スターリンが生まれ育った町の驚くべき荒くれっぷりと読書家スターリンの誕生 スターリン伝を読む⑺

レーニンとスターリン~ソ連を学ぶ

スターリンが生まれ育った町の驚くべき荒くれっぷりと読書家スターリンの誕生 スターリン伝を読む⑺

「スターリン伝を読む⑹」からはサイモン・セバーグ・モンテフィオーリ著『スターリン 赤い皇帝と廷臣たち』の続編にあたります『スターリン 青春と革命』を読んでいきます。こちらは続編ではありますが時系列からいうと前作の前に当たります。

では、早速始めていきましょう。

ソソ(スターリン)が子供時代を過ごしたグルジア(ジョージア)のゴリという町

ソソは典型的なゴリっ子だった。というのは、ゴリの住人たちはグルジア中に「マトラバジ」(大ロたたきの乱暴な悪党)として悪名をとどろかせていたからである。

ゴリは「絵になるような野蛮な慣わし」を続ける最後の町の一つだった。それは飛び入り自由の街頭乱闘で、特別のルールはあったが、禁じ手がなかった。どんちゃん騒ぎと祈りと喧嘩はみな、酔っ払った坊さんたちが仲裁役を務めるということで相互につながっていた。ゴリの居酒屋は、手に負えない暴力と犯罪のシチュー鍋だった。

ロシアとグルジアの行政当局は、中世グルジアが絶えず戦争をしていた時代に軍事訓練として始まった、この怪しげなスポーツを禁止しようと試みた。

ロシア軍の兵舎があったにもかかわらず、「ブリスタフ」(地元警察署長)のダヴリチェヴィと、そのわずかな警官ではほとんど対処できなかった―ゴリの手に負えない無法状態を鎮めることは誰にもできなかったのである。

殴り合いの最中、馬たちが急に駆けだし、馬車が街路上の子供たちを轢き倒すのも無理はなかった。

心理歴史学者たちはスターリンの発達の多くを酔っ払いの父親のせいにしている。しかし、この街頭乱闘の文化も同様に形成要素だった。
※適宜改行しました

白水社、サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ、松本幸重訳『スターリン 青春と革命の時代』P85-86

スターリンはグルジア(ジョージア)のゴリという街に生まれました。

このゴリという街がとにかく強烈です。この後も引用しますがとてつもない荒くれものたちの巣窟だったのです。

ソソの父は貧しい靴職人で酔って彼に暴力を振るう男でした。この父による暴力がスターリンの人生を決定づけたとされることが多いのですが、著者はそれだけではなくゴリのような環境要因も強力に働いていると指摘しています。

ゴリの荒くれっぷり

路上乱闘、レスリング大会、そして学校生徒の喧嘩合戦が、ゴリの勝負の三大伝統だった。

子供に至るまでどの家の男たちも、ワインを飲み、歌いながら、夜になるまで町を練り歩いた。本当の楽しみが始まるのはそれからである。

この「フリースタイル・ボクシングの勝負」―「クリヴィ」は「ルールのある集団対決」だった。最初に三歳の男児たちがほかの三歳の男児たちと取っ組み合った。

次は子供たちが格闘した。その次は十代の少年たちが闘い、最後は大人の男たちが「信じられないような乱闘」をおっぱじめるのだった。その頃までに町は完全に収拾がつかなくなっていた。その状態は翌日まで持ち越された―学校でさえも、クラスとクラスが闘った。商店はしばしば略奪された。

ゴリの人気スポーツは、強豪たちによるグルジア・レスリング、「チダオバ」の試合だった。勝負は旧約聖書のゴリアテの物語にどこか似ていた。試合は特別に高くしたリングで「ズルナ」の伴奏に合わせて行なわれた。これは貴賎貧富、宗教、民族にかかわりなく実力だけが物をいう勝負だった。

