R・D・パットナム『われらの子ども—米国における機会格差の拡大』~教育格差と家庭環境について学ぶのにおすすめの参考書!

われらの子ども マルクス・エンゲルス著作と関連作品

ロバート・D・パットナム『われらの子ども—米国における機会格差の拡大』概要と感想~教育格差と家庭環境について学ぶのにおすすめの参考書!

今回ご紹介するのは2017年に創元社より発行されたロバート・D・パットナム著、柴内康文訳の『われらの子ども—米国における機会格差の拡大』です。

早速この本について見ていきましょう。

〈夢なき社会〉と化した米国の姿を、子どもの物語と社会調査で活写した、全米ベストセラー!!

子どもたちにはもう、平等な成功のチャンスはない!
トランプ勝利の背景を抉り出し、日本の近未来をも占う、汎用性の高い戦慄の格差社会論。

米国の社会関係資本(ソーシャル・キャピタル)の衰退を論じ、
≪朝日新聞 ゼロ年代の50冊2000~2009≫にも選ばれた
『孤独なボウリング』の著者が再び世に問う、アメリカン・ドリームの危機。
世代・人種・社会階層の異なる市民へのインタビューと、
緻密な統計分析を通して、成功の機会格差の固定化を実証し、
未来の世代への警鐘を鳴らす、全米ベストセラー。

Amazon商品紹介ページより

この本はアメリカの機会格差について書かれた作品です。

舞台自体はアメリカではありますが日本もまったく他人事ではありません。そこで起こったことはまさに日本でも進行している問題です。

著者はこの本について冒頭で次のように述べています。

私のふるさとは、一九五〇年代にはアメリカンドリームをまずまずには体現していたところで、街のあらゆる子どもにはその出自によらず、一定の機会が提供できていた場所だった。しかし半世紀後には、このオハイオ州ポートクリントンでの暮らしは二画面分割の「アメリカの悪夢ナイトメア」となってしまった。街を二つに分けたときの、貧しい方出身の子どもには、裕福な出身の子どもを待ち受ける将来を想像することすらほとんどできないだろう。そして、ポートクリントンをめぐるストーリーは、悲しくもアメリカの典型であることがわかる。この変化はいかにして起こったのか、それがなぜ問題なのか、われわれの社会のこの呪われた行く先を変化させ始めるにはどうしたらよいのか、が本書の主題である。

創元社、ロバート・D・パットナム著、柴内康文訳『われらの子ども—米国における機会格差の拡大』P9

かつてアメリカには「アメリカン・ドリーム」があった。個人の才能と努力で人生は変えられる!夢を掴める!

しかしそれも今は昔。今や貧しい階級に生まれた子どもにはそんな社会的上昇は望むことができなくなってしまった。それはなぜなのか、今アメリカで何が起きているのかを見ていくのが本書になります。

そしてこの現在の「悪夢」を見ていくことでかつての「アメリカンドリーム」の背景も見えてくることになります。このことについて著者は興味深いことを語っています。

これらの親(※ブログ筆者注、アメリカンドリーム世代)が上方に移動可能だったのは、一つにはその青年時代が上方移動に対して比較的好都合だったからである。彼らに対して「独力で成し遂げたセルフ・メイド」とラべル付けすることは自然なことに見えるかもしれないが、気づかれにくい多くの形で彼らは家族の、そしてコミュニティからのサポートの恩恵を受けており、それはそのようなつましい出自の子どもでは今日たやすくは得られなくなっているものである。彼らの成長した時代は、あらゆる出自の子どもたちの公教育とコミュニティによるサポートが、相当数の人々がはしごを上に登っていくための後押しとしてどうにか機能していた—それはべンドで、ビバリーヒルズで、ニューヨークで、ポートクリントンで、そしてロサンゼルスのサウスセントラルにてさえもそうだったのである。そういった支援制度は、公的なものであれ民間のものであれ、もはや貧しい子どもたちをうまく助けてはいない。これが本書の要点である。

しかし本書の読者のほとんどは、同じような苦境に直面することはない。それは筆者にとっても同じことで、われわれが生んだ子どもたちにとってもまた同じである。アメリカにおいては階級分離が拡大しており、成功した人々の中で、他の半数の人々がどのように暮らしているのかについて十分な知識を持っている人はますます少なくなっている(われわれの子どもではさらに少なくなるだろう)。したがって、恵まれない子どもたちの苦境に対するわれわれの共感は、本来そうあるべき程度よりずっと低くなっているのである。

