(19)「Who am I ?」シャンマチウ事件における絶望的な葛藤~ミュージカル版との決定的な違いについて

「ユゴーの原作『レ・ミゼラブル』を読む」(19)シャンマチウ事件におけるジャン・ヴァルジャンの絶望的な葛藤~ミュージカル版との違いについて
第一部 ファンチーヌ 第七章 シャンマチウ事件
シャンマチウの裁判が間もなくアラスの町で始まります。この裁判によって彼がジャン・ヴァルジャンであるという判決が下ったならば、マドレーヌもといジャン・ヴァルジャンは一生安泰です。
・・・が、はたして本当にそれでよいのか・・・
ここからミュージカルでも見せ場である「Who am I ?」という葛藤が始まっていきます。
ただ、原作を読んだ方はここからの展開に驚いたことでしょう。
と言いますのも、ここでのジャン・ヴァルジャンの葛藤があまりに長く続くからです。これはミュージカル版とは全く異なります。なんと、原作ではこのシャンマチウ事件が130ページにもわたって書き連ねられているのです!ミュージカルではたった数分の歌で表現されていたこの事件の裏で、ジャン・ヴァルジャンは葛藤し続けていたのでありました。
もちろん、ミュージカル音楽でもその葛藤の始まりは「不当に捕まった彼を助けるべきか否か」です。そして「名乗り出れば身の破滅、黙っていても地獄落ち」と繋がっていきます。これは同じです。
ですが、ここからが問題なのです。
ミュージカルではここからすぐに「町の人々の生活」に話が移っていきます。もし市長たる私が捕まれば彼らの生活はどうなる?ということですね。
これが原作と全く異なる点です。
実は、原作では町の人々の生活が彼の脳裏をよぎるまでかなりの時間を要しているのです。これは彼の葛藤を知る上でも非常に重要なポイントと言えます。
というわけで、ここから本文を見ていきながらその流れを見ていくことにしましょう。
ジャン・ヴァルジャンはまず馬車屋に行き、明朝4時半に馬車をつけるよう話をつけます。この時間に出発すれば翌日アラスで開かれる裁判に間に合います。この時点ではなぜ彼が現地に行こうとしたのかは明らかにされていません。おそらく、そうせざるをえないと無意識に行った行動なのでしょう。実際、この少し後でユゴーはこの時のジャン・ヴァルジャンの思考を次のように記しています。
たぶんアラスに行かねばなるまい、と漠然と感じたが、その旅の決心をしたわけでは全くなく、自分はなんの疑いもかけられていないのだから、これからの裁判の証人になってもかまわないわけだとも考えた。そこであらゆる事態にそなえるために、スコーフレールの馬車を予約したのである。
新潮社、ユゴー、佐藤朔訳『レ・ミゼラブル㈠』P418
いかがでしょう。原作を読んでいない方からするとかなり驚かれる内容だと思います。ミュージカルでは悩んだ末に決心して馬車に乗りこみ、自らがジャン・ヴァルジャンだと正体を明かします。
ですが原作では馬車を予約した後に絶望的な葛藤が始まり、馬車に乗ってからもずっと悩み続けているのです。馬車に乗ったのは決心がついたからではなく、すでに予約していたのだから行かねばならないという理由だったのです。これは大きな違いです。もしかしするとミュージカルでもすでに馬車を用意していたのかもしれませんが、その葛藤の描かれ方がかなり違うのは注意したいポイントです。
そしてここからはユゴーの独壇場です。
彼はジャン・ヴァルジャンの心の奥をこれでもかと描写していきます。心理洞察の鬼ドストエフスキーもびっくりの壮絶な葛藤です。ドストエフスキーがこれを読んだのは1862年のことです。『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』などの長編はこの後に書かれていますので、もしかするとドストエフスキーはこのシャンマチウ事件に巨大な影響を受けているとも言えなくもありません。後に改めて紹介しますが、『カラマーゾフの兄弟』のある名言とも重なる言葉がこの後登場してきます。
では、ここから本文を読んでいきましょう。