地元の地主アミラフヴァリ侯爵のような裕福な貴族、商人、そして各村までも、お抱えの強豪選手を出場させた。これらの強豪たちはとても尊敬されていたので、話しかける時には「パラヴァニ」という称号が使われた。

スターリンの代父エグナタシヴィリ自身、強豪三兄弟の一人だった。今や年をとり、そして金持ちだったので、「パラヴァニ」エグナタシヴィリはお抱えの強豪選手たちを出場させていた。老年になってからも、スターリンは代父の格闘技の勝利をまだ自慢していた。
※適宜改行しました

白水社、サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ、松本幸重訳『スターリン 青春と革命の時代』P87-88

小さな子供から大人まで街中で何でもありの乱闘を繰り広げるのが伝統という、現代日本に住む私たちには想像を絶する世界がそこにはありました。

そしてここで重要なのは「貴賎貧富、宗教、民族にかかわりなく実力だけが物をいう」価値観があり、強さを追い求める精神性がこの街では特に求められたということです。

こうした中で育った人間と秩序と優しさを重んじる環境で育った人間とではだいぶ人間の性格が変わってくるというのは想像ができますよね。

今回引用した箇所の最後にスターリンの代父が出てきましたが、暴力を振るう父親はあまりに危険なためスターリン家から引き離されることになっていたのです。ですが母だけですと経済的に厳しかったため、実質的な代父としてエグナタシヴィリがスターリン家を支援することになっていたのでありました。

ちなみにスターリンの母ケケは美人で有名で、なおかつ気さくで真面目な人だったそうです。そしてスターリンを溺愛する教育ママでした。ケケはスターリンを神父にしたいと考え、彼に教育を授けたのでありました。その教育によってスターリンは教養を手にし、後に独裁者となるなどとはまったく想像もつかなかったことでしょう・・・

読書家スターリン

神学校に進んだスターリン。ロシア朝廷があった当時、神学校ではマルクス主義の本は革命的であるとして読むのを禁止されていました。

さらに、神学校ということで規律も厳しく、そういった類の本を読まないよう「黒点」とあだ名される厳しい職員によって常に監視されていました。

スターリンはヴィクトル・ユゴーの小説、とくに『一七九三年』を発見した。その主人公、革命派の僧侶シムールダンは彼の原型の一つになるだろう。しかし、ユゴーは神学校の教師たちから厳禁されていた。

夜になると、「黒点」が廊下を巡回し、消灯されているか、読書をしていないか、あるいはほかの自堕落な悪徳にふけっていないか、絶えず点検していた。彼がいなくなるとたちまち生徒たちはロウソクを点け、読書を再開した。

ソソはその典型で、「読書をしすぎて、ほとんどまったく眠らず、目がショボショボしていて顔色が悪かった。彼が咳をし始めると」、イレマシヴィリが「彼の手から本を取り上げ、ロウソクを吹き消した」。(中略)

若いスターリンは、急進的な若者たちの間でセンセーションを巻き起こしたロシアの作家たちから、さらにもっと影響を受けた―ニコライ・ネクラーソフの詩とチェルヌイシェフスキーの小説『何をなすべきか』である。

後者の主人公ラフメートフはスターリンにとって断固たる禁欲主義的革命家の原型になった。ラフメートフと同じように、スターリンは自分を「特別の人間」と見なすようになった。

まもなくスターリンは、別の禁書を読んでいる現場を「学校の階段の上で」取り押さえられ、そのために「校長命令で、監禁室への時間延長収容と厳しい叱責」を受けた。

彼は「ゾラを崇拝していた」。このパリ作家の小説で彼のお気に入りは『ジェルミナール』だった。彼はシラー、モーパッサン、バルザック、サッカレーの『虚栄の市』を翻訳で、プラトンをギリシャ語の原典で読み、ロシア史とフランス史を読んだ。

