ペローフ『ドストエフスキーの肖像画』制作のエピソードをご紹介!画家の見た作家の素顔とは

ドストエフスキーの肖像画 ドストエフスキー作品

ペローフ『ドストエフスキーの肖像画』制作のエピソードをご紹介!画家の見た作家の素顔とは

今回の記事ではポルドミンスキイ著『ロシア絵画の旅 はじまりはトレチャコフ美術館』より、『ドストエフスキーの肖像画』を描いたペローフのエピソードを紹介していきます。

私は2019年夏より『親鸞とドストエフスキー』をテーマにこれまで学んできましたが、学べば学ぶほど愛着が湧き、ついには額縁に入った肖像画を購入し部屋に飾るほどになってしまいました。

そしてこのドストエフスキーを描いた画家こそ今回紹介するペローフになります。

ワシーリー・ペローフ(1834-1882)Wikipediaより

ペローフという画家が生まれてくる背景についてポルドミンスキイは次のように述べています。

プーシキンとゴーゴリに続いてロシア文学に登場したのは、ネクラーソフ、トゥルゲーネフ、ドストエフスキイ、それにレフ・トルストイです。彼らの作品には農民、職人、役人、兵士、そして僻地の村やぺテルブルグの「片隅」や遠い地方都市やモスクワ郊外の住民らが、不幸と希望、絶望と夢を抱えて生きています。十九世紀半ばになると、作家の注意深く善良な目に映った、悲しいことの多いあるがままの生活の真実が、わが国の文学の重要な主人公になりました。

それがどんなものであれ、生活の真実を目指そうという動きはロシア美術にも波及しました。「我々の生活は観察者と画家にとって汲めども尽きぬ泉である。前者が血の通った言葉で見抜けないことは、後者がデッサンで示唆してくれる」と言って、画家たちに手を差しのべたのは詩人のネクラーソフです。作家と画家の仕事について、評論家のスターソフは的確にこう言っています。「ロシア絵画とロシア文学は血を分けた兄弟だ。どちらにも同じ魂、同じ精神、同じ情感と意義、同じ愛情と憎しみ、陶酔、希望そして課題があり、創作者、創造者の気質が同じである」

創作者、創造者として、愛情と憎しみを包み隠さず絵に表し、抱えている痛みと希望を画布に吐きだしたのはワシーリイ・グリゴーリエヴィチ・ペローフ(一八三四-一八八二)です。


群像社、ポルドミンスキイ、尾家順子訳『ロシア絵画の旅 はじまりはトレチャコフ美術館』P125

ロシア文学と絵画のつながりがとてもわかりやすく解説されていますよね。

そんなペローフの特徴を知るのにおすすめの絵が以下の『トロイカ』になります。

ペローフ『トロイカ』1866年 Wikipediaより

この絵画の解説を見ていきましょう。この絵が実は後にドストエフスキーとも繋がっていきますので少し長くなりますがじっくりと読んでいきます。

冬の夕暮れどき。吹雪です。都会の往来を、ふたりの少年とひとりの少女がそりにつながれ、凍った大きな水樽をやっとのことで引いています。子どもたちはもう力尽きてしまいました。激しい風か破れた服を吹き抜けます。通りがかりの親切な人が小高くなったところを引っ張るのを手伝っています。

ぺローフはこの絵を『トロイカ』と名づけました。この題名にどれほどの痛みと悲しみが込められていることでしょう。私たちは勢いよく疾走するトロイカ〔三頭立ての馬車〕の歌になじんでいますが、これは苦しみにあえぐ子どもたちの「卜ロイカ」です。

ぺローフはこの題名に、「水を運ぶ徒弟奉公の子どもたち」と書き添えました。当時はたくさんの子どもたちが一切れのパンのために工場や工房や大小の店で働かなくてはならず、そんな幼い労働者は「徒弟」と呼ばれていました。彼らに降りかかってきたのは一番の重労働と殴打と侮辱です。息つくことすらできません。一分でも時間が空くとたちまち、薪を割れ、暖炉をくべろ、サモワールを沸かせ、舗道の雪かきをしろと命じられ、パン屋や肉屋へ行かされたり、お茶とウォッカを買いに飲み屋へ使いに出されたりしたのです。朝と夕方には水を運んでこなくてはならず、それも数樽ずつということがよくありました。