私はすでにこの人の意識の深みをのぞいて見た。もう一度それを見るときがきたのである。それは感動と戦慄なしには済まされない。こうした熟視以上に、恐ろしいものはない。精神の目は、人間の心の中より以上に、まぶしさも暗さも見つけることができない。またこれ以上、恐ろしくて、複雑で、神秘で、無限なものを凝視することもできない。海よりも大きなながめがある。それは空である、空より大きなながめがある、それは魂の内部である。
新潮社、ユゴー、佐藤朔訳『レ・ミゼラブル㈠』P414
「海よりも大きなながめがある。それは空である、空より大きなながめがある、それは魂の内部である。」
く~!!たまらんです!!さすがユゴーです!このあまりに格好良すぎる言葉からジャン・ヴァルジャンの絶望的な葛藤を私達は目の当たりにすることになります。そして早速重要な言葉が語られます。
司教の神聖な言葉を聞いて、後悔と犠牲の多くの歳月をすごし、見事にはじめられた償いの最中に、この男がこうした恐ろしい機会に直面しても、一瞬もたじろがず、はるかに天国につながっている絶壁に向って、変らない歩調で歩きつづけたのだったら、なるほど立派だったろう。立派だったろうが、そうはならなかった。私はこの魂の中で行われたことを明らかにしなければならないし、またこの魂の中に起ったことしか語ることができない。まず第一に彼を打負かしたのは、自己保存の本能だった。
新潮社、ユゴー、佐藤朔訳『レ・ミゼラブル㈠』P417
ジャン・ヴァルジャンはミリエル司教との出会いによって生まれ変わりました。そしてそこからマドレーヌとして立派な生活を送っていましたが、彼は聖人ではありません。今回ジャヴェールに「ジャン・ヴァルジャン」という名を嗅ぎつけられ、絶望的な恐怖に襲われることになりましたが、ここで一瞬もたじろがずに堂々と名乗り出たのであればたしかに立派であったことでしょう。ですがジャン・ヴァルジャンはそうではないのです。彼は葛藤し、苦悩するのです。
名乗り出るべきだ!と思った瞬間、頭の中で「待て、待て!そんなのはヒロイズムにすぎない」と内なる声が響く。そして「そんなことをして何になる!またあの地獄へ戻るなんて絶対に嫌だ」と自己保存の本能が盛んに叫ぶのです。
ですが、どうすればよいというのでしょう!ジャン・ヴァルジャンは苦しみ続けます。
彼は何か眠りからさめたような気がした。そして暗夜に立って、ふるえながら、あとじさりしようとしても、それができず、坂道をすべって行って、深淵のふちに立っているような気がした。闇の中に、一人の見知らぬ男が、彼と無関係の男がはっきりと見えた。運命はその男を彼とまちがえて、彼のかわりにその男を深淵に突き落そうとしている。その深淵が閉ざされるためには、彼か、その男か、どちらかがそこに落ちなくてはならない。
成り行きにまかせるより仕方がなかった。
新潮社、ユゴー、佐藤朔訳『レ・ミゼラブル㈠』P422
「成り行きにまかせるより仕方がなかった」
我々が知っているミュージカルのジャン・ヴァルジャンと何と異なることでしょう!ここにも「葛藤の人」ジャン・ヴァルジャンの特徴が出ています。
そして彼はこう心の中で語ります。
ずいぶん前から俺を悩ましているジャヴェール、あいつの恐るべき本能は、俺を見破ったらしく、いや、全く、見破ったからこそ、俺のあとをどこまでもつけてきたのだが、あの絶えず俺に目星をつけていたこわい猟犬だったあいつが、途方にくれ、ほかに心をとられ、絶対に足跡を見失ってしまったのだ!あいつはそれで満足しているし、もう俺にかまわないだろう。あいつのジャン・ヴァルジャンを捕まえたのだから!それに、この町から立ち去ろうとしているらしい!それが全部俺とは無関係に行われたのだ!俺はなんにもしなかった!してみれば、この事件に何かまずいことがあるだろうか?俺を見る連中は、きっと思わぬ災難が俺に降りかかったのだと思うだろう!要するに、誰かが不幸になったとしても、断じて俺のせいじゃない。すべては神の意志だ。明らかに神がそうお望みになったのだ。
新潮社、ユゴー、佐藤朔訳『レ・ミゼラブル㈠』P424
「俺はなんにもしなかった!」
「要するに、誰かが不幸になったとしても、断じて俺のせいじゃない。すべては神の意志だ。明らかに神がそうお望みになったのだ」
