通りでした。
こうした涼しい休憩所として交易路に石窟寺院が作られていったというのは非常に興味深いものがあります。宗教は宗教だけにあらず。やはり様々な要因が重なって宗教が発展していったのだということを感じます。
また、先ほど紹介したアジャンター石窟についてもうひとつ興味深いポイントをご紹介したいと思います。
まずはこの遺跡を代表するこちらの壁画をご覧ください。

この蓮華手菩薩は先ほど紹介した金剛手菩薩と同じ部屋に描かれたものなのですが、これら両菩薩の装飾品にご注目下さい。

菩薩という存在も当然、仏道の修行者でありますから本来は装飾品などを身につけてはいけないはずなのです。
しかしこの両菩薩は豪華な冠や装飾品をふんだんに身につけています。
はたしてこれはどういうことなのでしょう。
そうです。まさにここのグプタ朝における仏教のヒンドゥー化が見て取れるのです。


元々、仏像は上の写真のようにシンプルな衣を身にまとうのみでありました。これが仏教の修行スタイルでありますから、これは当たり前のことですよね。
ですがそれが時を経てグプタ朝期になるとヒンドゥー教彫刻の影響を受けて仏教でも豪華な装飾を施すようになっていきます。ヒンドゥー教では彫刻に世俗の王者の姿を反映させるのが主流だったのです。それが仏教にも取り入れられたということになります。
これは仏教教団のパトロンであった王侯貴族や大商人たちの意向も大きく関わっていたと思われます。

アジャンター石窟には上で紹介した菩薩の他にも彩色豊かな壁画が多数残されています。
純粋な仏道修行という面からはこれらの壁画が描かれる必然性は見出せません。
ですが、ここが王侯貴族や大商人が心を込めて作った空間であるとするならば、こうした壁画の存在にも納得がいきます。彼らはここで休憩し、仏法を聞きながら時を過ごし、心を癒していたのです。そこに彼らの日常的な美的感覚が持ち込まれたとしても不自然ではありません。その一環で菩薩の装飾が施されていったのでしょう。もしかすると、彼ら自身の姿をそこに投影したいという願いもあったかもしれません。これは当人たちに聞いてみないとわかりませんが、西方交易によって仏教教団が大いに繁栄したというのはインド仏教の実像を知る上でも大きなポイントとなってきます。
つまり、インドにおける仏教教団、とりわけこうした大規模な僧院や石窟寺院の繁栄は、王侯貴族や大商人といった有力なパトロンの支援と密接に結びついていたということになります。もちろん、そこに携わる多くの人達や現地の人々との関係もあったでしょうが、こうした仏教教団のあり方は注目に値します。事実、こうした大パトロンを失った仏教教団は後にインドで急速に力を失ってしまうことになるのです。
いずれにせよ、グプタ朝においても仏教はさらに発展を続けていくことになりました。
次の記事ではそんな仏教教団が生み出した最高クラスの彫刻と、ヒンドゥー教芸術の最高峰カイラーサナータ寺院を同時に堪能できるエローラ遺跡をご紹介します。この遺跡はグプタ朝からさらに時代が下った頃の遺跡ですが、仏教とヒンドゥー教の違いを感じるのにうってつけの場所となっています。ぜひ、お楽しみに。
続く
主要参考文献一覧
〇インドの歴史・宗教・文化について知るのにおすすめの参考書一覧
〇インド仏教をもっと知りたい方へのおすすめ本一覧
〇仏教国スリランカを知るためのおすすめ本一覧
〇中国仏教・中国思想のおすすめ解説本一覧
〇親鸞聖人や日本仏教を学ぶためのおすすめ参考書一覧
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