しかしこの研究を始める前の自分も、そのようなものだった。ポートクリントンでの質素な出自から立ち上がるため、懸命に努めてきたと自分では考えていた—自分の幸運が、どれほど家族とコミュニティ、そしてあのように共同体主義コミュニタリアン的で平等主義的だった時代の公共制度に負っていたかについて、長きにわたって気にとめることはなかった。自分や同級生がはしごを登ることができたのなら、今日のつましい出身の子どもたちもそうできるだろうと考えていた。しかしこの研究を終え、理解が深まった。(中略)

貧しい子どもは自身に何の落ち度がないにもかかわらず、天から与えられた才能を金持ちの子どもと同じように十全に発揮するための備えが、家族や学校、そしてコミュニティによって与えられていない。

創元社、ロバート・D・パットナム著、柴内康文訳『われらの子ども—米国における機会格差の拡大』P257-259

あのアメリカンドリームですら実は「独力で成し遂げたセルフ・メイド」ではなく、実際には多くのサポートがあったからこそであり、現代ではそのサポートを得ることが難しくなっているという指摘は非常に大きな意味を持っていると思います。

そして現代でも成功した側の人間はそのことに目が行かない。自分の経験も恵まれた環境あってのこそだと気づかない。サポートを得られない人たちも「自分たちと同じように努力すれば」成功できると思っている。だがその努力そのものにもアクセスできないというのが現在の経済・教育・機会格差の実態なのでした。

そして巻末で著者は述べます。

数字から何かを学ぶ者もいるが、ストーリーから学ぶ者はより多い。本書の中心の目的は、「もう半分の人々の暮らし」に敏感な意識あるアメリカ人の数を広げることにあるので、金持ちの子どもと貧しい子どものライフストーリーを最重要のものとして置いた。本書の多くには、アメリカの子どもたちの間で安定して見られる、そして拡大中の機会格差を示す厳密な計量的根拠が含まれている。量的データはしかし、アメリカの子どもたちに何が起こっているか、またどうしてそれを憂慮すべきなのかについて語ることはできるが、子どものための機会を育むことがますます私的責任になっているような世界、「われらの子ども」という感覚が縮小する世界の中で成長していくという経験について、そのようなデータが語れることは多くない。

量的データでは、毎日の生活におけるいかに、を示すことはできない。ステファニーのような、ささやかな給料で一人子どもを育てるシングルマザーは、住まいの確保やストリートの危険から子どもたちをどう守るかを案じながら、いかにして子どもと触れ合っているのだろうか。デヴィッドのような、収監された父親やアル中の継母に打ち棄てられたことを苦にする少年は、常に彼を裏切ってきたコミュニティの中で、いかにしてよき父であろうともがいているのだろうか。マーニーのような上層中間階級の母親でさえも、熾烈な仕事と脆弱な家族という世界に対して子どもの備えに問題がないかという毎日の不安に、いかにして向き合っているのだろうか。

創元社、ロバート・D・パットナム著、柴内康文訳『われらの子ども—米国における機会格差の拡大』P293-294

ここで語られる「子どものための機会を育むことがますます私的責任になっているような世界、「われらの子ども」という感覚が縮小する世界の中で成長していくという経験」という言葉はこの本のタイトルにも繋がります。

かつては街全体で子どもを様々な面でサポートしていたものが、今やそれも格差による分断でなくなってしまった。そしてかつては街の人々が子どもたち皆を「われらの子ども」と意識していたものが、今やそれぞれ「わたしの子」しか見ていない。さらには子どもそのものが全く見えていない・・・「われらの子ども」という意識が希薄になった世の中で私達はこれから何をすべきかということを考えていくのがこの本の大きなポイントになります。

また引用の後半では数字と物語の話も出てきました。この本はデータ的な厳密な資料も用いながらも、ストーリーを語ることで格差の問題を実際に見ていくことになります。貧しい環境や家庭環境がもたらす悪影響、それに対し恵まれた家庭がいかに教育に大きな影響を与えるかを物語で見ていくことになります。

ですので非常に具体的でリアルなものとして私たちは格差の現実を突きつけられることになります。

私も「教育」の問題について非常に強い関心があります。最近地元の学校に携わることも増えてきた中でそのことは特に私の中でも大きな問題となっています。ここでそのことについてはお話しできませんが、子どもたちの教育を考える上でもこの本は重大な問題提起となっています。ぜひおすすめしたい一冊です。

以上、「R・D・パットナム『われらの子ども—米国における機会格差の拡大』~教育格差と家庭環境について学ぶのにおすすめの参考書!」でした。

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