ジャン・ヴァルジャンは本気でこれを思っています。ですが「葛藤の人」ジャン・ヴァルジャンにはすぐさま別の考えも浮かんできます。「はたして本当にそれでよいのか?」と。こうして次から次に揺れていくのがジャン・ヴァルジャンなのです。こうした内面の戦いについてユゴーは次のように語っています。
人間が自分自身に話しかけることはたしかである。考える存在であって、そのことを経験しなかった者はいない。言葉は人間の内部で、思想から良心へゆき、良心から思想へ戻るときほど、すばらしい神秘となることはない、と言っていいくらいだ。この章の中でよく用いられる「彼は言った、彼は叫んだ」などの言葉は、ただこの意味にだけ解すべきである。人は外部の沈黙を破らずに、内部で、自分に言い、語り、叫ぶ。そこには大変な騒ぎがある。口以外のすべてが、内部で語っている。魂の現実は目に見えず、手に触れられないからといっても、やはりそれは現実なのである。
新潮社、ユゴー、佐藤朔訳『レ・ミゼラブル㈠』P426
ジャン・ヴァルジャンの中で良心が叫びます。「果たして本当にそれでよいのか」と。そして自己保存の本能と良心が戦う戦場が彼の心なのです。「暗黒と光明との中間で、神と巨人が闘っている」とユゴーは表現していますが、まさにドストエフスキー的と言ってもよいでしょう。
彼は司教がそこにいるように感じた、司教は死んでいるだけになおそこにいて、彼をじっと見つめ、今後マドレーヌ市長が、どんなに徳を持っていても、司教には忌わしい人間と見え、徒刑囚ジャン・ヴァルジャンに返ってこそ、司教にとって清らかな、立派な人間に見えるだろう、と感じた。世間の人は彼の仮面を見るが、司教は彼の素顔を見る。世間の人は彼の生活を見るが、司教は仮の良心を見る。だからアラスへ行って、偽のジャン・ヴァルジャンを救い、真犯人を告発しなければならない!ああ!それは最大の犠牲であり、最も悲痛な勝利であり、踏み越えるべき最後の一歩である。だが、そうしなければならないのだ。苦しい運命だ!彼は人間から見て汚辱に帰らないかぎり、神から見て神聖なものの中には入れないだろう。
「よし」と彼は言った。「そう決心しよう!われわれの義務を果そう!あの男を救おう!」
新潮社、ユゴー、佐藤朔訳『レ・ミゼラブル㈠』P428-429
ここでようやくジャン・ヴァルジャンは決心します。「彼を救おう」と。
彼は恐怖にみたされていたが、いい観念の方が勝つように思われた。自分の良心と運命との決定的瞬間に、またもや触れる感じだった。司教が彼の新しい生活の第一期を画したのであり、このシャンマチウという男が第二期を画するように感じた。大きな危機のあとで、大きな試練がきたのだ。
新潮社、ユゴー、佐藤朔訳『レ・ミゼラブル㈠』P430
「司教が彼の新しい生活の第一期を画したのであり、このシャンマチウという男が第二期を画するように感じた」
シャンマチウ事件がジャン・ヴァルジャンにとってどれほど大きな出来事だったかがこの一文からうかがわれます。
さて、こうしてシャンマチウを救おうと決心したジャン・ヴァルジャンでありましたが、これから先も様々な考えが頭をよぎります。その決意は揺らぎはしませんでしたが、ずっと葛藤しているのです。そしてここからが最も重要なポイントになります。その決定的なシーンをぜひ一緒に読んでいきましょう。
最後に彼はこう思ったーこれはやむをえないのだ、おれの運命はこうなのだ、神の配慮を乱すことはできなかった。どうあろうとも、どちらかを選ばなくてはならない。外面が美徳で内面は醜悪か、または内面が神聖で外面は汚辱か。
こんな不吉な考えをめぐらしても、彼の勇気はくじけなかったが、頭が疲れてしまった。彼はいつのまにかほかのことを、無関係なことを考えだした。
血管がこめかみで激しく鼓動していた。彼は相変らず部屋の中を行ったり来たりした。教会がまず十二時を告げ、それから市役所の時計が鳴った。彼は二つの時計の十二の音が鳴るのを数え、二つの鐘の音をくらべた。彼はそのとき、数日前に金物店で見た「ロマンヴィルのアントワーヌ・アルバン」という銘のある売物の古い鐘を思い出した。
寒くなった。少し火をたいた。窓をしめようとは思いつかなかった。そのうちにまた頭がぼんやりしてきた。十二時が鳴る前に、何を考えていたか思い出すのに、かなり骨が折れた。彼はとうとう思い出した。