もちろん、子どもたちの苦しい生活のことを知っている人は大勢いましたが、あきらめ顔に肩をすくめて、そのことは考えないようにしていました。ぺローフの心を揺さぶったのはあまりにも多くの人が目もとめずに通り過ぎた情景や出来事だ、と言われるのももっともです。そんな情景や出来事が、彼の絵の主要なテーマでした。


群像社、ポルドミンスキイ、尾家順子訳『ロシア絵画の旅 はじまりはトレチャコフ美術館』P128-9

ペローフは虐げられた民衆や子供たちを何度も画材にしていました。このことがドストエフスキーとのつながりを生むことになります。

では、『ドストエフスキーの肖像画』が描かれた顛末を見ていきましょう。

一八七二年の春、ぺローフはトレチャコフ美術館に収蔵するドストエフスキイの肖像画を描くためにペテルブルグに向かいました。その頃、作家は新作の執筆中でとても忙しく、何日も何日も書斎にこもって、人と知りあうのはおろか、身近な人に会うことさえ断っていたのですが、それでも、ペローフが作家の妻、アンナ・グリゴーリエヴナに頼むと、彼女はお力になりましょうと言ってくれました。

「あの人は、夕食後だけは、水入らずで、しばらく子どもたちと遊んだりふざけたりすることがよくあって、この時は重苦しい考えも去り、額のしわものびて、目がやさしくなります。ふざけたり、笑ったり、いつもとは別人のようになるのです。子どもたちを相手にすると変わるんですね」と彼女は言い表した。ぺローフは作家と面識を得るために、この幸福な時間に訪れることになりました。

ドストエフスキイの作品にはしばしば子どもたちが登場します。作家は子どもの持つ知恵と魂の並外れた力を限りなく信じていました。だからこそ、日常よく目にする子どもたちの苦しみは、その理由が飢えや寒さ、殴打や心を傷つけるひどい教育など、肉体的なものであれ精神的なものであれ、いつも作家の心を痛めつけていました。子どもたちが「夢に出てきて目の前にちらつく」と彼は打ちあけています。

しかし、ぺローフにとっても子どもは「空疎なお題目」ではなく、ぺローフの夢にも「出てきてちらついていた」に違いないのです。彼の絵のなかには不幸な、しかし素晴らしい子どもたちがいます。『ムイチーシチでのお茶』に出てくる盲目の物乞いの幼い案内人。『死者の葬送』のそりでうとうとしている少年と父親の棺を抱いている少女。『トロイカ』の力尽きた徒弟たち……。どれもドストエフスキイの作品に出てきそうな子ばかりでした。

子どものことや、その苦しみと喜びについての思いはぺローフの脳裏を去りませんでした。そういう思いを抱えた者が作家を訪ねたのです。アンナの回想には「ぺローフは子どものことでうまく会話の糸口を見つけました。それが画家にはプラスに働いたようです」とあります。

ドストエフスキイはぺローフと語らって、いつもよりずっと長く腰を落ちつけていました。そして別れ際に、すぐにでも肖像画にかかることに同意しました。

群像社、ポルドミンスキイ、尾家順子訳『ロシア絵画の旅 はじまりはトレチャコフ美術館』P131-2

ドストエフスキーの1872年といえば、あの『悪霊』を執筆していた時期です。

読んでいるとその陰惨さにこちらも絶望してしまうようなこの作品ですが、それを書いている作家の苦悩はいかほどのものだったのか想像するのも恐ろしいです。まさしく狂気の執筆だったことでしょう。

そしてそんな時にペローフはやって来たというのですからこれは大変です。

ですがアンナ夫人の助けも借りてペローフはドストエフスキーと面会することになります。そしてその糸口となったのは子供達への思いでした。

上の解説にもありましたように、ドストエフスキーは子供達に対して強い思いを持っていました。そして自分たちの子供達を熱愛する父親でもありました。

こうした「子供たちへの思い」という共通の思いがあったからこそ、この肖像画が生まれたのでした。

ドストエフスキーの人柄が偲ばれるエピソードですよね。

『悪霊』という凄まじい作品を執筆している時期の研ぎ澄まされた精神、深い洞察力を感じさせる眼差しをこの肖像画から感じることができます。そしてペローフとのエピソードを知った後では、彼の姿にどこか優しさのようなものも感じられるような気がします。

ペローフとドストエフスキーが深く共鳴したからこその傑作がこの絵画であると思います。

文学という視点だけではなく、絵画という違う視点から眺めるドストエフスキーも非常に興味深いものでした。

以上、「ペローフ『ドストエフスキーの肖像画』制作のエピソードをご紹介!画家の見た作家の素顔とは」でした。

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