そしてこれらの本をほかの生徒たちに回した。彼はゴーゴリ、サルティコフ=シチェドリン、チェーホフを熱愛し、その作品を暗記した。そして「暗唱することができた」。

トルストイに感嘆したが、「そのキリスト教には退屈した」。後年彼は、贖罪と救済に関するトルストイの瞑想のかたわらに「ハハハ」と書きなぐることになる。

革命の陰謀と裏切りに関するドストエフスキーの傑作『悪霊』の一冊にはたくさん印をつけた。

これらの本は神学生たちのサープリスの下にくくりつけてひそかに持ち込まれた。後にスターリンは冗談で、これらの本の何冊かは革命のために書店から「収奪」(万引き)しなければならなかったと語った。
※適宜改行しました

白水社、サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ、松本幸重訳『スターリン 青春と革命の時代』P121-123

若きスターリンの恐るべき読書欲がここからうかがわれます。彼は晩年にいたるまで読書を続け、その教養は一流の文化人にも匹敵するほどだったそうです。

そしてスターリンが読んでいた本というのも興味深いですね。

チェルヌイシェフスキーの『何をなすべきか』はレーニンも彼のバイブルとして愛読していました。スターリンも同じようにこの書物から多大な影響を受けていたようです。

ユゴーの『一七九三年』、ゾラの『ジェルミナール』はこのブログでも以前紹介しました。

マルクス主義を信ずるということは科学や合理性を重んじることにつながります。そうした面でもゾラの作品と融和性があったのかもしれません。実際、『ジェルミナール』は抑圧された労働者の戦いの物語ですので、マルクス主義者にも非常に好まれた作品でした。

バルザックシラーゴーゴリなどはドストエフスキーがたどった道であるようにやはりロシアの読書家の王道のパターンなのでしょう。そして若きスターリンと同時代人のチェーホフを好んでいたという点も興味深いです。

トルストイの作品に対して「ハハハ」と書きなぐり、逆にドストエフスキーの『悪霊』に対してはたくさんの印をつけた。この点もスターリンを知る上で見過ごすことはできません。

スターリンと『悪霊』

マルクス主義革命家になりつつあったスターリンは神学校を退学し、ギャングのようになっていきます。

そしてついに彼は銃撃事件に関わることになりました。その結果彼はもう後戻りができないところまで行きつくことになります。

この銃撃が意味したのは、当時よく読まれたニヒリストのネチャーエフの本『革命家の教理問答書』が言っているように、「家族、友情、愛、感謝のための、そしてさらには名誉のためのやさしい感情の一切を、ただ革命活動一途の情熱によって押しつぶさねばならない」新しい時代のスタートだった。

善悪の判断にとらわれない超道徳的な掟―あるいはむしろ掟自体の不在―は、敵味方双方の側によって「コンスピラーツィア」(陰謀)と称されている。

それはドストエフスキーの小説『悪霊』に活写されている「別世界」である。「コンスピラーツィア」を理解せずにソヴィエト連邦自体を理解することは不可能だ―スターリンがこの世界と縁を切ることは決してなかったからである。

「コンスピラーツィア」は彼のソヴィエト国家の、そして彼の心理状態の支配的精神になった。

それ以後、スターリンはピストルをべルトに差して携帯した。秘密警察官と革命テロリストたちはいまやロシア帝国を賭けた決闘で対決するプロの秘密戦士どうしとなった。
※適宜改行しました

白水社、サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ、松本幸重訳『スターリン 青春と革命の時代』Pった155-156

ドストエフスキーはまさしくこのネチャーエフの危険性を重く見たからこそ『悪霊』を執筆し世に警告したのでありました。

ドストエフスキーはそうした革命家やテロリストがどのように闇の世界に突き進んでいくかを驚くべきリアルさをもって描いています。

スターリンはそこに自分を見出し、それを嫌悪するどころか自分の糧にしてしまったのでありました。

続く

次の記事はこちら

「スターリン伝を読む」記事一覧はこちらです。全部で14記事あります。

関連記事

HOME