「ああ!そうだ」と彼は独り言を言った。「自首の決心をしたのだった」
それから突然ファンチーヌのことを考えた。
「そうそう!あの可哀そうな女!」
ここで新しい危機が生じた。
ファンチーヌは、思いがけない一筋の光線のように、彼の夢想の中に、急にあらわれた。まわりのすべての様子が変ったみたいだった。彼は叫んだ。
新潮社、ユゴー、佐藤朔訳『レ・ミゼラブル㈠』P432-433
「そうそう!あの可哀そうな女!」
いかがでしょうか、ここでやっとファンチーヌが彼の中に出てくるのです。
しかもこのファンチーヌの存在が出てきて初めて町の人々の存在も彼の頭の中に浮かんでくるのです。これは実に重要なポイントでありましょう。人々のことは後になって浮かんできたのです。
では、引き続き読んでいきましょう。
あ、そうだ!これまで俺は自分のことしか考えなかった!俺の都合しか考えなかった!黙っているか、自首した方がいいかー自分の身の上を匿すか、魂を救うかー尊敬はされているが軽蔑すべき行政官のままでいるか、汚らわしいが尊敬すべき懲役人になるか、俺、いつも俺、俺のことばかりだ!しかし、ああ、そいつは利己主義だ!利己主義の変形だ、だがやはり利己主義だ!少しは他人のことも考えたら?神聖の第一は、他人のことを考えることだ。さあ、よく考えてみよう。自分を除き、消し、忘れたら、どうなるだろうか?自首したら?俺は逮捕され、シャンマチウは釈放され、俺は徒刑場に送られる。それはいい、だが、そのあとは?ここではどういうことになるか?ああ、ここには一つの地方、一つの都市、工場、産業があり、労働者、男女、老幼、貧しい人たちがいる!俺がそうしたもの全部をつくり、生かしているのだ。煙の立つ煙突があればどこでも、この俺が火に火種をおき、鍋に肉を入れてやったのだ。俺は安楽と流通と信用をつくった。俺以前には何もなかった。俺がこの地方全体を復興させ、活気づけ、生気を与え、豊かにし、刺激し、富ましたのだ。俺がいなければ、魂が抜けたようなものだ。俺がいなくなれば、すべては死んでしまう。
新潮社、ユゴー、佐藤朔訳『レ・ミゼラブル㈠』P433-434
「あ、そうだ!これまで俺は自分のことしか考えなかった!俺の都合しか考えなかった!」
「俺、いつも俺、俺のことばかりだ!」
これまたすごい葛藤です。先ほどミリエル司教のおかげで自白を決意したのでありますが、ふと浮かんできたファンチーヌの存在によってこうした新たな問いが発生してきたのです。
そしてこの町の人々をどうするかという問題は彼を更なる高みへと押し上げます。
「俺が自首すれば、どんなことになるだろう。自首しなかったら?さあ、自首しなかったら?」
こう問いかけたあとで、彼はやめた。ちょっと、ためらいと身ぶるいを感じた。だがその瞬間は短く、彼は静かに答えた。
「そうすれば、あの男は監獄に行く。そりゃそうだ、やむをえない!盗みを働いたからだ!あいつが盗みをしなかった、と俺が言ったところで、無駄だ。あいつは盗んだのだ!俺がここにとどまって、このままつづける。十年たてば、千万フラン儲け、それをこの地方にばらまく。俺は何も所有しない。そんなことして何になる?俺がやっていることは、俺のためじゃないのだ!みんなの繁栄はますます増し、産業はめざましく発展し、製作所や工場が増し、家庭が、百の家庭が、千の家庭が、幸福になる。人口がふえる。畑しかないところに村ができ、何もないところに畑ができる。貧乏がなくなり、それと一緒に放蕩、売淫、盗み、殺人、すべての悪徳、すべての犯罪がなくなる!そしてあの哀れな母親は、わが子を育てる!一つの地方全体が、富み、正直になる!ああ、俺は馬鹿だった、間ぬけだった、自首するなんて、つまらぬことを口にしたもんだ。気をつけなくてはいけない、全く、何もあわてることはない。なに!偉そうなこと、高潔なことをやりたかったのかね。そりゃ、つまりはお芝居さ!自分のこと、自分のことだけしか考えなかったのだ。なんだ!多少ひどすぎるかもしれないが、根本的には正しい刑罰から、どこの馬の骨かわからぬ泥棒を、明らかに悪党である男を救うために、一つの地方が全滅しなくてはならないなんて!哀れな女が慈善病院で死に、哀れな少女が野たれ死にをしなくてはならないなんて!犬みたいに!ああ、それはひどい!母親は子供に会えず、子供は母をほとんど知らずに!しかも、それが、あのリンゴ泥棒の野郎のためなのか!あいつはそのためじゃなくて、ほかのことのためにだって、監獄行きなのだ。一人の罪人を助けて、多くの罪のない人たちを犠牲にし、結局老い先短い、監獄にいたって、ぼろ小屋にいたって、同じくらい不幸な、老いぼれの浮浪人を救って、母親や女や子供や住民全部を犠牲にするとは、大した心づかいだ!あの可哀そうなコゼットには、この世で頼りになるのは俺だけしかいないし、今ごろあのテナルディエ夫婦のぼろ小屋で寒くて青ざめているのに違いない!あいつらもやっぱり悪党だ!俺はこの哀れな人たちにたいして義務をつくさないことになる!自首しようなんて!そんなへまをしでかすとは!最悪の場合を考えてみよう。このことは俺にとって悪い行いであり、いつかは俺が良心に責められるとしよう。俺だけにかぶさってくる非難を、俺の魂だけを危うくする悪い行いを、他人の幸福のために引受ける、これこそ献身なのだ、これこそ美徳なのだ」
新潮社、ユゴー、佐藤朔訳『レ・ミゼラブル㈠』P434-436
偉大なる自白は利己主義に過ぎない!一人でも多くの人を助けることこそ大いなる善ではないか!魂の苦しみは私一人が背負う。私ひとりの苦しみの代わりに、人々には食物と安全を与えよう。これぞ献身なのだ、美徳なのだ!
私はこうした発想に『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」の章の主題を感じずにはいれません。くしくも私は今年「『カラマーゾフの兄弟』を読む」の原稿を書き終えたばかりです。『カラマーゾフ』『レミゼ』と続けて読んだからこそ特に私はこの共通点を感じずにはいれません。まさに老大審問官が自らの内で戦わせていた葛藤をこのジャン・ヴァルジャンも経験しているのです。
また、「一人の罪人を助けて、多くの罪のない人たちを犠牲にし、結局老い先短い、監獄にいたって、ぼろ小屋にいたって、同じくらい不幸な、老いぼれの浮浪人を救って、母親や女や子供や住民全部を犠牲にするとは、大した心づかいだ!」というのは『罪と罰』を連想させます。「醜い金貸し老婆を殺してもっと有効に金を使った方が世のためではないか」というラスコーリニコフの理論とまさに繋がりを感じます。
こう考えるとドストエフスキーはこの作品にやはり多くのインスピレーションを受けていたことは間違いないのではないでしょうか。
もちろん、ドストエフスキーはドストエフスキーの立場から作品を創作していますので、剽窃したとかそういう話ではありません。私が言いたいのは偉大な作品には偉大な作品から受けたインスピレーションが宿っているということです。こうして文学、いや人間文化が成り立っているのだということです。
さて、話は少し反れてしまいましたが、こうしてジャン・ヴァルジャンはファンチーヌや町の人々のために黙ることを決心します。そうです。これは決心です。
そしてなんと、この直後にジャン・ヴァルジャンは信じられない行動に出ます。
なんと、あの大切な燭台を燃やそうとしてしまうのです!
これには私も驚きました。逆に言えば、それほどこの時のジャン・ヴァルジャンは黙ることを決意していたのです。
これがミュージカル版との決定的な違いです。そもそも葛藤が長いということはもちろんですが、一旦ここで自白を思いとどまり、さらにはミリエル司教そのものである燭台を燃やそうとしてしまう。ここに決定的な違いがあります。
ジャン・ヴァルジャンの絶望的なまでの葛藤はここまでのものだったのです。ミュージカルでは彼は「聖人」や「行動の人」といったイメージで描かれていますが違うのです。やはり彼は苦悩を背負いながら葛藤する人なのです。善なる心に従って迷いなく身を投げ出す人間ではないのです。ですがそこにこそ彼の偉大さがあるのです。
次の記事ではそんなジャン・ヴァルジャンの決定的なシーンを見ていくことにしましょう。
続く
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